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第4話 神薙の名

 品川区、再開発工事現場。夜十時。


 タクシーを降りた。夜間照明の白い光が鉄骨の隙間から漏れている。鉄と油と、湿った土の匂い。工事が止まった現場特有の、人の気配がない重さだった。フェンスの一部が内側から押し潰されている。妖怪の力だ。


 退魔局の緊急依頼。報酬は中級相場。断る理由がない。


 凛が隣で息を呑んだ。フェンスの向こうを見ている。肩が上がった。拳を握って、開いて、また握る。


「中級……ですよね」


「ああ」


「あの、わたし——」


「来たなら見ろ。見えたら言え。それだけだ」


 凛が口を閉じた。唇を結んで、頷く。


 フェンスの隙間から現場に入った。砂利を踏む音が暗がりに散る。クレーン車が影を落としている。資材置き場の鉄板が夜露に濡れて光っていた。


 先客がいた。コートの下に霊具を携えた三人組。御三家系の制服だ。B級。結界を張ろうとしているが、術式の光が途中で弾けて散っている。水で妨害されている。


 鉄骨の奥。水たまりの中心に、それはいた。緑がかった体表。甲羅。嘴。水搔きのある四肢。河童だ。体高は一メートル半ほど。だが中級の妖気が周囲の空気を湿らせている。体表から薄い水流が常に立ち上っていて、近づくだけで服が濡れる。


 御三家チームの一人が結界を張った。薄い光の壁が河童と作業員の間に展開する。河童が水流を叩きつけた。結界が揺らいで、弾けた。術者が膝をつく。


「くそ、また散った」


「水で霊力ごと弾かれてるんだ。もっと出力を——」


「限界だって。三十分張りっぱなしだぞ」


 B級が三人で手こずっている。水属性は霊術を散らす。霊力で戦う退魔師には相性が悪い。


 現場の奥。鉄骨の陰に作業員が三人、追いやられていた。河童が出口側を塞いでいて、御三家チームの霊術が飛び交う中を横切れない。


 河童の脇を通った。索敵反応なし。霊力ゼロの体は、存在しないのと同じだ。作業員の前に出た。


「怪我は?」


「いや、でも出られなくて……あの化け物と退魔師さんたちの間にいて」


「何分くらいだ」


「三十分は……最初に退魔師さんたちが来て、でも全然倒せなくて」


「動くな。終わったら声をかける」


 作業員が頷いた。顔が青い。三人とも、膝に力が入っていない。


 凛に目配せした。凛が作業員の傍に行った。足元がふらついている。だが、やるべきことは分かっている。


 蔵に触れた。霊喰いの鎖が左手に落ちてくる。重りの冷たい感触。右手を鬼切丸の柄にかけた。


◇◇◇


 河童に向かって歩いた。


 さっきと同じだ。反応しない。十メートル。五メートル。河童の水流が肌を叩き始めた。冷たい。シャツが張りつく。


 三メートル。


 踏み込んだ。


 鬼切丸を抜いて横薙ぎに振る。刃が河童の左腕を断った。手応えがある。断面から水が噴き出す。


 一歩引く。見た。


 断面が塞がった。水が肉に変わり、二秒で腕が元に戻っている。


(再生力が高い——核はどこだ)


 霊喰いの重りを胴体に叩き込んだ。河童の体がへこむ。水が飛散する。すぐに元通りになった。


 三発目。鬼切丸で首を狙う。斬れた。水が噴く。首が再生した。


 四発目。霊喰いを甲羅に叩きつける。ひびが入った。水が染み出す。ひびが消えた。


(どこだ。どこを叩いても戻る)


 河童が反撃した。右腕から水流が鞭のように飛ぶ。横に跳んだ。鉄骨に水流がぶつかって、錆びた金属が悲鳴を上げる。水しぶきが顔にかかった。冷たい。


「フリーが邪魔するな、怪我しても知らんぞ」


 御三家チームのリーダーが叫んでいる。二十代後半。苛立った声だ。


 眼中にない。


 五発目。鬼切丸で大きく袈裟斬りにした。河童の胴体を肩から腰まで裂く。水と肉が弾ける。手応えは充分。


 元に戻った。五回目だ。


 汗が目に入った。拭った。握り直した鬼切丸の柄が滑る。


 凛が鉄骨の陰からこちらを見ていた。目を開けたまま。瞬きをしていない。両手が震えている。膝が震えている。それでも——目を逸らしていなかった。


 河童が水流を放った。二条同時。左右から挟む攻撃。しゃがんで躱した。背後の鉄骨を蹴って間合いを取る。コンクリートの床に着地した。膝に衝撃が来る。


 凛の唇が動いた。声が出ていない。


 もう一度。口が開く。閉じる。手が震えている。爪が手のひらに食い込んでいる。


 声が出た。


「水搔きの間、見えます」


 震えている。だが止まらない。


「黒く……ひびが入って見えます」


 最後まで言い切った。


 向きを変えた。河童の右手。水搔きの指の間。


 二歩で間合いに入った。霊喰いの重りを、そこに叩き込む。


 手応えが変わった。硬い。芯を砕く感触。これまでの五発とはまるで違う。


 河童の動きが止まる。


 体の内側からひびが走る。水搔きから腕へ、腕から胴体へ。水が噴き出して、蒸気に変わった。河童の全身が白い霧になって——散った。


 音が消える。


 水たまりの上に、何もいない。夜間照明の光が湿ったコンクリートを照らしている。河童がいた場所に、水の染みだけが残っている。


 静寂。


 凛の呼吸だけが聞こえた。速くて浅い。震えが止まらないまま、鉄骨に手をついている。


◇◇◇


 御三家チームが呆然と立っていた。B級三人が手こずっていた中級を、D級のフリーが片付けた。その事実を処理できていない顔だ。


 作業員を解放した。三人とも無傷だ。


「もう大丈夫です。出てください」


 凛が声をかけている。声はまだ少し震えていたが、笑顔を作ろうとしている。


「あんた怪我してないか、嬢ちゃん」


「わたしは大丈夫です」


 作業員の一人が凛に頭を下げた。凛が小さく頭を下げ返す。


 鬼切丸を蔵に戻す。腕輪が微かに熱を持って、すぐ冷えた。


 凛がこちらに来た。まだ息が荒い。手を膝につく。顔を上げた。


「あの……わたし、ちゃんと言えましたか?」


「使えた」


 凛の肩から力が抜けた。長い息を吐いた。目が赤い。泣いてはいない。


「怖かったです。足が動かなくて、声も出なくて……でも、見えたから」


「見えたなら充分だ。それが仕事だ」


「はい」


 凛が目元を袖で拭う。一度だけ。それで終わりにした。


 片付けに入ろうとした。


「霊力なしで中級を一発か。フリーのくせに大したもんだ」


 御三家チームのリーダーが近づいてきた。整った顔立ちに、見下す目。


 無視した。


「おい、聞いてるか。こっちは先に現場入りしてたんだ」


「浄化、頼む。残った瘴気はそっちの仕事だろ」


 リーダーの目が細くなった。


「浄化は御三家の領分だ。フリーに指図される筋合いはない」


「じゃあ早くやれ。瘴気が残ると次のが湧く」


 リーダーが歯を噛んだ。だが、反論しなかった。残留瘴気の処理は霊術持ちの仕事だ。事実だから言い返せない。


 凛に目配せする。現場を離れようとした。


「神薙の追放者だろ。見ての通りだな、霊力ゼロってのは」


 足が止まった。


 肩の角度が変わった。右手が蔵に触れている。腕輪の金属が指先に冷たい。


 胃の底が冷えた。


 御三家チームの残り二人が一歩引く。リーダーの顔にも怯えが混じる。


 凛がこちらを見ていた。目が少しだけ見開かれている。


「覚えとけ。俺はD級だ。そのD級が、B級三人で倒せなかったやつを片付けた」


 リーダーの口が開いた。閉じた。何か言おうとして、言葉が出てこない顔だ。


 踵を返す。


 背後で御三家チームの一人が小声で言った。


「おい、あれ本当に神薙の……」


「黙れ」


 リーダーが遮った。


◇◇◇


 工事現場のゲートを出た。


 四月の夜風が汗ばんだ首筋を冷ます。コートの裾が風に揺れた。街灯がアスファルトにオレンジの円を落としている。遠くでトラックのエンジン音がしていた。


 後ろから足音が聞こえた。小走り。凛が追いかけてきた。歩幅を合わせようとして、半歩遅れている。


「神崎さん、手」


「何だ」


「血が出てます。さっき鉄骨で切ったんじゃないですか」


 右手の甲を見た。確かに浅い切り傷がある。いつのだ。気づかなかった。


「大したことない」


「……神崎さん」


「放っとけ」


 凛が黙った。だが、鞄からハンカチを出して差し出してきた。白い布。アイロンがかかっている。


 受け取る。巻いた。


 しばらく二人で歩いた。


 凛が何か言いかけて、口を閉じる。もう一度開いて、また閉じた。三度目で、声になった。


「神薙……って、退魔御三家の」


「ああ」


「神崎さんが、そこの——」


「俺の昔の話だ。今は関係ない」


 口角が下がっているのが分かった。飄々とした顔を作る余裕がない。手をポケットに突っ込んだ。歩く速度が少し上がっている。自覚はある。


「……そうですか」


 凛はそれ以上聞かなかった。踏み込んでこない。前にも同じことがあった。聞かないという選択をしている。


 街灯の下を二人で歩いた。靴音だけが交互に鳴っている。凛のスニーカーは軽い音で、俺のブーツは重い。


 どちらも何も言わなかった。


 工事現場の湿った空気が、歩くにつれて夜の乾いた空気に変わっていく。コンビニの看板が白く光っている。タクシーが一台通り過ぎた。排気ガスの匂いがして、すぐ消える。


 信号が赤に変わった。立ち止まる。凛も足を止めた。横断歩道の白線が蛍光灯に照らされている。


 信号が青に変わった。歩き出した。凛がついてくる。


 右手をポケットの中で開いて、閉じた。蔵の金属の感触はもう指先にない。手のひらの体温だけがあった。


 凛の靴音が、隣で鳴り続けていた。

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