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第3話 依頼の匂い

 ドアを開ける前に分かった。

 スマートフォンの操作音。脅威ではない。


 入った。凛がデスクの前に座っていた。三日連続だ。合鍵は昨日渡した。もう使っている。


 デスクの端に袋が置いてあった。コンビニのロゴ。おにぎりが二つ、缶コーヒー。温かいほうだ。


 頼んでいない。


「神崎さん、新宿御苑あたり、ここ三日で投稿が五件増えてます」


 挨拶より先に数字が来た。


「で?」


 缶コーヒーのプルタブを引いた。ぬるい。温かいほうを選んでいる。朝の俺の好みを、三日で把握した。


 凛が画面をこちらに向けた。妖怪速報のタイムライン。新宿御苑周辺の投稿が並んでいる。「棚の物が勝手に落ちた」「夜中にカチカチ音がする」「時計が止まったり動いたりする」——典型的な付喪神の症状だ。


 投稿者のコメント欄には「怖すぎ」「引っ越したい」「退魔師呼んだ方がいい?」が連なっている。素人の反応としては正しい。


「下級が増える前に動いたほうがいいと思って……あ、依頼も来てますよ」


 凛がメール画面を指差した。新宿御苑近くの商店主からの依頼。報酬は——まあ、下級相場だ。悪くない。


 朝から妖怪速報を分析して、依頼の事前情報を地図に落として整理してきた。退魔師でもないのに仕事の段取りを把握している。三日で。


「行くぞ」


「はいっ」


 動くのが先で、考えるのが後だ。


◇◇◇


 新宿御苑から二ブロック東。古い時計店の前に、五十代の男が立っていた。エプロンをつけたまま、店の前を行ったり来たりしている。依頼人の商店主だ。


「しばらく前から棚の物が落ちて、夜中に変な音もして……修理品の時計が勝手に動くんですよ」


「いつからですか」


「一週間くらい前から。最初は気のせいかと思ったんですが、昨日なんか振り子時計が三つ同時に鳴りまして」


「三つ同時に」


「ええ。全部止めてあったやつが」


 店内に入った。古い木造の棚に修理待ちの時計が並んでいる。埃っぽい。天井が低い。奥の壁にかかった鳩時計の針が、ゆっくりと逆回転していた。


 瘴気の濃さを確認した。軽い。下級だ。出口は入口のみ。


 凛が一歩踏み出して、店の奥を見た。目を細める。数秒。


「あそこです、窓の上——ちらついて見えます」


 前回より声が安定している。迷いがない。見えたものを、見えたままに言い切っている。


 窓枠の上、天井との隙間。壊れた掛け時計の裏に、小さな影がうずくまっていた。付喪神系の下級。古い時計に宿った残留思念が妖怪化したやつだ。黒い靄のような輪郭の中で、歯車がカチカチと噛み合う音がしている。


 鬼切丸を抜いた。一歩で間合いに入り、振り下ろす。刃が影を断つ。霧散。歯車の音が止まった。


「えっ、もう終わりですか?」


「終わり」


 鬼切丸を鞘に戻した。商店主が口を開けたまま立っている。逆回転していた鳩時計の針も止まっていた。依頼完了。報酬は後日振込。書類にサインをもらって、店を出た。


◇◇◇


 外の路上。四月の午前の陽射しが歩道に落ちている。桜はもう散って、緑が濃い。


 凛がまたスマートフォンを取り出していた。妖怪速報と地図アプリを交互に開いて、何かを確認している。歩きながら画面を操作するので、二度ほど電柱にぶつかりそうになった。


「この地域、最近下級が多いですよね」


「多いな」


「瘴気が溜まってる場所があるんじゃないかって。このあたりと、あと——」


 凛が立ち止まって、画面をこちらに向けた。地図上に赤いピンが五つ。妖怪速報の投稿位置をプロットしたらしい。ピンが御苑の南東側に集中している。半径五百メートルくらいの範囲に固まっている。


 当たっている。


「……瘴気は妖怪が発生する原因になる」


 間違った方向で調べられると困る。だから教えた。


「やっぱりそうなんですね。じゃあ、投稿が集中してるエリアの中心付近に瘴気の発生源があるかも——」


「わかったところで祓うのは俺だけどな」


「だから事前にわかったほうがいいじゃないですか」


 正論だった。


「妖怪は四段階ある。下級、中級、上級、災厄級。下級が集まる場所には、そのうち中級も来る」


 凛が目を丸くした。


「中級って、どのくらい強いんですか」


「下級の十倍面倒くさい」


「……それは強さの説明になってないと思います」


 退魔師協会の情報分析班と同じ手順を踏んでいる。データを集めて、地図に落として、傾向を読む。あっちは霊力持ちの専門職で、こっちは十八歳の素人だというだけだ。


 凛が地図を拡大して、ピンの間隔を指で測っていた。何かに夢中になっているときの顔だ。眉が少し寄っている。


 ——小春も、こういう顔をしていた。


 視線をそらした。手に何も持っていないことに気づいた。


「神崎さん、ここの半径三百メートルに——」


「戻るぞ。報告書を書かないといけない」


「あ、はい」


 凛が小走りでついてくる。俺は前を向いたまま歩いた。


◇◇◇


 事務所に戻った。報告書をパソコンで打ち込んでいると、凛がお茶を淹れてくれた。湯気が立っている。頼んでいない。


「神崎さん」


「ん」


「わたし、もっと役に立てますか」


 手を止めた。凛の顔を見た。不安そうな顔じゃない。確認している顔だ。次にやるべきことを探している目。


「今のままで充分だ」


「本当ですか?」


「俺が嘘言ったことあるか」


「……報酬の交渉、いつも盛りますよね」


 黙った。


 凛が少し笑った。口の端だけ上がる、控えめな笑い方。


 なるほど。


「盛ってない。適正価格だ」


「依頼人さん、毎回びっくりしてますけど」


「驚かれるのは適正だからだ」


「それ、理屈がおかしいです」


 反論を諦めた。お茶を飲む。悔しいことに、うまい。


 報告書の続きを打った。キーボードの音と、凛がスマートフォンをスクロールする音が交互に鳴る。事務所に人がいるのは——まだ慣れない。静かすぎないのが、落ち着かない。


 夕方になった。窓から差し込む光がオレンジに変わっていた。報告書を送信して、椅子の背にもたれた。


 スマートフォンを取り出した。メッセージアプリを開いた。連絡先を一つ選ぶ。登録名は表示されない。番号だけだ。短い文章を打つ。


『御苑南東、瘴気の兆候あり。情報求む』


 送信。


「誰ですか?」


 凛が顔を上げていた。


「別のルートがある」


 画面を伏せてデスクに置いた。


 凛が何か言おうとした。口が開きかけて、閉じる。俺の顔を見ている。


 自分でもわかる。口角が下がっている。飄々とした顔を作る余裕がない。このメッセージを送るたびに、胃の底が冷える。返信が来るかどうかもわからない。来たら来たで、面倒なことになる。


 事務所の時計の秒針だけが動いている。カチ。カチ。カチ。さっき祓った付喪神の歯車の音と、少しだけ似ていた。


「……そうですか」


 凛はそれ以上聞かなかった。デスクの上のスマートフォンを静かに鞄にしまって、「お先に失礼します」と頭を下げた。ドアが閉まる。足音が階段を降りていく。


 窓の外を見た。ビルの隙間から見える空が、夕焼けに染まっている。


 その向こう側に、まだ連絡のつかない相手がいる。

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