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第2話 妖怪を読む少女

 曇り空の朝。事務所前のアスファルトに、昨夜の雨の匂いがまだ残っている。


 七時ちょうど。日向凛が立っていた。


 昨日と同じパーカーにジーンズ。首元のペンダントが曇天の薄い光を受けて鈍く光っている。腕時計をちらりと見て、それから顔を上げた。


「ちょうどだな」


「時間は守るほうなので」


(几帳面か。まあ、遅刻されるよりはマシだが)


「中野区だったな。電車か」


「はい。二十分くらいです」


 改札を通って、ホームに出る。風が冷たい。四月の頭にしては肌寒い朝だ。


 電車が来た。朝の車内はまだ空席がある。並んで座ったが、一席分の隙間を空けた。吊り広告が揺れている。窓の向こうに灰色の空と、まだ寝ぼけた街並みが流れていく。


 日向が携帯を取り出した。画面を傾けてこちらに見せてくる。


「あの、昨日も同じ地区で目撃報告が上がってて。この交差点あたりなんですけど——」


「うるさい。現場で考える」


 画面を覗き込みかけた自分の首を引っ込めた。妖怪速報の投稿ページ。スレッドに三件の書き込み。中野区の住宅街で霧状のものが目撃されている。


「……三件とも夜中の目撃ですね。時間帯、偏ってます」


「分かってる」


(自分で情報を集めてるのか。珍しい依頼人だ)


「お母さんの症状が出始めたのも、二週間前の夜からで——」


「だから現場で見る。情報だけで判断すると外す」


 日向は口をつぐんで携帯をしまった。窓の外に視線を戻す。扉の窓を流れる街並みを見ている横顔は、昨日と同じように緊張していた。


「……すみません」


「謝るな。来てから考えろ」


 それきり、電車が駅に着くまで二人とも喋らなかった。


◇◇◇


 中野区の住宅街。築四十年ほどの木造アパートの一階。


 玄関を開けた瞬間、匂いが来た。畳と古い木の匂いに混じって、腐った水草のような臭気。薄い。だが確実にある。


(いる。憑き物系。……匂いの濃さからして下級だ)


「この匂い……ずっとしてたんですか」


「二週間前から。最初は排水かと思って業者を呼んだんですけど、異常なしで」


 靴を脱いで廊下に上がる。フローリングが冷たい。足裏から伝わる木のきしみで、建物の古さが分かる。玄関の靴箱の上に家族写真が一枚。日向と、日向より少し背の高い女性。二人とも笑っている。


「奥の部屋ですか」


「はい。ここ二週間、ほとんど起き上がれなくて」


 廊下の奥、和室の襖が半分開いていた。


 日向の母は六畳の和室で布団に横たわっていた。顔色が蒼白。天井をぼんやりと見上げたまま、こちらに気づいた様子がない。枕元に薬の瓶が三つ並び、小さなテレビの電源は切れたままだった。


「お母さん。退魔師の方が来てくれたよ」


 日向が母の枕元にしゃがんだ。母の手を取る。返事はない。母の唇が微かに動いて、聞いたことのない地名を呟いた。古い言い回しだ。本人の記憶じゃない。


 日向の指先が、握った母の手の冷たさに一瞬止まる。


 部屋の隅に目をやる。


 いた。天井近くの壁際に、霧のような塊が漂っている。輪郭が定まらない。ゆっくりと脈打つように膨らんでは縮む。人の形をしていない。ただの靄。だが靄の中心だけが、わずかに色が濃い。


 日向がそちらを見た。


「あそこ、なんか——」


 声が途切れた。


 日向の肩が硬くなる。口を開いたまま、音が出ていない。膝の上の手が小刻みに震えていた。


「下がってろ」


 それだけ言って、立ち上がった。蔵から霊喰いを引き出す。左手首の腕輪に右手で触れると、紫色の波紋が走った。手のひらに鎖の冷たい感触が落ちてくる。鎖付きの重り。霊体にも物理干渉ができる、俺の数少ない対霊装備だ。


◇◇◇


 霊喰いの重りを振り上げて、靄の中心に叩き込んだ。


 手応えがない。


 重りが靄を通過する。霧が一瞬散って、すぐに集まり直す。


(どこだ。核がない。見えない)


 二発目。鎖を引き戻して横から振る。靄が散った。すぐに集まり直す。天井近くをゆらゆらと漂い、どこを叩いても核が見当たらない。


 三発目を構えた。


 背後から、声が聞こえた。


「左の端——少し上。そこだけ、黒く……ひびが入って見えます」


 震えている。声が細い。だが最後まで言い切った。


 迷わなかった。重りを左上に振り上げて叩き込む。


 靄が弾けた。内側から引き裂かれるように収縮して、黒い粒子が空気に散る。腐った水草の匂いが一瞬濃くなって、消えた。


 静寂。


 母親が深く息を吐いた。天井を見ていた目が、ゆっくりと動いて——日向を見た。


「……りん? ここ、どこ」


「家だよ、お母さん。自分の部屋」


「……そう。なんか、長い夢を見てた」


 日向の声が揺れていた。


 すぐに閉じた。使える。あの目は使える。


◇◇◇


 霊喰いを蔵に戻す。腕輪が微かに熱を持って、すぐ冷えた。


 母親の顔色が少しずつ戻り始めている。呼吸が深くなった。日向が母の手を握り直したとき、母の指がわずかに握り返した。


「お母さん、分かる? わたしだよ」


「……りん。おなか、すいた」


 日向が笑った。目が赤い。泣いてはいなかった。


「すぐ作るね。お粥でいい?」


 母親が小さく頷いた。


「——完了だ。祓い切った」


「ありがとうございます。本当に」


 日向が深く頭を下げた。日向家を出て、近くの公園まで歩く。遠くで子供たちの声がした。


「残りの報酬をお支払いします」


「残りはいい」


「え……」


「その代わり、事務所を手伝え。お前の目——弱点が見えるやつ。使わせてもらう」


 日向が足を止めた。こちらを見上げている。何を言われたのか処理しきれていない顔。


「……それって、お金を払わなくていいということですか」


「そういうことだ。次に依頼が入ったら連絡する。来い」


「あ……はい。行きます」


(損はしない。日向の目は金になる)


(弱点知覚があれば、不定形の妖怪にも対処できる。効率が段違いだ。報酬の残りを免除しても釣りが来る)


 公園の出口に向かう砂利道。桜が三分咲きで、花びらが足元に散っている。


 住宅街の道に入ったところで、前方から二人組が歩いてきた。コートの下に霊具の輪郭が見える。退魔師だ。片方がこちらを一瞥して、口角を上げた。


「フリーか」


 無視して通り過ぎた。


「フリーって何ですか」


「御三家に雇われてない退魔師のことだ」


「……馬鹿にされてるんですか」


「慣れてる。気にするな」


 二人組が近くの塀の前で足を止めた。片方が手をかざすと、薄い光の膜が塀の表面に広がっていく。青白く、触れれば指を弾きそうな密度がある。


「あれは?」


「結界。霊術で張る壁だ。俺には張れない」


「張れない……それって、不利じゃないですか」


「不利だ。だから別のやり方で殴る」


「……なぜ霊力なしで戦えるんですか」


「体がおかしくなってるだけだ。空転体って言う。俺だけの欠陥品だよ」


「……欠陥品って、自分で言うんですね」


「事実だからな」


 それ以上は聞かなかった。前を向いて歩いた。踏み込んでこない。


「あの……さっきのひびが見えたこと、自分でもなぜなのか分からなくて」


「理由なんかどうでもいい。見えるなら使える」


「使える……」


「次も変なとこが見えたら教えろ。それだけだ」


「……役立てたんですか、本当に」


「試す価値はある」


(本物だ)


 影鬼の手がかりは今回もなかった。霧状の下級。何の関係もない。


 だが——使える駒が手に入った。弱点知覚があれば、拾える情報が増える。影鬼に繋がる案件に当たったとき、こいつの目が要る。


「あの、連絡先を交換しておいたほうがいいですか」


「……そうだな。番号だけでいい」


 携帯を出して番号を交換した。曇り空の下、駅へ向かう。日向が半歩後ろをついてくる。さっきまで震えていた手は、もうポケットの中に収まっている。


 次の依頼。次の現場。次にこいつの目が何を見るか。


 考えながら、改札に向かって歩いた。

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