第1話 霊力ゼロの退魔師
腐った排水と焼き鳥の脂が混じった匂いが鼻を突く。
歌舞伎町の裏路地。午前二時。ネオンの残光が濡れたアスファルトを赤く、青く染めている。酔っ払いの声は表通りに遠く、この路地には人の気配がなかった。
代わりに、別のものがいる。
路地の奥。ゴミ捨て場の前に立つ二メートルを超える巨体。赤黒い肌に浮き出た血管。太い角が二本、額から突き出ている。鬼だ。中級。妖怪速報に上がっていた目撃情報で来てみたが、当たりだったらしい。
「また中級か。……最近多いな」
声は路地の壁に吸われて消えた。
鬼がこちらを向く。ぎょろりと黄色い眼が動いた。だが視線が定まらない。索敵している。妖怪は周囲の霊力を探ることで、退魔師の接近を察知する。それが連中の基本的な防衛手段だ。
だが俺からは何も出ない。霊力がゼロだから。
見えているのに、感じ取れない。二メートル先に人間が立っているのに、妖怪の感覚では「何もいない」のと同じ。それがどれだけ不気味かは知らないが、こっちにとっては好都合だ。
左手首の黒い腕輪に触れる。蔵。複数の霊具を格納する収納型の霊具だ。慣れ切った手つきで中から鬼切丸を引き出した。手のひらに刀の柄の硬い感触が伝わる。刀身に微かな白い光が走った。物理特化型。霊力で駆動するタイプの霊具は俺には使えないが、こいつは違う。素材そのものに破魔の力が宿っている。
(これで行ける)
鬼が吼えた。地面が震えるような重低音。路地の壁にかかっていたスナックの看板がびりびりと鳴り、ビニール袋が風もないのに転がった。
踏み込んだ。
◇◇◇
鬼の右腕が振り下ろされる。太い丸太を叩きつけるような一撃。風圧で路面の水たまりが弾けた。
遅い。
身を沈めてかわす。鬼の拳がアスファルトを砕く。砕けた破片が頬をかすめた。構わない。右足でアスファルトを蹴り、鬼の懐に入る。
霊力索敵が効かないということは、連中は目と耳で追うしかない。だが俺の動きには足音がない。空転体——霊力ゼロの代わりに得た、人間の限界を超えた身体能力。覚醒したときの記憶は曖昧だが、この体だけは確かに俺のものだ。
鬼が腕を振り回す。闇雲に。俺がどこにいるか分からないまま、空気を切り裂く。
一歩で間合いを詰めた。鬼切丸を腰だめに構え、横薙ぎに振り抜く。手首に走る硬い衝撃。刃が鬼の腹を深く裂いた。
鬼の動きが止まる。
黄色い眼が驚愕に見開かれた。口が動いたが声にならない。一拍遅れて、体が煙のように崩れ始める。足先から、胴体へ。黒い霧が路地に広がり、すぐに薄れていった。
瘴気の残滓。腐った土に似た匂いが鼻の奥に残る。
静けさが戻った。遠くでネオンの電源がじじ、と鳴っている。排水溝を流れる水音。それだけだ。
(また無駄骨か。影鬼の情報が出るかと思ったが、外れだ)
鬼切丸を蔵に戻す。左手首の腕輪が微かに熱を持って、すぐに冷えた。
別に依頼でもなんでもない。たまたまここを通って、たまたま妖怪速報の投稿が目に入って、たまたま足が向いただけだ。金にならない仕事は、もうしないと決めたんだがな。
路地を出て大通りに向かう。D級免許。退魔局——内閣府の外局で、退魔師の免許を発行する政府機関——が定めた退魔師のランクで最低のやつだ。霊力がゼロの退魔師なんて前例がないから、二年間フリーで下級妖怪を百体以上祓った実績を持ち込んで、特例で取得するしかなかった。
退魔御三家——この業界を牛耳る名門三家——は反対したらしい。特に神薙家は。
(……まあ、知ったことじゃない)
始発の電車に乗る。車内はまだ空いていた。窓に映った自分の顔は、いつも通り疲れている。
(金のためだ。足が事務所に向く)
◇◇◇
雑居ビルの三階。「神崎退魔事務所」と書かれた安っぽいプレートの前に、人が立っていた。
早朝五時半。東の空がうっすら白み始めた頃だ。こんな時間に客が来るような事務所じゃない。
高校生くらいの女の子。栗色のセミロングをポニーテールにまとめている。パーカーにジーンズにスニーカー。首元に小さなペンダントが覗いていた。緊張で肩が上がっている。寒さのせいか、それとも別の理由か。
目が、逃げていない。
手が、一瞬止まった。
「あの、すみません……神崎退魔事務所さん、ですよね」
「看板に書いてある」
「あ、はい。……依頼をお願いしたくて」
「開店前だが」
「す、すみません。でも、妖怪速報で口コミを見つけて……朝早くに行けば会えるかなって思って、それで」
妖怪速報。一般人が妖怪の目撃情報を書き込む掲示板サイトだ。退魔師も匿名で情報収集に使っている。あそこに俺の事務所の口コミが載っているとは思わなかった。たぶん「御三家より話しかけやすいけど態度は最悪」くらいの評価だろう。
「口コミって何て書いてあった」
「えっと……『御三家に断られた依頼を引き受けるフリーがいるらしい。御三家よりは安い。態度は期待するな』って」
(当たってるから何も言えない)
「……入れ」
鍵を開けて中に通した。六畳ほどの事務スペース。壁一面に依頼書と妖怪資料が貼られている。小さな応接セットの椅子を指さして座らせ、向かいに腰を下ろす。コーヒーメーカーのスイッチを入れた。ごぼごぼと鳴り始める。
「名前と、何が出てるか。順番に」
「日向凛です。十八歳で……母が、妖怪に取り憑かれているみたいで」
「みたい、ってのは。病院には行ったのか」
「はい。自律神経失調症って言われました。でも薬が全然効かなくて」
「いつからだ」
「二週間くらい前からです。最初はなんとなく体調が悪い、くらいだったんですけど……ここ数日で急にひどくなって」
「ひどくなった、ってのは具体的に」
「横になったまま起き上がれなくて。目の焦点が合わなくて、天井をぼんやり見てるだけで。あと、時々……知らない地名とか、知らない人の名前を呟くんです」
「知らない地名ってのは、どんなやつだ」
「聞いたことのない場所ばかりで……古い言い方というか。母が知ってるはずのない名前ばかりなんです」
それは本人の記憶じゃない。妖怪の記憶が侵食しているときの典型だ。
「実は前にも一回、母は妖怪に取り憑かれたことがあって。その時は自然に治ったんですけど、今回は全然よくならなくて」
前にも。俺は顔には出さなかった。が、頭の隅に引っかかりだけ残した。取り憑かれやすい体質というのはある。珍しいが、ないわけじゃない。
「手は冷たくないか。その人の」
「え……はい、氷みたいに。握っても全然温かくならなくて」
やっぱりな。体温低下は瘴気を吸われてる証拠だ。
「症状は分かった。何が出てるかによって金額が変わる」
「金額……ですか」
「仕事だからな。憑き物系の下級だろう。なら十五万から。中級が混じってたら追加になる」
「十五万……」
「退魔の相場じゃ安い方だ。中級なら百万超える。上級は桁が変わる」
日向の指先が膝の上で止まった。十五万。高校を出たばかりの子供にはきつい金額だ。だがここで値引く気はない。
「頭金を先に払え。残りは現場を確認してから確定する。うちのルールだ」
「頭金……」
「最低でも三万は先に欲しい」
間があった。財布を開く音。テーブルの端に、三万円が静かに置かれた。
財布の中がほぼ空になっているのが見えた。だが日向は何も言わなかった。ただこちらを見ていた。
(断っていい。依頼リストにもない案件だ)
「わかった。受け取った。残りは後で言う」
「ありがとうございます。必ず、払います」
「感謝は仕事が終わってからにしろ」
立ち上がって、明日の段取りを決める。
「明日の朝、七時に事務所前に来い。そこから案内してもらう」
「七時ですね。はい、必ず来ます」
「遅刻したら追加料金な」
「え、本当ですか」
「冗談だ」
「……あ。冗談、ですか。よかった」
日向が深く頭を下げた。俺はひらひらと手を振って返した。大げさな礼はいらない。依頼を受けただけだ。
ドアが閉まる。足音が階段を下りていく。一段ずつ、丁寧に。やがて聞こえなくなった。
静かになった事務所で、コーヒーメーカーのランプだけが緑色に光っている。コーヒーの匂いが狭い部屋に広がり始めた。
(金のためだ)
カップに手を伸ばしながら、窓の外を見た。東の空が白い。明日の朝は七時だ。




