第10話 迅の妹
蛍光灯を消した事務所で、地図を広げていた。
新宿。品川。赤いマーカーで印を打つ。目撃日時を隣に書き添えた。五日の間隔。二件の目撃。信憑性は五分五分。それでも、七年間で一番近い手がかりだった。
ペンが止まる。掌を開いた。爪の痕が四つ、昨夜からまだ残っている。
蔵を開いた。鶴丸の柄に触れる。白木が指先に冷たい。重心が手元寄り。片手で振れる。鬼切丸とは系統が違うが、属性攻撃の受け流しが利く。装備は揃った。
時計を見た。午前二時。窓の外は暗い。通りに人影はない。今から出れば、新宿の目撃地点まで四十分。
眷属が出た場所を潰せば、本体の行動範囲が絞れる。一人で行けば凛を巻き込まない。
コートの袖に手を通しかけた。袖口が机の角に引っかかった。地図の端がめくれる。赤い印が一瞬隠れて、また見えた。
手が止まる。コートを椅子の背に掛け直した。もう少し情報を整理してからのほうがいい。移動経路を特定してからのほうが効率的だ。
そう判断したことにして、ペンを握り直した。
───
鍵が回る音がした。
朝の光が入口から差し込んだ。凛が事務所に入ってくる。ポニーテールが揺れている。手にコンビニの袋。いつもの時間だ。
「おはようございます。……あれ」
凛の足が止まった。俺の机に地図が広がっている。赤いマーカーの印。走り書きの日時。缶コーヒーが三つ、地図の端に並んでいる。
「これ、昨夜の——闇市場の情報ですか」
「ああ」
凛が地図を見た。視線が赤い印を辿る。新宿。品川。メモの日時。視線が印から俺の顔に移った。目が一瞬だけ細くなる。
コンビニの袋をデスクに置いた。
「寝てないですよね」
「別に」
「缶コーヒーが三つあります。全部空です」
数えるな。
「神崎さん」
凛の声のトーンが変わった。
「一人で行こうとしてたんですか」
答えなかった。地図に目を戻す。赤い印が二つ、朝日の中で光っている。
「行かないでください」
手が止まった。凛の声に、いつもの遠慮がなかった。
「一人では、行かないでください」
顔を上げた。凛がこちらを見ている。鞄の紐を両手で握っている。指先が白い。足は動いていない。逃げる気配がない。
数秒、何も言えなかった。昨夜から回り続けていた計算が、止まった。
「……分かった」
ペンをデスクに置いた。椅子の背もたれに体重を預ける。天井を見上げる。低い天井だ。
スマートフォンを取り出した。連絡先を開く。何度か使った番号。メッセージを打つ。
『影鬼の眷属。都内で2件。情報求む』
送信した。画面を伏せて置く。凛が静かにコンビニの袋からパンと缶コーヒーを出している。温かいほうを俺のデスクに置いた。四つ目の缶。
三分で返信が来た。
『おー、久しぶり。詳しい話は直接聞きたいな。今日の午後、そっち行っていい?』
画面を見た。面倒な顔が浮かんだ。
「来る、って」
「誰ですか?」
「……悪友だ。退魔師っていうより、退魔師を管理する側の人間」
「裏側?」
「待ってれば分かる」
◇◇◇
午後。事務所のドアが開いた。
長身。黒髪を短く整えている。高そうなコートの下にスーツ寄りの私服。四月なのにまだ手袋をしていた。細い目が笑っている。口角が上がる。
だが、目だけが笑っていなかった。
「よう、迅。相変わらずボロい事務所だな」
「うるせえ。で、情報は」
「まずは久しぶりとか言えないのか」
晴輝が肩をすくめた。事務所を一周見回す。壁の染み。端が点滅している蛍光灯。狭い応接スペース。笑みは崩さない。だが目は全部を査定している。
視線が俺の後ろに移った。凛がデスクの横に立っている。
「……へえ。事務員?」
「事務担当です」
凛が軽く頭を下げた。晴輝の視線が一瞬だけ鋭くなる。凛の顔を見て、何かを読み取ろうとしている。すぐに笑顔に戻った。
「俺は土御門晴輝。御三家のほうの人間だ」
凛の目が見開かれた。一拍置いて、俺のほうを見る。
「どうも、日向凛です」
「日向さんか。迅が事務員を雇ってるとは思わなかった。給料出てる?」
「出てます」
「嘘だろ」
「出してる」
晴輝が笑った。今度は少しだけ目が笑っていた。椅子を引いて座る。コートは脱がない。手袋も外さない。
「で、影鬼の眷属だろ」
声のトーンが変わった。軽口が消えて、声が低くなる。
晴輝が内ポケットから折り畳んだ紙を出した。地図だ。俺のと同じ縮尺の都内地図。赤と青の印が入っている。
「うちのデータだと三件だ。お前が掴んだ二件と一件被ってるから、合計四件」
紙を俺の地図の横に並べた。凛が横から覗き込む。二枚の地図に散らばった印。バラバラに見える。
「目撃場所が四つ。時間帯は全部夜。移動パターンは——」
「不規則に見えますけど」
凛が口を開いた。晴輝の言葉を遮る形になった。指が地図の印を順に指している。
「瘴気が溜まりやすい場所を避けてます。わざと。この二つは公園の近く、こっちは住宅街の真ん中。妖怪が集まる場所じゃなくて、集まらない場所に出てます」
晴輝の手が止まった。凛を見る。目が変わった。品定めの目だ。軽口の顔ではない。
「……いい目してるな、お嬢ちゃん」
「そいつの目は本物だ。で、それが何を意味する」
晴輝が椅子に深く座り直した。指を組む。
「影鬼は瘴気を求める妖怪じゃない。瘴気を避けてる。弱い場所を好む」
「弱い場所」
「人間が多いところ。霊的に静かなところ。隠れるのに適した場所だ」
胃の底が冷えた。四つの印の周囲を思い浮かべた。住宅街。公園。通勤路。スーパーの駐車場。子どもが走り回っている場所。買い物帰りの人が歩いている道。日常の中に、あれが紛れている。
七年前、小春が死んだのも——神薙家の屋敷ではなく、任務先の住宅街だった。
手がデスクの上で止まっていた。指先が冷たい。
「あと一つ」
晴輝の声がさらに低くなった。
「眷属の目撃があった時期、うちの調査班も動いてた。で——鳳凰院の連中も同じ時期に何かやってたらしい」
鳳凰院。また出てくる名前だ。
「何を」
「分からない。俺の立場じゃ、そこまでは掴めない。分かるだろ?」
晴輝が立ち上がった。コートの襟を正す。手袋をした手でドアノブを掴んだ。
「じゃあな、迅。無茶すんなよ」
ドアに向かう。振り返った。
「……まあ、するんだろうけど」
ドアが閉まった。晴輝の足音が階段を下りていく。消えた。
◇◇◇
事務所に二人だけになった。
凛が地図を片付けている。晴輝の分と俺の分を並べて、赤い印をメモに書き写している。四つの点。時間帯。推定距離。丁寧な字だ。
窓の外を見た。夕方の光が差し込んでいる。ビルの隙間からオレンジ色の空が覗いていた。
凛がペンを置いた。
「神崎さん」
答えなかった。窓の外を見たままだ。
「影鬼って——なんですか。あなたにとって」
夕日の光が床を赤く染めていた。埃が光の中で舞っている。蛍光灯の低い唸りだけが聞こえる。
長い沈黙が落ちた。
「……妹がいた」
凛の手が止まった。メモを持ったまま、動かない。
「七年前に死んだ。影鬼に殺された。神薙家の任務中に——」
声が途切れた。窓の外を見ている。オレンジ色の空が、少しずつ暗くなっていく。
「妹は霊力があった。家に期待されてた。俺は霊力がなくて追放された」
視線が窓から凛のほうに動いた。一瞬だけ。すぐにそらした。
手がデスクの端を掴んでいた。指の関節が白い。
「追放された後に——妹が死んだ」
それ以上、言葉が出なかった。喉の奥が詰まっている。息を吐いた。浅い。
凛は何も言わなかった。メモをそっとデスクに置いた。両手を膝の上に置いている。
静かだった。蛍光灯の音と、外の車の音だけが遠くから聞こえている。
凛が俺の横顔を見ていた。視線に気づいたが、振り向かなかった。
凛の中で、何かが繋がったのだと思う。事務所で俺がふと視線をそらす瞬間。何かがよぎって、すぐに別のことを始める。あの目。何度かあった。今まで何なのか分からなかった。
「……教えてくれて、ありがとうございます」
凛の声は小さかった。震えてはいなかった。
───
沈黙が続いた。
凛が立ち上がった。
「コーヒー、淹れます」
「……ああ」
キッチンに向かう足音。水が流れる音。ケトルが低く唸る。コーヒーの粉がカップに落ちる音。スプーンが砂糖を一つすくう。縁に軽く当たった。
俺の分がデスクに置かれた。湯気が細く立ち上っている。
凛が自分のカップを持って、向かいの椅子に座った。
二人でコーヒーを飲んだ。何も言わない。窓から差し込む光が赤い。事務所が橙色に染まっている。
凛がカップを両手で包んだまま、口を開いた。
「わたしは、わたしです」
顔を上げた。凛がこちらを見ている。目が真っ直ぐだった。
「妹さんのことは分かりません。でも——わたしはわたしとして、ここにいます」
目が、一瞬開いた。
——小春は、こういう言い方をしない。
すぐに目を伏せる。コーヒーを一口飲む。ぬるかった。カップの底が見えるまで飲んだ。
「……わかった」
窓の外が暗くなり始めていた。夕日の最後の赤が、床の上で細い線になっている。二つのカップから立つ湯気が、その光の中でゆっくりと消えた。
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