第11話 連携訓練
霜が降りていた。
公園のブランコに白い粉が乗っている。鉄棒の表面も同じだ。四月の半ばだというのに、早朝の空気は冬の名残を引きずっている。吐く息が白い。土と枯れ葉の匂いが鼻を突いた。
蔵を開いた。鬼切丸の柄を掴む。ひびが入ったままの刀身が、朝の光を鈍く弾いた。
凛が三歩先に立っている。ポニーテールを高く結び直したところだ。鞄はベンチに置いてある。手袋はしていない。指先が赤い。
「で、何をするんですか」
「お前の目を使う訓練だ」
「目……ひびの知覚、ですか」
「ああ。意図的に出せるようにする」
鬼切丸の切っ先をブランコに向けた。鎖の付け根。金属の継ぎ目。二日前、下級の妖怪がこの公園に出た。退魔局の記録だ。倒された後も、瘴気の痕跡は数日残る。
「ここに下級が出た跡がある。見えるか」
凛が目を細めた。ブランコの鎖に目を凝らしている。数秒。十秒。二十秒。
首を横に振った。
「……何も、見えないです」
「焦るな。昨日今日で変わるもんじゃねえ」
「はい」
「もう一回やれ。今度は目を閉じてから開けろ」
凛がうなずいた。目を閉じる。三秒。開く。鎖を見つめる。
「駄目です。何も変わりません」
「それでいい。続けろ」
鬼切丸を蔵に戻した。ベンチの横に腰を下ろす。腕立て伏せの姿勢を取った。朝のトレーニングを兼ねる。地面が冷たい。掌に砂利の感触。
凛がブランコの前にしゃがみ込んだ。鎖を見つめている。
「もう一回やってみます」
「好きにしろ」
二十回目を終えたところで顔を上げた。凛の姿勢が変わっていない。鎖の付け根を見つめている。目を閉じて、開いて、また閉じる。
「見えません」
「何回目だ」
「五回目です」
「数えてんのか」
「数えてます」
腕立て伏せを再開した。凛の声が定期的に聞こえる。「見えません」「まだです」「——駄目です」。間隔が少しずつ短くなっていく。焦りが滲んでいるが、口調は崩れない。
五十回を終えて起き上がった。砂利を払う。凛がまだしゃがんでいる。膝に土がついている。
「すみません、全然——」
「謝るな。何回目だ」
「十七回目です」
「数えてんのかよ」
凛が少し笑った。それだけだ。すぐに鎖に視線を戻す。
「あと三回で二十回ですね」
「区切りにこだわるタイプか」
「区切りがあると頑張れるタイプです」
ベンチに戻った。缶コーヒーを開ける。自販機で買った温かいほう。朝の公園にコーヒーの匂いが薄く広がった。
「休憩にしろ」
「もう少しだけ——」
「お前が倒れたら訓練にならない。飲め」
もう一本を凛に投げた。凛が両手でキャッチする。温かいほうだ。
「ありがとうございます」
二人でベンチに並んだ。凛が缶を両手で包んでいる。指先の赤みが少し引いた。鳩が砂場のへりを歩いている。平和な朝だ。訓練をしていなければ、ただの公園にしか見えない。
「公園の痕跡って、普通の人には見えないんですよね」
「見えない。退魔師でも、よほど霊力が強くないと残滓までは拾えない」
「わたしの目は、それが見えるはずなんですよね」
「はずだ。偶発的には何度か見えてる。問題は狙って出せるかだ」
凛が缶コーヒーを一口飲んだ。唇を離してから、少し考え込んでいる。
「神崎さん、蔵の中身って今いくつですか」
「四つ。空きが一つ」
「鶴丸、一昨日使ってましたよね。あれ、属性攻撃に強いんですか」
缶を口から離した。凛がこちらを見ている。メモ帳を出しかけている。
「受け流しが利く。鬼切丸とは系統が違う」
「鬼切丸が直接攻撃で、鶴丸が防御寄り……ってことですか」
「まあ、そんなところだ」
「霊喰いは?」
「吸収型。相手の霊力を喰って無力化する。ただし使い手を選ぶ」
「それは神崎さんに霊力がないから——」
「反動がない。霊力持ちが使うと自分の霊力も喰われる」
「なるほど。霊力がないことが利点になってる」
凛がメモ帳に書き込んでいる。蔵の中身。特性。運用条件。聞かれてもいないことまで整理している。分析者の顔だ。
◇◇◇
午後。訓練を事務所に移した。
破魔の札を一枚、壁に貼った。霊力を薄く通す。剥がした後に微弱な瘴気の残滓が壁に染みる。公園の痕跡より近い。条件を下げた。
「これなら近い。見えるか」
凛が壁の前に立った。一歩の距離。両手を体の横に下ろしている。肩の力を抜こうとしている。抜けていない。
「ゆっくりでいい。朝と同じだ」
「はい」
集中している。呼吸が浅くなっている。
長い沈黙。事務所の蛍光灯が低く唸っている。窓の外で車が通った。音が遠ざかる。
凛の瞳が——一瞬、金色に光った。
「……見えた」
声が小さかった。
「右の端。ひびが、ちらちら——消えそうで、消えなくて」
壁に歩み寄った。凛が指差した場所。破魔の札を貼った位置の右端。痕跡の端だ。
当たっている。
「合ってる」
凛の顔がぱっと上がった。目が見開かれている。
「本当ですか」
「嘘ついてどうする」
「本当に、見えたんですか」
「ああ。当たってる。ただ、まだ不安定だ。戦闘中にそれができなきゃ意味がない」
「分かってます」
凛が壁を見つめている。もう金色の光は消えている。普通の目だ。
「でも——見えたんです」
凛の声のトーンが変わっていた。朝の公園で十七回失敗した声とは違う。
「午前中に見えなかったのは、距離が遠かったからですか」
「公園の痕跡は二日前のもんだ。薄い。こっちは今日貼ったばかりだから濃い」
「じゃあ、慣れれば薄いのも——」
「先走るな。まず今の精度を上げろ」
「はい」
破魔の札の残りを数えた。十枚。
───
夕方。
コーヒーを淹れた。凛の分に砂糖を一つ。自分の分はブラック。デスクに戻って報告書を開く。昨日の分がまだ途中だった。
凛がPCの画面をスクロールしている。妖怪速報のサイトだ。投稿一覧が縦に並んでいる。日付。場所。目撃内容。信憑性ランク。
蛍光灯の唸りと、キーボードを叩く音。報告書のペンが紙を引っ掻く音。窓から西日が差し込んでいる。デスクの上に四角い光が落ちている。静かな時間だ。
「影鬼の眷属、最近の投稿増えてます」
ペンが止まった。
「……どのエリアだ」
「新宿地下街周辺です。三件。全部この一週間以内です」
椅子を引いた。凛のPCを覗き込む。画面に投稿が三件並んでいる。場所が地下街の封鎖区画に集中している。
「封鎖区画って、一般人は入れないところですよね」
「退魔局が管理してる地下エリアだ。普段は低級の浄化に使う」
「そこに中級が集まってるってことは——」
「何かが呼んでる。か、何かが追い込んでる」
凛の指が画面の上で止まった。
「退魔局に依頼、出てますか」
スマートフォンを取り出した。退魔局のアプリを開く。依頼一覧。中級妖怪の大量発生——合同対処だ。海坊主の変種、発生数が通常の三倍。空きは二枠ある。
報酬は悪くない。合同対処なら他のチームが前線を張る。凛を実戦に出す条件としては、まだ安全な部類だ。
「影鬼の眷属は——その地下街に関係あると思いますか」
「直接は分からない。ただ、同じエリアに中級が湧いてるなら確認する価値はある」
蔵の中身を確認した。鬼切丸。霊喰い。破魔の札、十枚。鶴丸。空き一つ。
「行くぞ」
「はい」
凛が立ち上がった。PCを閉じる。鞄を手に取る。迷いがない。
「今日の訓練で——」
「分かってる。ただし、本番で見えなくても気にするな。見えたらそのとき言え」
凛がうなずいた。
「見えたら、すぐに伝えます」
コートを取った。事務所の扉を開ける。夕暮れの風が流れ込んだ。四月の風。朝よりは少しだけ温い。
扉が閉まった。




