第12話 地下街の悪夢
バリケードテープの向こう側から、腐った海水の匂いが這い上がってくる。
新宿地下街、封鎖区画入口。蛍光灯が半分死んでいる。残りの半分も明滅を繰り返していて、退魔局の黄色いテープだけが妙に鮮やかだった。
退魔師が十二人。B級が二チーム、C級が三チーム。それぞれが霊具を展開し、蔵の確認をしている。俺も開いた。鬼切丸。霊喰い。破魔の札、十枚。鶴丸。四つ。問題ない。
「あれ、霊力ゼロの——」
「来たのかよ。D級のフリーだろ」
小声だが、地下通路は音をよく拾う。視線が数本、こちらに集まっている。B級チームのリーダーらしい男が、腕を組んだまま顎でこちらを示した。隣のやつが肩を竦めている。
凛が横にいる。視線に気づいたのか、わずかに肩が強張った。
「気にするな。いつものことだ」
「はい。——気にしてません」
嘘だ。指先が鞄の紐を握り込んでいる。だが口調は崩れていない。
バリケードの向こうから瘴気が押し寄せてくる。腐った海水。その下に、潮の引いた干潟のような泥臭さが混じっている。鼻の奥が痺れた。中級が複数。六体以上。数が多い。
B級のリーダーが全体に指示を出した。先行二チーム、後衛三チーム。
「そっちのD級は?」
「好きにやる」
「好きにって……合同対処だぞ。指揮系統は——」
「俺たちが邪魔になるようなら下がる。ならなきゃ前に出る。それでいいだろ」
リーダーが口を閉じた。時間の無駄だと判断したらしい。正解だ。
◇◇◇
封鎖区画の内部は、天井の低い通路が入り組んでいる。壁はコンクリートの打ちっ放し。水が染み出して黒く変色している箇所がいくつもあった。足元は乾いているが、空気が湿っている。地下特有の、逃げ場のない圧迫感。
先行したB級チームが、最初の一体と接触した。霊術の光が通路を白く照らす。結界が広がり、海坊主の変種を包み込もうとした。
水が爆ぜた。
結界の隙間から水流が噴き出す。通路の床が一瞬で水浸しになった。足首まで。冷たい。靴の中に染みてくる。
「変種だ、通常の封印が効かない!」
B級の一人が怒鳴った。結界が軋んでいる。海坊主の変種は水そのものを操っている。封印の型が合わない。水流が結界を内側から押し広げている。
俺たちは後方にいた。凛の横に立つ。海坊主の変種が通路の奥で蠢いている。半透明の青黒い塊。人の背丈の倍はある。
「見えるか」
凛が息を吸った。両目を見開く。集中している。
瞳が——金色に光った。
「……腹の下。ひびが——見えます」
声が震えていない。昨日の訓練とは違う。実戦で、狙って出した。
「了解」
蔵から鬼切丸を抜いた。水流の中に踏み込む。低姿勢。膝を曲げ、水面すれすれまで体を落とした。水飛沫が顔に当たる。冷たい。構わない。
海坊主の変種が水流を叩きつけてきた。横に跳んだ。壁に手をつく。コンクリートの感触。指先で体を支え、そのまま地面を蹴った。
腹の下。凛が言った位置。
鬼切丸を突き上げた。刃が半透明の体を貫く。手応え——硬い核に刀身が食い込む振動が、柄を通じて掌に伝わった。
砕ける。
海坊主の変種が水に戻り、床に散った。水飛沫が天井まで跳ねる。B級チームの退魔師二人が、水を被ったまま動けずにいた。
「……は?」
誰かが声を漏らした。
◇◇◇
二体目。「右肩の裏です」。凛の声が飛ぶ。突進して斬った。崩れた。
三体目。「首の付け根」。鬼切丸を横に薙いだ。水が弾けた。
四体目は奥の通路に逃げようとした。追う。壁を蹴って跳び、上から鬼切丸を叩き込んだ。凛の声が後ろから飛んでくる。「背中の中心です!」。刃が核を捉えた。四体目。
残り二体は、B級二チームが結界を重ねて処理している。一体に四人がかり。霊術を何重にも重ねて、ようやく封印に持ち込んでいた。
鬼切丸の水気を払った。刀身の亀裂に水が入り込んでいる。後で手入れがいる。蔵に戻した。
B級のリーダーが近づいてきた。さっき腕を組んでいた男だ。腕組みは解けている。顔が引きつっている。
「……D級って聞いてたが、嘘だろ」
「D級だよ。免許は嘘つかねえ」
「四体。一人でか」
「一人じゃねえ。弱点は相棒が出してる」
凛を顎で示した。凛が小さく会釈する。B級のリーダーが凛を見て、また俺を見た。理解が追いついていない顔だ。
「あの子が弱点を? 退魔師じゃないだろ」
「退魔師じゃない。だが目がいい」
それ以上は言わなかった。リーダーも深追いしなかった。
六体。処理時間は三十分もかかっていない。うち四体が俺と凛。弱点特定がなければ倍はかかっていた。
凛が小さく息を吐く。
「見えました。全部、ちゃんと見えました」
「ああ。使えた」
凛の肩の力が抜けた。戦闘中、一度も声が上ずらなかった。
凛が急に顔を上げた。視線が通路の奥に向いている。表情が変わった。
「神崎さん——奥から、何か来ます」
奥を見た。封鎖区画のさらに奥。通路が暗い。蛍光灯が完全に死んでいるエリア。
鼻が反応した。匂いが変わっている。腐った海水の下に、別の層がある。重い。密度が違う。肺の底に溜まるような瘴気。
中級じゃない。
「ここで待ってろ」
凛に短く言って、通路の奥に進んだ。
◇◇◇
暗い。
足音を消した。呼吸を浅くする。五感を全開にした。壁のコンクリートが湿っている。水滴が天井から落ちる音。一定間隔。それ以外の音がない。海坊主変種が纏っていた水の気配もない。
別の何かだ。
壁に痕跡があった。爪で引っ掻いたような傷。深い。幅が指三本分。コンクリートを抉っている。人間の手じゃない。中級の力でもない。
足を止めた。
瘴気の密度が跳ね上がっている。肺が重い。空気が粘っている。鼻の奥に焦げたような苦い匂い。海水じゃない。土と獣だ。
上級。
蔵の中身を頭の中で数えた。鬼切丸。霊喰い。破魔の札、十枚。鶴丸。体力は七割。上級と単独でやり合うには足りない。
引き返した。
壁の傷痕をもう一度見た。コンクリートの粉が新しい。一週間以内。おそらく数日。ここに何かが棲みついている。
凛の元に戻った。他のチームも通路の手前で待機している。
「奥に何かいた?」
「……上級だ。今は退く」
「上級……。戦わないんですか」
「蔵の残弾と体力を考えろ。今やり合うのは得策じゃない」
「分かりました」
凛が頷いた。質問は重ねない。
全チームが封鎖区画を出た。地上に近い通路まで戻ると、退魔局の担当者が報告書を配っている。書式に沿って戦果を記入した。海坊主変種、六体撃破。負傷者なし。
B級のリーダーが横に来た。肩を叩かれた。
「次から一緒に組まねえか。お前がいると話が早い」
「報酬次第だ」
「お前なあ……」
凛が横で小さく笑った。
報告書を提出した。担当者は退魔局の制服を着た中年の男だ。
「一点、追加報告がある」
担当者が顔を上げた。
「封鎖区画の最深部手前に、上級の気配があった。壁に新しい爪痕。瘴気の密度は中級の比じゃない」
担当者の表情が変わった。口元が引き結ばれる。報告書を持つ手が止まっている。
「……封鎖区画最深部は、退魔局でも未調査のエリアです」
「未調査?」
「御三家に優先権が——」
言葉が途切れた。担当者が視線をそらす。それ以上は言えないという顔だ。
「……そうですか」
担当者が報告書にメモを書き加えている。手が震えている。上級が棲みついているなら、今日の海坊主変種はその余波で湧いた可能性がある。担当者もそれに気づいたはずだ。
報告書を渡して、その場を離れた。
地上に出た。夜の空気が肌に触れる。地下の湿った瘴気とは違う、乾いた風。四月の夜はまだ冷える。
凛と並んで駅に向かっている。人通りは少ない。地下街の出入口が遠ざかっていく。
「神崎さん。あの奥、何がいるんでしょう」
答えなかった。
影鬼の眷属が目撃されたエリア。新宿地下街周辺。封鎖区画の最深部は、そのエリアの直下にある。御三家の管轄。退魔局も手を出せない場所。
偶然か。
凛がこちらを見ている。答えを待っている。
「帰るぞ。報告書の控え、明日までに整理しとけ」
「はい。——神崎さん」
「何だ」
「今日、わたし、ちゃんと役に立てましたか」
「弱点四体分。十分だ」
「……よかった」
凛の声が少し柔らかくなった。
歩いた。駅の明かりが近づいてくる。背中に、地下街の匂いがまだ張りついている気がした。




