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第13話 影鬼の足跡

 朝の事務所は、まだ昨夜の匂いが残っている気がした。コートの裏地に染みついた地下街の瘴気。窓を開けても抜けない。四月の風が机の上の書類を揺らしている。


 凛がPCの前に座っていた。昨日の報告書の控えを整理しながら、俺が送った爪痕の写真データを画面に並べている。事務所に来て最初にやったのがデータの照合だったらしい。缶コーヒーが二本、机の端に並んでいる。一本は空だ。


「神崎さん、これ見てください。妖怪速報のアーカイブと退魔局のデータベースを照合してみたんですけど」


 椅子に座ったまま画面を覗いた。凛が爪痕の画像を拡大している。幅、深さ、抉り方の角度。数値を手入力で計測したらしく、画像の横にミリ単位のメモが添えてある。隣に並べたのは退魔局の妖怪痕跡データベース。過去十年分の爪痕記録だ。


「大天狗の爪痕に一番近いんですけど……サイズが合わないです。大天狗の平均が幅四十二ミリ。昨日の爪痕は六十ミリ超えてます」


「一回り以上でかいな」


「はい。既存のデータベースに一致する妖怪がいないんです」


 凛の指がモニターの端をなぞる。画像を次々に切り替えていく。鬼系、天狗系、獣系。形状の特徴を一つずつ比較している。どれも幅が足りない。昨日の爪痕は指三本分。コンクリートを五センチ以上抉っていた。


 写真を見つめた。


 幅三本。弧を描く抉り方。内側に向かって深くなる角度。


 記憶が引っかかった。七年前。神薙家にいた頃、父の書斎に積まれていた報告書の束。その中の一枚に、同じ形状の痕跡写真があった。当時は意味が分からなかった。追放された後も、あの写真だけが頭の隅に残っていた。


 背筋の温度が下がる。


「凛。これは影鬼のものだ」


 自分の声が低くなっている。身体が硬い。椅子の肘掛けを握っている指に力が入りすぎている。


 凛がこちらを見た。キーボードの上で止まった手が小さく震えている。


「影鬼って——神崎さんの、妹さんを」


「ああ」


「でも、どうして分かるんですか。データベースに一致がないのに」


「七年前の神薙家の報告書に、同じ形状の爪痕が記録されていた。影鬼の眷属だ。弧の角度、深さの偏り。幅も一致する。退魔局のデータベースには載ってない。神薙家の内部資料にしか残っていない情報だ」


 立ち上がった。椅子が鳴る。蔵に手が伸びていた。鬼切丸の柄の感触。冷たい金属が掌に食い込む。


「今から行く」


 声が硬い。自分でも分かっている。


 凛が椅子から立った。俺の前に回り込む。小柄な身体が視界を塞いだ。ペンダントが揺れている。


「待ってください」


「邪魔するな」


 目が合った。凛の目が揺れていない。まっすぐこちらを見ている。


「神崎さん。今行っても——見つかりません」


 足が止まった。


「データを見てください」


 凛がモニターを指した。声は震えていない。昨日の地下街で、上級の気配を前にしても声が上ずらなかった奴だ。


「爪痕は古いです。少なくとも二週間前のもの。コンクリートの粉が酸化して変色してます。昨日、神崎さんも確認したはずです」


「……」


「影鬼の眷属はもうあそこにはいません。今行っても、何もないです」


 拳が震えている。


 だが——凛が正しい。昨日、俺自身がコンクリートの粉の状態を見た。数日どころか、もっと前だ。凛の言う通り、二週間以上。あそこに行っても何も残っていない。


 蔵から手を離した。鬼切丸の感触が掌から消える。凛がまだ俺の前に立っている。退かない。


 椅子に戻った。座った。


「座ってください」


 凛がまだ立っている。俺が座ったのを確認してから、自分の椅子に戻った。


「もう一つ。整理したものがあります」


 凛がPCの画面を切り替えた。時系列の表が開く。日付と場所がリスト化されている。色分けまでしてある。赤が目撃情報、青が痕跡記録。


「あの闇市場で聞いた目撃情報を覚えてますか。新宿地下街周辺での影鬼の眷属、二件。それから妖怪速報の過去ログを洗いました。三件。そして昨日の爪痕」


 凛の指が時系列の表を辿る。


「全部繋がるんです」


 凛が表を指差した。赤い点が三週間前に集中している。


「影鬼の眷属の目撃が集中してるのは三週間前から二週間前。合計五件。その後はゼロです。ぱったり止まってます」


 椅子に座り直した。拳を開く。指の関節が白い。力が入りすぎていた。


「……移動した?」


「分かりません。でも——影鬼本体じゃなくて眷属だけが目撃されてるのが気になります」


 凛がモニターに向き直った。画面の光が横顔を照らしている。


「影鬼本体は一件も見つかってない。どの目撃も眷属だけです」


「……偵察か」


「はい。眷属だけが先行して、何かを探してたのかもしれない」


 鼻の奥に、昨日の記憶が蘇った。封鎖区画最深部の空気。土と獣の匂い。肺の底に溜まるような瘴気の密度。幅三本の爪痕。あの気配と、この爪痕が同じものだとしたら——眷属は確かにあそこにいた。何を探していたかは分からない。だが目的を持って動いていた。


 凛を見た。


「……お前、いつからそんなに考えるようになった」


「神崎さんの事務員ですから」


 淀みがない。事務所に来たばかりの頃、能力の説明すらまともにできなかった奴と同じ人間か。


 缶コーヒーに手を伸ばした。残りの一本。一口飲む。冷めていて苦い。窓の外から車の音が聞こえる。事務所の中は静かだ。PCのファンの音と、凛のキーボードの音だけ。


 凛がさらにデータを掘っている。退魔局のデータベースの過去ログ。検索条件を変えながら、画面をスクロールする指が止まった。


「もう一つ。退魔局のデータベースで——影鬼の眷属って、過去にも目撃記録があるんです。今回が初めてじゃない」


「……いつだ」


「七年前。東京じゃなくて——」


「……どこだ」


「神奈川。箱根の山中です。時期は——」


「七月だ。七年前の七月」


 凛が俺を見た。手がキーボードの上で止まっている。


 机を掴んでいた。指の関節が白くなるまで。


「……小春が、死んだ任務のあったエリアだ」


 七年前の箱根。神薙家の合同任務。神薙、鳳凰院、土御門。三家から精鋭を出して、それでも壊滅した。


 そこで小春は死んだ。影鬼に依代として選ばれて。十五歳。


 俺はその場にいなかった。追放された後だった。もしあの場にいたとして、何ができたかは分からない。分からないが——いなかったという事実だけが残っている。


 そして今——東京で、影鬼の眷属が目撃されている。三週間前から二週間前。来て、何かを探して、消えた。


 影鬼は七年間、姿を消していたわけじゃない。動いていた。箱根から、どこかを経由して、東京へ。痕跡を残しながら。


「見つかる」


 声は低い。だが拳は震えていない。


 暴走じゃない。確信だ。動いているなら痕跡がある。痕跡があるなら追える。


 七年間見つけられなかった。だが——七年間、探し方を間違えていたんだ。本体じゃない。眷属の足跡を追えばいい。


 凛がPCの画面を閉じた。モニターの光が消えて、事務所が少し暗くなった。


「神崎さん。わたし、もう少しデータを集めます。妖怪速報の過去ログも全部洗います。退魔局のデータベースも、アクセスできる範囲で」


「……退魔局は制限があるだろ」


「公開データだけでも、過去の目撃パターンは追えます。移動ルートが見えるかもしれない」


「……ああ」


 凛が椅子の背もたれに寄りかかった。長い息を一つ吐く。朝からずっと画面に向かっていたはずだ。目の下に薄い隈がある。昨夜もデータを洗っていたのかもしれない。


「一つだけ聞いていいですか」


 凛を見た。


「影鬼を見つけたら——一人で行きますか」


 答えなかった。窓の外に視線を逃がした。空が暗くなり始めている。事務所の蛍光灯だけが白い。その微かな音が、妙に大きく聞こえる。


 凛は答えを待っている。視線を感じる。


「わたしは、ここにいます」


 凛の声が、静かだった。


 逃げないという意味だ。影鬼の存在が確定した。その先に何が待っているか分からない。災厄級の妖怪を追うということが何を意味するか、凛には分かっていないはずだ。


 それでも——ここにいる、と言っている。


 窓の外に目を戻した。


「……勝手にしろ」


 同じ台詞だ。凛が事務所に残ると言った日と。


 あの時は——どうでもよかった。誰がいても、いなくても変わらない。そう思っていた。


 今は違う。


 暗くなる窓の外を見ている。背中に、凛がキーボードを叩く音が聞こえ始めた。

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