第14話 御三家の壁
「影鬼に関する過去の任務報告書を閲覧したい。申請書はここに」
退魔局東京支部の受付ロビー。朝九時。用紙を差し出した。受付の職員——二十代半ばの女。髪をきっちりまとめて、退魔局の紺色の制服を着ている。俺の免許証と申請書を受け取り、端末に情報を入力し始めた。
隣に凛が立っている。小声で「ここ、広いですね」と呟いた。退魔局東京支部は千代田区の官庁街にある。天井が高い。壁には退魔師免許の更新案内と、直近の妖怪災害注意報が貼られている。カウンターの向こうに端末が並び、職員が五人ほど働いている。
待つ。職員が端末を操作する音だけが続く。一分。二分。キーボードを叩く指が止まった。
職員の顔が変わった。さっきまでの事務的な表情が消えている。画面を見つめたまま、唇が薄く引き結ばれた。
「……申し訳ありません。該当資料は閲覧制限がかかっています」
「制限? 誰がかけた」
「それは——お答えできません」
声のトーンが落ちた。視線が端末に固定されている。こちらを見ない。最初に申請書を受け取った時とは別人みたいな態度だ。
「閲覧制限の理由は。俺はD級だが、正規の免許を持っている。過去の任務報告書の閲覧権はある」
「申し訳ありませんが、当該資料は特別制限区分に指定されています。通常の閲覧権限では——」
「特別制限区分」
職員の肩が小さく跳ねた。声が低くなっていたらしい。意識して力を抜く。
「分かった。もういい」
申請書を引き取った。職員がほっとした顔をしている。
受付を離れた。凛が小走りでついてくる。ロビーを横切る。自動ドアが開いて、四月の朝の空気が顔に当たった。排気ガスと桜の終わりかけの匂い。
「なんか——上から圧力がかかってるみたいな反応でしたね」
凛が隣を歩きながら言った。声を落としている。
「あの人、影鬼って聞いた瞬間に態度変わりました。キーボード打つ前に一回、奥を見たんです。上司の方を」
観察力が上がっている。凛の目は妖怪の弱点を読むだけじゃない。人間も読む。
◇◇◇
退魔局を出た。千代田区の歩道を歩いている。スーツ姿の人間が横を通り過ぎていく。この辺りは官庁街だ。退魔局の職員も昼になれば混じるのだろう。
「閲覧制限って、誰でもかけられるんですか」
「いいや。あのランクの制限は——局長級か、御三家の依頼だ」
「御三家……」
「鳳凰院だろうな」
凛が足を止めかけた。
「なんで分かるんですか」
「晴輝が言ってた。鳳凰院が影鬼の出没予兆を先行調査してたって。あれが入ったのは新宿の闇市場経由の情報だった」
立ち止まる。歩道の端に寄った。通行人が横を過ぎていく。
「影鬼の情報を一番持ってるのは、鳳凰院だ。先行調査をしていた。退魔局のデータベースに閲覧制限をかけられるだけの政治力もある。そして——出したくない」
「出したくない理由って……」
「分からない。だが、正面から行っても壁にぶつかるだけだ」
拳が握られている。力を抜いた。指を一本ずつ開く。
◇◇◇
喫茶店に入った。千代田区から少し歩いた先の、チェーン店。凛がアイスラテを頼んだ。俺はブラック。
テーブルにスマートフォンを置いた。晴輝にメッセージを打つ。
『鳳凰院が影鬼の情報を押さえてる。退魔局で閲覧制限がかかってた。何か知ってるか』
送信。コーヒーを一口飲む。苦い。凛が向かいでアイスラテのストローを噛んでいる。俺の手元を見ている。
三分後。既読がついた。返信が来るまでさらに二分。
『難しい話だな。鳳凰院の内部は俺でも簡単には探れない。ただ——鳳凰院家の意向で影鬼関連の情報が封じられてるのは事実だ。理由は分からない』
続けてもう一通。
『でも、一つだけ。七年前の任務に鳳凰院の人間も参加してた。知ってたか?』
指が止まった。
七年前の箱根。神薙家の合同任務。神薙と土御門が共同で挑んだ——と、俺はそう聞いていた。だが鳳凰院も参加していた。
画面を見つめている。コーヒーカップの中で黒い液面が揺れる。テーブルの上に置いた左手の指先が、微かに震えている。
「神崎さん?」
「……鳳凰院も、あの任務にいた」
声が平坦になっている。凛がストローから口を離した。
「七年前の任務に、鳳凰院の人間も参加していた。そしてその鳳凰院が、今——影鬼の情報を封じている」
「封じる理由が、七年前の任務に関係してる……?」
「可能性はある」
晴輝に返信を打った。
『ありがとう。もう少し掘ってみる』
『無茶するなよ。鳳凰院は政治力がある。D級フリーが藪をつつくと消されるぞ』
スマートフォンをテーブルに伏せた。
凛がコーヒーカップを両手で包んでいる。視線がテーブルに落ちている。何かを考えている顔だ。
「別ルート……他に情報を持ってそうな人はいますか」
「闇市場にもう一回行くか。それか——」
考え込んだ。闇市場は情報の質にばらつきがある。鳳凰院の内部情報なら、もっと直接的なルートが要る。だが今の俺にそのルートはない。
─────
凛がカップを置いた。氷が鳴る。
「神崎さん。怒ってますか」
「……別に」
「嘘。顔に出てます」
凛を見た。まっすぐこちらを見ている。目を逸らさない。事務所に来たばかりの頃の凛とは違う。あの頃は俺の機嫌を窺って視線を落としていた。
テーブルの上で拳を握っている。自分でも気づいていなかった。開いた。
「俺はD級だ。御三家に情報を出せとは言えない。力がない」
凛が黙った。ストローに触れていた指が止まる。
「でも——別の道はある」
コーヒーを飲み干した。カップを置く。
「正面がダメなら裏から回る。俺がずっとやってきたのはそっちだ」
店を出た。四月の午後の日差しが眩しい。凛が隣を歩いている。千代田区から新宿方面へ。電車に乗るつもりだったが、歩いている。身体を動かしたかった。
「裏から回るって、具体的には」
「まず、あの地下街の上級妖怪を片付ける」
凛が横を向いた。
「退魔局の信用を積む。D級のフリーが上級を倒したら——嫌でも話を聞かざるを得なくなる」
「……信用で、壁を越える」
「力で越えられないなら、実績で越える。御三家がどれだけ情報を押さえても、退魔局が無視できない実績を積めばいい」
凛が少し笑った。小さく、口元だけで。
「神崎さんらしいです」
「褒めてるのか」
「はい」
駅に向かって歩く。桜の花びらが歩道に散っている。踏んだ。
◇◇◇
事務所に戻った。夕方。窓から西日が差し込んでいる。
凛がPCを開いた。妖怪速報の最新ページを表示する。スクロールしていた手が止まった。
「神崎さん。新宿地下街、また目撃が出てます」
「何だ」
「今度は——上級妖怪の目撃です」
画面を覗き込んだ。
投稿。匿名。タイムスタンプは三時間前。
『封鎖区画の近くで巨大な影を見た。天狗みたいな形。翼があった。高さは電柱くらい。近づいたら風圧で吹っ飛ばされた』
「来たか」
蔵に手を伸ばした。中身を確認する。格納されている霊具は四つ。鬼切丸。霊喰い。破魔の札が十枚。鶴丸。
四つ。上級相手に足りるか。
鬼切丸は対物理型の刀。斬れる。だが上級の防御を貫けるかは分からない。霊喰いは妖怪の霊力を吸収する短刀。接近しないと使えない。破魔の札は中級までなら一撃。上級には——牽制程度。鶴丸は速度特化。
「何個、使えそうですか」
凛が蔵を覗き込みながら言った。
「上級には正解がない。刺さる霊具が一個でもあれば十分だ」
足りるか——。
「わたしも行きます」
凛の声が後ろから聞こえた。振り返った。凛が立っている。PCの画面の光を背に受けている。表情が見えにくい。だが声は揺れていない。
少し、間がある。
昨日、凛は「ここにいます」と言った。逃げないという意味だった。
「……ああ」
蔵を閉じた。鬼切丸の感触が掌から消える。
窓の外が暗くなり始めている。明日——新宿地下街に行く。上級妖怪。大天狗。翼のある巨大な影。
四つの霊具と、一人の事務員。それが今の俺の手持ちだ。




