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第15話 上級妖怪

 廃工場の外壁に背中を預けた。夜。月が雲の向こうに隠れている。湾岸地区。海風が錆びた鉄の匂いを運んでくる。


 凛の妖怪速報分析で、大天狗の出現ポイントを絞り込んだ。新宿地下街から二キロ離れた、この廃工場。目撃情報が三件、半径五百メートルに集中していた。退魔局は御三家に依頼を回した。だが、まだ動いていない。


 蔵に触れる。中身を確認する。四つ。鬼切丸。霊喰い。破魔の札十枚。鶴丸。戦闘前の確認。習慣だ。上級相手に四つ。足りるかは分からない。足りなくても行く。


「お前は外で待ってろ」


「嫌です。中に入ります」


 凛が一歩も退かない。ポニーテールが夜風に揺れている。目が揺れていない。事務所に来たばかりの頃の凛と、同じ顔で違う声を出している。


「……死ぬかもしれねえぞ」


「知ってます。それでも行きます」


「お前が怪我したら、誰が事務仕事やるんだ」


「わたしが怪我する前に倒してください。神崎さんなら、できるでしょう」


 五秒。凛の目を見た。本気だった。


「中に入ったら、俺が合図するまで物陰に隠れてろ。絶対に出るな。合図したら弱点を言え。それ以外はするな」


「はい」


「返事が軽い」


「分かりました。物陰から、動きません」


 廃工場のドアに手をかけた。鉄の扉。錆びている。引いた瞬間、瘴気が吹き出した。


 重い。鼻の奥が焼けるような臭気。腐った木の皮と、湿った獣の匂いが混じっている。皮膚が粟立つ。五感が同時に反応している。上級の圧。間違いない。中にいる。大きい。


◇◇◇


 廃工場の内部。天井まで十メートル以上ある。鉄骨が剥き出しになった広い空間。割れた窓ガラスの隙間から外の風が吹き込んでいる。


 中央にいた。


 大天狗。翼を畳んで床に座っている。三メートルを超える巨体。赤い面。長い鼻。人間の形をしているが、人間ではない。大天狗の周囲だけ、瘴気が渦を巻いている。空気の質が違う。


 凛に手で合図した。左手の壁際、鉄骨の陰。凛が音を立てずに移動する。


 距離を詰める。霊力ゼロ。妖怪の索敵網には引っかからない。足音を殺す。呼吸を浅くする。コンクリートの床を踏む感触だけ。十メートル。八メートル。五メートル。


 蔵から鬼切丸を出した。刀身が手の中に収まる。重い。この重さが要る。


 首筋を狙った。踏み込んだ。鬼切丸の刃が首筋の外皮に触れた——その瞬間。


 ——風。


 大天狗が翼を広げた。突風が壁のように押し寄せる。身体が浮いた。壁に叩きつけられた。背中の衝撃が脊椎を伝わる。床に落ちる。鬼切丸は握ったまま。


 索敵に引っかからなくても、物理的な接近は感知する。空気の流れ。床の振動。上級妖怪の五感は鋭い。


 大天狗が立ち上がった。翼を広げると、左右合わせて六メートル近い。咆哮。瘴気が渦を巻く。鉄骨が軋んだ。割れた窓ガラスの破片が床に散る。


 起き上がった。背中が熱い。打撲。だが骨は折れていない。まだ動ける。


「……硬えな、おい」


 大天狗がこちらを向いた。赤い面の奥で、黒い瞳がこちらを捉えている。初めて標的として認識された。中級までとは格が違う。


 物陰から凛の声が飛んだ。


「右の肩甲骨の下! ひびが——見えます!」


 声が震えていない。上級妖怪を前にして、能力を発動させた。恐怖を越えている。


「見えてんのか」


「はい。はっきり。あそこだけ、ちらついてます」


 右肩甲骨の下。核の位置。背後から攻撃する必要がある。


 大天狗が右腕を振った。風刃。空気が裂ける音。柱の陰に飛び込んだ。背後の鉄柱が斜めに切れた。断面が滑らかだ。直撃したら胴体が分かれる。


「鶴丸」


 蔵から鶴丸を出した。薙刀型の霊具。柄が長い。リーチがある。属性攻撃の受け流しに向いている。


 二発目の風刃が来た。鶴丸を斜めに構えた。風刃が刃に当たり、軌道が逸れる。受け流し成功。鶴丸の柄に衝撃が走る。重い。だが逸らせる。


 三発目。受け流す。四発目。受け流しながら距離を詰める。大天狗の左側を回り込む。背後へ。


 鬼切丸を逆手に持ち替えた。右肩甲骨の下。凛が見た弱点。


 突き刺した。


 大天狗が絶叫した。瘴気が爆発的に膨れ上がる。刃が核に触れている。手応えがある。だが——砕けない。硬い。上級の核は、中級とは比較にならない硬さだった。


 翼が右側から直撃した。肋骨に衝撃。


 吹き飛ばされた。床を転がる。口の中に血の味が広がった。息を吸った。胸の左側が軋む。浅くしか吸えない。肋骨。最低でも二、三本は逝った。


 鶴丸を支えにして起き上がる。呼吸するたびに胸の左側が刺す。大天狗が体勢を立て直している。翼を広げ直す。核にダメージは入ったはずだ。だが一撃では足りなかった。


 物陰から足音がした。


「神崎さん——っ」


「来るな」


 足音が止まった。


「大天狗から目を離すな。核を見てろ」


「……はい」


─────


 風刃が飛んでくる。鶴丸で受け流した。柄に嫌な振動が伝わる。見た。ひびが入っている。鶴丸の柄に、細い亀裂が走っている。


「……持たねえ」


 もう一発。受け流した。ひびが広がった。柄が熱い。次の一発で折れる。


 物陰から凛の声が届いた。


「神崎さん、核が——さっきより大きく見えます! ひびが広がってる!」


 核にダメージが蓄積している。もう一撃で砕ける。凛の目がリアルタイムで核の状態を読んでいる。戦闘中の即時分析。こいつがいなかったら、二撃目のタイミングは分からなかった。


「あと一回、当てれば——」


「分かってる」


 鶴丸を投げ捨てた。コンクリートの床に金属音が響く。蔵から霊喰いを出した。鎖付きの重り。


 霊喰いを振った。鎖が大天狗の右翼に絡みつく。翼が引っ張る。肋骨に激痛が走った。折れた骨が内側から突く。視界の端が白くなる。


 離さない。


 鎖を手繰った。一メートル縮まる。大天狗が暴れる。翼がばたつく。だが鎖が食い込んでいる。霊喰いが霊力を吸い始める。翼の動きが鈍くなった。


 鬼切丸を逆手に握り直した。左手で鎖を握り、右手に鬼切丸。


「——もう一回だ」


 踏み込んだ。肋骨が叫んでいる。無視した。右肩甲骨の下。同じ場所。さっき刃が触れた核。ひびが入っている核。


 叩き込んだ。


 手応えが変わった。硬い殻を突き破る感触。核が割れた。砕けた。


 大天狗の咆哮が途切れる。巨体が前のめりに崩れていく。瘴気が四方に散る。風が止んだ。


 廃工場の天井から月光が差し込んだ。雲が切れたらしい。壊れた窓ガラスの隙間から、白い光が床を照らしている。大天狗がいた場所に、瘴気の残滓だけが漂っている。


 足元。鶴丸の残骸が転がっている。折れた柄。割れた刃。蔵の中から、鶴丸の感触が消えた。四つだったスロットが、三つになる。


◇◇◇


 床に倒れた。


 仰向け。天井が見える。鉄骨の隙間から月が覗いている。白い光。呼吸が浅い。吸うたびに胸の左側が軋む。鬼切丸が手から滑り落ちた。金属が床を叩く音が、遠くに聞こえる。


 足音。走ってくる。軽い足音。


「神崎さん!」


「……うるせえ。死んでねえよ」


 声がかすれている。凛がしゃがみ込んだ。俺の胸元を見ている。コートの左側。肋骨のあたり。手を伸ばしかけて、止めた。


「動かないでください。肋骨、折れてますよね」


「……二、三本な」


「笑い事じゃないです」


「笑ってねえよ」


「笑ってます。口元」


 凛の声が低い。怒っているのか、安心しているのか。両方だろう。口元に手を当てた。確かに、少し上がっている。勝ったからだ。


 遠くからサイレンの音が聞こえた。近づいてくる。退魔局の車両。御三家チームがようやく到着する。


 遅い。もう終わっている。


 D級のフリーが、上級妖怪を倒した。御三家が動く前に。


「……勝ちました、よね」


「ああ。お前の目のおかげだ」


「わたしは、見ただけです」


「見えなきゃ勝てなかった。それで十分だろ」


 凛の声が揺れた。戦闘中は震えなかったのに、終わった途端に崩れている。


 天井を見上げた。月が見える。白い。静かだ。さっきまで風刃が飛び交っていた空間が、嘘みたいに静まり返っている。


 凛が俺の右手を握った。冷たい手。指先が震えている。こいつの手はいつも冷たい。首元のペンダントが揺れて、鎖が微かに鳴った。


 退魔局が無視できない実績。鳳凰院が情報を封じても、この結果は消せない。


 何も言わなかった。目を閉じた。


 サイレンの音が近づいてくる。月光が瞼の裏を白く染めている。


 肋骨と、鶴丸。それが今回の代償だ。だが——壁は、動く。

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