表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
16/40

第16話 傷と休息

 息を吸った。肋が軋んだ。


 浅く、もう一度。左の三本目あたりが一番ひどい。寝返りを打った拍子に目が覚めた。仮眠スペースの天井が暗い。カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいる。


 左手首に意識を向けた。蔵に触れる。習慣だ。朝起きたらまず手持ちを確認する。戦場じゃなくても変わらない。


 鬼切丸。重い。いつも通り。


 霊喰い。軽い振動が手首に伝わる。問題ない。


 破魔の札。十枚。紙の束の厚みが指に触れる。


 ——三つだ。


 蔵の重さが足りない。昨日まで四つ分あった感触が、三つ分しかない。鶴丸のあった場所が空洞になっている。格納はされている。だが刀身が折れた以上、引き出しても鞘から抜けない。


 目を閉じた。肋骨より先に、そっちが来た。


 廊下で足音がしている。軽い。スリッパではない。凛のスニーカー。事務所に来ている。


 コーヒーの匂いがカーテンの向こうから漂ってきた。豆を挽く音がする。凛が事務所のコーヒーミルを使っている。


 起き上がった。肋が抗議する。無視した。壁に手をついて立つ。Tシャツが汗で張りついている。昨日のまま寝落ちしていた。


◇◇◇


 事務スペースに出ると、凛がソファの前にいた。毛布を畳んでいる。テーブルにはマグカップが二つ。湯気が立っている。窓から差し込む朝日がマグカップの縁を白く光らせていた。


 凛が振り返った。


「起きられたんですか」


「……うるせえ。起きてる」


「顔色、悪いですよ」


「いつも通りだろ」


「いつもはもう少しマシです。今日は土色です」


「お前も大概失礼だな」


「事実を言っただけです」


「朝っぱらから辛辣だな」


「心配してるんです」


 凛の声が少し硬くなった。すぐに柔らかくなる。


「コーヒー、淹れました。飲んでください」


「……ああ」


「それと、着替え。洗面所に置いてあります。昨日のまま寝てたでしょう」


「分かった。あとでいい」


 ソファに腰を下ろした。背中を曲げる動作で肋が軋む。息を止めて、ゆっくり背もたれに体重を預けた。


 凛がこちらを見ている。目が少し赤い。瞼のふちが腫れている。何も言わなかった。


 凛が事務机の引き出しから救急箱を持ってきた。昨夜のうちに場所を確認していたのだろう。


「包帯、巻き直させてください」


「いい」


「良くないです。昨夜のがずれてます、たぶん全部」


「寝てたんだから当たり前だろ」


「だから巻き直すんです。動かないでください」


 反論を諦めた。凛がソファの横に膝をついて救急箱を開ける。ガーゼ、医療用テープ、弾性包帯。使う順に並べていく。予習してきた動きだ。


「上、めくれますか」


 Tシャツの裾を持ち上げた。左の脇腹から胸にかけて紫色に変色している。凛の息が一瞬止まった。指先が震えかけて、すぐに止まる。


「……ひどいですね」


「見た目ほどじゃない」


「嘘つかないでください」


「嘘じゃねえよ。折れてるだけだ。刺さってない」


「折れてるだけ、って言い方がもうおかしいんですけど」


 凛が古い包帯を外していく。指先が肌に触れる。冷たい。こいつの手はいつも冷たい。新しいガーゼを腫れた箇所にあてがい、包帯を肋骨に沿わせる。慎重に、ゆっくりと。


「きつくないですか」


「大丈夫だ」


「大丈夫って言うの、もう三回目です。全部信用してません」


「じゃあ聞くなよ」


「聞かないと加減が分からないので聞きます」


「めんどくせえやつだな」


「手当てさせてるのに文句言わないでください」


 包帯が一周、二周と巻かれていく。力加減が安定してきた。テープで端を留める指先は震えていない。


 息を整えた。浅く吸って、浅く吐く。凛の髪が近い。シャンプーの匂いが微かに混じる。朝、家で支度してから来ている。


「……痛かったですか、昨日」


「死んでねえよ」


 声が少し低い。自分で気づいた。


「分かってます。死んでないのは見て分かりました」


 凛の手が包帯をもう一周巻く。


「見えてましたから。全部。リアルタイムで」


「……全部か」


「はい。風刃が当たったところも。肋骨に入ったところも。鶴丸が折れたところも」


「霊視で、か」


「色が変わるんです、衝撃が入ると。赤くなって、そのあと黒くなる」


「便利な目だな」


「便利じゃないです。見えるだけで何もできないんですから」


「見えなきゃ昨日は負けてた。何もできないってのは違う」


「……それ、昨日も聞きました」


「二回目だ。覚えとけ」


「でもわたし——」


 止まった。


 凛の手が少しだけ止まった。それだけだ。一秒もない。言葉を探して、見つからなくて、諦めたように包帯の端をテープで留めた。


「……できました」


 凛がテープの端を指で押さえて確認する。それから膝を伸ばし、立ち上がって離れようとした。


「日向」


 名前を呼んだ。


 普段は呼ばない。「お前」で済ませる。だが今は名前で呼んだ。口が先に動いていた。


 凛が止まった。振り返る。


「お前は、妹じゃない」


 平坦な声だ。確認するように言った。半分は自分に向けている。


 凛が動かない。


 視線をそらさなかった。


「……重ねてた。ずっと。分かってる」


 凛の目を見たまま続けた。


「でも、お前はお前だ。昨日の廃工場で——お前がいなけりゃ俺は負けてた。それだけが、正しい」


 凛の目に何かが浮きかけた。すぐに引っ込む。唇が震えて、それから——笑った。


「……分かりました」


 声が揺れている。でも笑っている。


「当たり前のことを言わないでください、神崎さん」


「当たり前か」


「はい。最初から、わたしはわたしですから」


 そうだ。こいつは最初からそうだった。重ねられていることに気づいていて、それでも気にしていない。


 視線をそらした。テーブルの上のマグカップに手を伸ばす。コーヒーは少しぬるくなっている。口に含んだ。苦い。凛が淹れるコーヒーはいつも少し濃い。


 凛がもう一つのマグカップを取って、向かいに座った。両手でマグカップを包んでいる。冷たい指を温めているのだろう。


「今日は動かないでください」


「分かってるよ」


「依頼も取らないでくださいね」


「取らねえよ。肋骨折れてんだぞ」


「昨日は肋骨折れたまま大天狗と戦ってましたけど」


「……あれは状況が状況だ」


「状況じゃなくて神崎さんの判断です」


 反論できなかった。コーヒーを飲む。


「鶴丸、直せますか」


「分からん。刀身が逝ってる。柄と鍔は無事だが、刃を打ち直すとなると——金がかかる」


「闇市場の鍛冶師さんですか」


「ああ。打てるやつは限られてる。霊具の刀身を打ち直せる鍛冶師は、東京に二人いるかどうかだ」


「見積もり、取りますか」


「療養してからな」


「……素直ですね、今日」


「うるせえ」


「褒めてます」


「褒めんな」


「あと、ご飯食べてください。コンビニのおにぎり、買ってきました」


「……気が利くな」


「当然です」


 窓から午前の光が差し込んでいる。埃が光の中を漂っている。静かだ。昨日の廃工場が嘘みたいに、ただ静かで、コーヒーの湯気だけが二つ並んで揺れている。


 スマートフォンが鳴った。


 テーブルの上で震えている。画面を見た。退魔局・東京支部の番号。


「……来たか」


 凛が横から画面を覗いた。


「退魔局、ですか」


 電話に出た。短い会話。相手の声は事務的で、用件だけ伝えて切れた。十五秒もかかっていない。


 スマートフォンをテーブルに置いた。


「何て?」


「明後日、支部に来いって」


「……理由は聞きましたか」


「D級フリーが上級を倒した。話を聞きたいんだとよ」


 凛がマグカップを両手で包んだまま、こちらを見ている。


「それって、昨日の件がもう届いてるってことですか」


「ああ。御三家が情報を封じる前に届いてる。退魔局は退魔局で情報網がある」


「……早いですね」


「早くないと意味がない。鳳凰院が動く前に退魔局が直接来た。そっちの方が都合がいい」


「都合がいい、って?」


「御三家経由だと揉み消される。退魔局直なら記録に残る」


 口元だけで笑った。


「御三家が動いたか、退魔局が動いたか。どっちにしても——」


 続きは言わなかった。コーヒーを飲んだ。ぬるい。


「わたしも行きますか、明後日」


「お前が行ってどうする」


「記録係です。神崎さん、話しながらメモ取らないので」


「……勝手にしろ」


「勝手にします」


 凛が小さく頷いた。マグカップを両手で握ったまま、窓の方を見ている。


 窓の外で車が通り過ぎる音がした。日常の音だ。


 壁は、動き始めている。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ