第16話 傷と休息
息を吸った。肋が軋んだ。
浅く、もう一度。左の三本目あたりが一番ひどい。寝返りを打った拍子に目が覚めた。仮眠スペースの天井が暗い。カーテンの隙間から朝の光が細く差し込んでいる。
左手首に意識を向けた。蔵に触れる。習慣だ。朝起きたらまず手持ちを確認する。戦場じゃなくても変わらない。
鬼切丸。重い。いつも通り。
霊喰い。軽い振動が手首に伝わる。問題ない。
破魔の札。十枚。紙の束の厚みが指に触れる。
——三つだ。
蔵の重さが足りない。昨日まで四つ分あった感触が、三つ分しかない。鶴丸のあった場所が空洞になっている。格納はされている。だが刀身が折れた以上、引き出しても鞘から抜けない。
目を閉じた。肋骨より先に、そっちが来た。
廊下で足音がしている。軽い。スリッパではない。凛のスニーカー。事務所に来ている。
コーヒーの匂いがカーテンの向こうから漂ってきた。豆を挽く音がする。凛が事務所のコーヒーミルを使っている。
起き上がった。肋が抗議する。無視した。壁に手をついて立つ。Tシャツが汗で張りついている。昨日のまま寝落ちしていた。
◇◇◇
事務スペースに出ると、凛がソファの前にいた。毛布を畳んでいる。テーブルにはマグカップが二つ。湯気が立っている。窓から差し込む朝日がマグカップの縁を白く光らせていた。
凛が振り返った。
「起きられたんですか」
「……うるせえ。起きてる」
「顔色、悪いですよ」
「いつも通りだろ」
「いつもはもう少しマシです。今日は土色です」
「お前も大概失礼だな」
「事実を言っただけです」
「朝っぱらから辛辣だな」
「心配してるんです」
凛の声が少し硬くなった。すぐに柔らかくなる。
「コーヒー、淹れました。飲んでください」
「……ああ」
「それと、着替え。洗面所に置いてあります。昨日のまま寝てたでしょう」
「分かった。あとでいい」
ソファに腰を下ろした。背中を曲げる動作で肋が軋む。息を止めて、ゆっくり背もたれに体重を預けた。
凛がこちらを見ている。目が少し赤い。瞼のふちが腫れている。何も言わなかった。
凛が事務机の引き出しから救急箱を持ってきた。昨夜のうちに場所を確認していたのだろう。
「包帯、巻き直させてください」
「いい」
「良くないです。昨夜のがずれてます、たぶん全部」
「寝てたんだから当たり前だろ」
「だから巻き直すんです。動かないでください」
反論を諦めた。凛がソファの横に膝をついて救急箱を開ける。ガーゼ、医療用テープ、弾性包帯。使う順に並べていく。予習してきた動きだ。
「上、めくれますか」
Tシャツの裾を持ち上げた。左の脇腹から胸にかけて紫色に変色している。凛の息が一瞬止まった。指先が震えかけて、すぐに止まる。
「……ひどいですね」
「見た目ほどじゃない」
「嘘つかないでください」
「嘘じゃねえよ。折れてるだけだ。刺さってない」
「折れてるだけ、って言い方がもうおかしいんですけど」
凛が古い包帯を外していく。指先が肌に触れる。冷たい。こいつの手はいつも冷たい。新しいガーゼを腫れた箇所にあてがい、包帯を肋骨に沿わせる。慎重に、ゆっくりと。
「きつくないですか」
「大丈夫だ」
「大丈夫って言うの、もう三回目です。全部信用してません」
「じゃあ聞くなよ」
「聞かないと加減が分からないので聞きます」
「めんどくせえやつだな」
「手当てさせてるのに文句言わないでください」
包帯が一周、二周と巻かれていく。力加減が安定してきた。テープで端を留める指先は震えていない。
息を整えた。浅く吸って、浅く吐く。凛の髪が近い。シャンプーの匂いが微かに混じる。朝、家で支度してから来ている。
「……痛かったですか、昨日」
「死んでねえよ」
声が少し低い。自分で気づいた。
「分かってます。死んでないのは見て分かりました」
凛の手が包帯をもう一周巻く。
「見えてましたから。全部。リアルタイムで」
「……全部か」
「はい。風刃が当たったところも。肋骨に入ったところも。鶴丸が折れたところも」
「霊視で、か」
「色が変わるんです、衝撃が入ると。赤くなって、そのあと黒くなる」
「便利な目だな」
「便利じゃないです。見えるだけで何もできないんですから」
「見えなきゃ昨日は負けてた。何もできないってのは違う」
「……それ、昨日も聞きました」
「二回目だ。覚えとけ」
「でもわたし——」
止まった。
凛の手が少しだけ止まった。それだけだ。一秒もない。言葉を探して、見つからなくて、諦めたように包帯の端をテープで留めた。
「……できました」
凛がテープの端を指で押さえて確認する。それから膝を伸ばし、立ち上がって離れようとした。
「日向」
名前を呼んだ。
普段は呼ばない。「お前」で済ませる。だが今は名前で呼んだ。口が先に動いていた。
凛が止まった。振り返る。
「お前は、妹じゃない」
平坦な声だ。確認するように言った。半分は自分に向けている。
凛が動かない。
視線をそらさなかった。
「……重ねてた。ずっと。分かってる」
凛の目を見たまま続けた。
「でも、お前はお前だ。昨日の廃工場で——お前がいなけりゃ俺は負けてた。それだけが、正しい」
凛の目に何かが浮きかけた。すぐに引っ込む。唇が震えて、それから——笑った。
「……分かりました」
声が揺れている。でも笑っている。
「当たり前のことを言わないでください、神崎さん」
「当たり前か」
「はい。最初から、わたしはわたしですから」
そうだ。こいつは最初からそうだった。重ねられていることに気づいていて、それでも気にしていない。
視線をそらした。テーブルの上のマグカップに手を伸ばす。コーヒーは少しぬるくなっている。口に含んだ。苦い。凛が淹れるコーヒーはいつも少し濃い。
凛がもう一つのマグカップを取って、向かいに座った。両手でマグカップを包んでいる。冷たい指を温めているのだろう。
「今日は動かないでください」
「分かってるよ」
「依頼も取らないでくださいね」
「取らねえよ。肋骨折れてんだぞ」
「昨日は肋骨折れたまま大天狗と戦ってましたけど」
「……あれは状況が状況だ」
「状況じゃなくて神崎さんの判断です」
反論できなかった。コーヒーを飲む。
「鶴丸、直せますか」
「分からん。刀身が逝ってる。柄と鍔は無事だが、刃を打ち直すとなると——金がかかる」
「闇市場の鍛冶師さんですか」
「ああ。打てるやつは限られてる。霊具の刀身を打ち直せる鍛冶師は、東京に二人いるかどうかだ」
「見積もり、取りますか」
「療養してからな」
「……素直ですね、今日」
「うるせえ」
「褒めてます」
「褒めんな」
「あと、ご飯食べてください。コンビニのおにぎり、買ってきました」
「……気が利くな」
「当然です」
窓から午前の光が差し込んでいる。埃が光の中を漂っている。静かだ。昨日の廃工場が嘘みたいに、ただ静かで、コーヒーの湯気だけが二つ並んで揺れている。
スマートフォンが鳴った。
テーブルの上で震えている。画面を見た。退魔局・東京支部の番号。
「……来たか」
凛が横から画面を覗いた。
「退魔局、ですか」
電話に出た。短い会話。相手の声は事務的で、用件だけ伝えて切れた。十五秒もかかっていない。
スマートフォンをテーブルに置いた。
「何て?」
「明後日、支部に来いって」
「……理由は聞きましたか」
「D級フリーが上級を倒した。話を聞きたいんだとよ」
凛がマグカップを両手で包んだまま、こちらを見ている。
「それって、昨日の件がもう届いてるってことですか」
「ああ。御三家が情報を封じる前に届いてる。退魔局は退魔局で情報網がある」
「……早いですね」
「早くないと意味がない。鳳凰院が動く前に退魔局が直接来た。そっちの方が都合がいい」
「都合がいい、って?」
「御三家経由だと揉み消される。退魔局直なら記録に残る」
口元だけで笑った。
「御三家が動いたか、退魔局が動いたか。どっちにしても——」
続きは言わなかった。コーヒーを飲んだ。ぬるい。
「わたしも行きますか、明後日」
「お前が行ってどうする」
「記録係です。神崎さん、話しながらメモ取らないので」
「……勝手にしろ」
「勝手にします」
凛が小さく頷いた。マグカップを両手で握ったまま、窓の方を見ている。
窓の外で車が通り過ぎる音がした。日常の音だ。
壁は、動き始めている。




