第17話 影鬼の囁き
走っている。
港区の路地裏。街灯が一本おきに切れている。足元のアスファルトが湿っている。雨じゃない。排水管からの漏水だ。靴底が水を弾く音が狭い壁に反響する。
左の肋骨が軋んだ。完治していない。三本折れたうちの二本はくっつき始めているが、一本がまだ遊んでいる。走ると刺す。呼吸を浅くして、歩幅を狭めた。
妖怪速報に出た情報。「影鬼の眷属らしき目撃」。港区、廃墟ビル群の南側。二十三時四十七分。投稿者は退魔師ではない。一般人。写真はブレていて使えなかったが、瘴気の描写が具体的すぎた。「焦げた匂いがした」。影鬼の眷属を知らない人間がその表現を使う。本物だ。
凛には「事務所で待ってろ」と言った。
言い方が悪かったのは分かっている。案の定、返信が来ていない。怒っているか、追いかけてくる準備をしているか。どちらにしても今は構っていられない。
路地の奥。匂いが変わった。
腐った水——じゃない。もっと深い。焦げた影の匂い。瘴気が空気の層を一枚変えている。温度が二度下がった。息が白い。四月なのに。
蔵に触れた。鬼切丸を引き出す。短刀の重さが掌に落ちる。亀裂が入っている刀身。三つしかない手持ちの一つ。慎重にいく。
壁に背をつけた。路地の先を覗く。
いた。
ビルの壁を這っている。黒い。影そのものが剥がれたような形。輪郭が揺れている。中級。影鬼の眷属だ。大天狗とは比較にならないが、こいつは影鬼の一部だ。情報源になる。
◇◇◇
影が動いた。
壁から剥がれて、地面に滑り落ちる。水溜まりに沈む——そのまま消えた。影に潜った。街灯の光が届く範囲と届かない範囲、その境界線を縫うように移動している。
瘴気を追った。匂いで位置を測る。だが影の中に溶け込むと、瘴気が希薄になった。影鬼の一部だから影に同化できる。通常の妖怪の索敵法が通じない。
鬼切丸を構えたまま、動かなかった。待ちに切り替える。こちらが先に動けば、向こうが先手を取る。
天井を這う気配がした。上だ——と思った瞬間、左の壁が動く。
読まれていた。
一撃目。気配に向かって横薙ぎ。手応え——軽い。影の端を掠めただけだ。核の位置が分からない。凛がいれば一目だ。弱点の色が、ひびの形が、最初から視えていた。
眷属が壁に戻った。天井を伝う。速い。
瘴気の匂いを追った。右手の壁。上に移動している。次は左か——
上から来た。真上。
見えた瞬間には遅い。影の爪が右の脇腹をかすめた。
骨折箇所に響いた。
くっつきかけていた一本が軋む。折れた感触ではない。だが正確に、骨が悲鳴を上げた。体勢が崩れる。片膝をついた。息を止めて堪える。空気を吸い込んだら骨が動く。
眷属が即座に壁へ逃げた。
立ち上がった。息を浅く吸う。脇腹が熱い。
三つしかない霊具。骨折。そこに脇腹への追加衝撃。凛に「待ってろ」と言ったのは正しかった。こんなものに巻き込んでどうする。
二撃目。影が降りてきた瞬間に突く。中心を狙う。刃が通り抜けた。空振り。核はそこにない。
だが——見えた。
壁に戻るとき、一瞬だけ腹の下側を庇う動きがある。そこだ。
三撃目。
わざと重心を傾けた。骨折のせいで体が右に傾く。それを隠さなかった。誘い。影が降りてくる。気配で位置を測る。振り返りざまに鬼切丸を突き上げた。影の腹——中心より少し下。刃が何かに引っかかった。硬い。核だ。
捻じ込む。
核が砕けた。乾いた音がした。影が散る。瘴気が霧のように広がって路地を満たし、ゆっくり薄れた。
脇腹を押さえる。くっついてきた骨がまたずれた。完治が遠のいた。
三撃。凛がいれば一撃で終わった。弱点が視えないだけで、手数が三倍になる。消耗も三倍。脇腹も無傷ではすまない。鬼切丸の刀身の亀裂が少し広がった気がする。
「……ひとりは、面倒くせえ」
誰もいない路地裏で、声に出していた。
◇◇◇
事務所のドアを開けると、凛がソファから立ち上がった。
「無事ですか」
「ああ」
「……一人で行ったんですね」
声が平坦だ。怒っている。テーブルにはマグカップが一つ。湯気はもう立っていない。ずっと待っていたのだろう。
「影鬼絡みだ。お前を巻き込みたくない」
「巻き込みたくない、じゃなくて——」
言いかけて、止めた。唇を引き結ぶ。何か飲み込んでいる。
事務机に座った。凛がテーブルの上の封筒を押しやった。退魔局の公印が押されている。
「来てました。留守の間に」
封を切った。
——D級免許の特例取得について、退魔局審査委員会による再審査を実施します。
日付は三日後。
「これ、嫌がらせですよね」
「鳳凰院だな」
即座に出た。退魔局の召喚は別件だ。あれはD級フリーが上級を倒した件で、退魔局が独自に情報収集に来た。こっちは違う。審査委員会。制度を使った介入。
上級妖怪を倒したD級フリー。退魔局のデータベースに記録される。鳳凰院家がそれに気づいた。免許再審査は——牽制だ。
「影鬼に近づくな、ってことですか」
「ああ。直接言えないから制度で締めてくる。鳳凰院らしいやり方だ」
封筒をテーブルに放った。凛がそれを拾い上げて、文面を読み直している。眉間に皺が寄っている。
「対処できますか」
「D級免許の範囲で動いてる限りは、再審査されても落ちようがない。嫌がらせは嫌がらせだ。実害はまだない」
「……まだ、ですか」
「ああ。まだだ」
窓の外は暗い。事務所の蛍光灯が白い。凛がマグカップを差し出した。受け取った。温かい。さっきのとは別に淹れ直したらしい。
凛の視線が落ちた。脇腹だ。
「……見せてください」
「いい」
「よくないです」
返す間もなかった。キャビネットから救急箱が出てくる。シャツの裾を引き上げられた。影の爪痕。内出血が滲み始めている。
凛は黙って手当てをした。指先が丁寧だ。怒っている人間の動きじゃない。でも怒っているのは分かる。
「一人で行くなら、せめて無事で帰ってきてください」
声が静かだった。怒鳴らない。怒鳴れない声だ。
凛がソファに腰を下ろして、タブレットを開いている。退魔局の審査委員会を調べているのだろう。眉間の皺がまだ消えていない。
───
一人で現場に戻った。
凛には「痕跡を確認してくる」とだけ伝えた。嘘ではない。嘘ではないが、全部でもない。凛は一瞬口を開きかけて、何も言わずに頷いた。二度目だ。今夜、凛が言葉を飲み込んだのは。
廃墟ビル群。さっき眷属を倒した路地。瘴気がまだ残っている。焦げた影の匂い。薄くなっているが、消えていない。
残滓を調べた。核が砕けた跡。アスファルトに黒い染みが広がっている。通常の中級妖怪なら、核が砕ければ瘴気は数分で消える。残ったままだ。影鬼の眷属だからだ。本体との繋がりが瘴気を固定している。
しゃがみ込んで染みに触れた。指先が冷たい。瘴気の密度が高い部分は、触れると温度を奪う。影鬼の眷属特有の性質だ。通常の妖怪の瘴気にはない。
立ち上がろうとした。
——声がした。
低い。遠い。だが確実に——聞こえた。
「……知っているよ」
振り返った。誰もいない。路地の奥。街灯の光。壁。水溜まり。それだけだ。
「お前のことは——知っている」
瘴気の残滓の中から。幻聴のように。だが幻聴じゃない。瘴気が振動している。空気の温度がさらに下がった。吐く息が白い。
全身の毛が逆立った。
影鬼。本体がここにいるわけじゃない。眷属の残滓を通して、声だけが届いている。東京にいた痕跡——いや、違う。こいつは俺を知っている。最初から。
「……小春の——」
途切れた。
瘴気の振動が止まった。温度が戻る。街灯が明滅して、元の光に戻った。
立ち尽くしていた。どのくらいそうしていたか分からない。数秒か、数分か。
拳が震えている。握り込んでも止まらない。爪が掌に食い込んでいる。痛みで震えが収まるかと思ったが、収まらない。
小春の——何だ。記憶か。名前を知っているのか。七年前のことを覚えているのか。
七年間、俺は影鬼を追った。痕跡を辿り、目撃情報を集め、眷属を潰して少しずつ影鬼に近づく。そう思っていた。
復讐の対象が、こちらを見ていた。ずっと。
◇◇◇
帰路。足が重い。
スマートフォンが振動した。凛からのメッセージ。
『大丈夫ですか。遅いです』
画面を見た。返信を打とうとした。
指が震えている。
影鬼が俺を知っている。小春の名前を出した。七年間——追っていたのは俺だと思っていた。復讐のために情報を集めて、痕跡を辿って、少しずつ近づいていると。
違った。
見られていた。最初から。
追っていたんじゃない。見られていたんだ。
月が出ている。薄い雲の向こうに、欠けた月。
返信を打った。
『問題ない。戻る』
嘘だ。問題しかない。
スマートフォンをポケットにしまった。手をポケットの中で握り込んだ。まだ震えている。
風が吹いた。四月の夜風。生温い。さっきまで瘴気で冷えていた肌に、普通の空気の温度が戻ってくる。
歩いた。影が足元で揺れている。街灯の光。自分の影。それだけだ。
歩いた。




