第18話 嵐の前
コーヒーの匂いがする。
自分で淹れた。朝の光が事務所のデスクに差し込んでいる。白い光だ。窓の外で車が通り過ぎる。排気音が遠ざかって、また静かになる。四月の朝。日常の事務所。
スマートフォンの画面を見ている。退魔局アプリの依頼一覧。港区のD級除霊案件。渋谷区の結界補修。世田谷区の瘴気調査。文字を目で追っている。追っているだけだ。頭に入らない。
——知っているよ。
昨夜の声がよみがえる。廃墟ビルの路地裏。瘴気の残滓から届いた、低い声。遠くて、確実に聞こえた。
——小春の——
途切れた。あの先に何がある。名前か。記憶か。七年前の何を知っている。
肋骨が軋んだ。呼吸を浅くしても鈍い痛みが走る。脇腹の爪痕は凛が巻いた包帯の下で疼いている。デスクに腕を置くたびに包帯の端が袖口からのぞく。衣擦れのたびに傷口が主張する。
依頼一覧に目を戻した。港区のD級除霊案件。さっき見た。同じ画面だ。三回目。スクロールすらしていない。
コーヒーを飲んだ。ぬるかった。
◇◇◇
ドアが開いた。
「おはようございます」
凛だ。肩からノートPCの入ったバッグを提げている。片手にクリアファイル。中に紙の束が見えた。
「ああ」
凛がデスクの向かい側に座った。バッグからノートPCを出して電源を入れる。起動を待つ間にこちらを見た。視線が一瞬、脇腹に落ちる。
「包帯、替えますか」
「いい」
「……動くと擦れますよ。昨日の巻き方だと」
「大丈夫だ」
それ以上は追及しなかった。PCの画面に向き直る。クリアファイルを開いて、印刷した紙を並べ始めた。
「昨日の件、整理してきました」
「早いな」
「妖怪速報の投稿を三ヶ月分、全部洗いました。影鬼の眷属と思われる目撃情報。五件です」
「三ヶ月分。いつやった」
「昨夜です。帰ってから」
「……寝てないのか」
「寝ました。四時間くらい」
凛の声はさらりとしている。当然のことを報告している口調だ。PCの画面を回して見せた。表計算ソフトに日付・時刻・場所・投稿者の属性・瘴気の特徴が入力されている。右端には凛の所見が各件に添えてあった。
「退魔局の出動記録と照合したいんですけど、アプリのアクセスが必要です。テザリングお願いできますか」
「ああ」
スマートフォンを渡した。凛がテザリングの設定を開く。操作に迷いがない。何度かやった手つきだ。
「ありがとうございます。……出動記録が紐づいてない案件もあるので、少し時間かかります」
「構わない」
凛が照合を始めた。キーボードを叩く音が事務所に響く。規則的で速い。データの列をスクロールしては止め、別のシートに切り替える。視線がPCの画面と印刷した紙を往復する。
「一件目の港区、これ出動記録ありますね。D級案件で処理されてます。……二件目の品川は記録なし。目撃だけで出動してない」
「影鬼の眷属って認識されてなかったんだろうな」
「だと思います。投稿者は一般の人で、『黒い煙みたいなものが壁を這ってた』って書いてます。退魔局が動く案件じゃなかったんでしょうね」
凛の指がキーボードの上を走る。照合結果を一件ずつシートに追記していく。
依頼一覧の画面がまだ開いたままだ。同じ画面。三回目のまま。凛の視線が一度だけ、こちらのデスクに移った。依頼一覧を見ただろう。何も言わなかった。視線をPCに戻して、照合を続けた。
◇◇◇
「できました」
三十分後。凛がPCの画面をこちらに向けた。
地図だった。東京都の地図に五つの赤い点が打たれている。港区。品川区。大田区。目黒区。世田谷区。
「出現地点を時系列で並べたんです。最初はバラバラに見えたんですけど」
凛がマウスを動かした。五つの点を線で結ぶ。一本の線が南西に伸びる。
「全部、南西方向です。都心から離れる方角。起点の位置も終点の位置も、方角が一致してます」
「五件全部か」
「五件全部です」
「眷属が南西に向かってるのか。それとも南西から来てるのか」
「そこまでは分かりません。出現と消失の順序が掴めればいいんですけど、妖怪速報の情報だと目撃時刻しか記録されてなくて。ただ」
凛が地図の端を指した。五つの点を結ぶ線の延長上。
「消失地点が記録されてる案件が一件だけあります。三件目。大田区のやつです。消失地点も南西。出現地点より一・五キロ南西に移動してから消えてます」
「南西に向かってる」
「少なくともこの一件は確定です。他の四件も方角は一致してます。偶然にしては揃いすぎてます」
凛の声に迷いがない。データに裏打ちされた声だ。推測ではなく、事実を積み上げている。
「もう一つ」
表計算ソフトに切り替えた。日付の列を指で示す。
「出現の間隔です。一件目と二件目は十四日空いてます。二件目と三件目が十二日。三件目と四件目が十日。四件目と五件目が五日です」
「縮まってる」
「はい。ここ一ヶ月で一気に加速してます」
「最後が五日ってことは、次は三日か四日か」
「分かりません。でも加速の傾向は明確です。等間隔じゃなくて、縮まり方自体が速くなってます」
五日。あるいはそれ以下。計算しようとした。凛が先に口を開いた。
「間隔と方角から絞り込めば、次の出現地点と時期を予測できるかもしれません。精度はまだ低いですけど、少なくとも方角は確定してます。出動記録の過去分をもっと掘れば、精度を上げられます」
凛がPCから顔を上げた。目が真っ直ぐだった。凛は自分が何を成し遂げたか理解している。
——影鬼が俺を認識した。だから眷属が活性化したのか。
口には出さなかった。出せない。昨夜の声のことを話せば、凛はもっと深く踏み込んでくる。声の内容を聞けば、凛は一人で調べ始める。
「……見つけられるかもしれない」
声に出ていた。自分でも気づかないうちに。小さい声だった。
「出せます」
凛が頷いた。目の光が変わらない。確信がある目だ。
「三ヶ月じゃ足りないかもしれません。出動記録の過去分、できれば一年分は当たりたいです」
「一年分」
「パターンが三ヶ月より前からあったかどうかを確認したいんです。もし一年前は出現してなかったなら、何かのきっかけで活性化したことになります」
何かのきっかけ。俺を認識したことが、そのきっかけか。口に出さなかった。
◇◇◇
照合が一段落した。凛がコーヒーを入れ直している。ポットに湯を注ぐ音。カップを棚から出す音。日常の動作。事務所に午前の光が回ってきている。
「次の調査は、俺一人で行く」
凛の手が止まった。ポットを置く。ゆっくりとした動作だった。
「……何か、隠してますよね」
「別に」
「昨日から。帰ってきてからずっとです。いつもと違う」
「何が」
「目です。見てるけど見てない。朝からずっとそうでした」
凛がこちらを見ている。目をそらさない。
「依頼一覧、三回同じ画面でした」
黙った。見抜かれていた。凛は朝から気づいていて、指摘しなかっただけだ。照合を優先した。
「昨日わたしが言いかけたこと。覚えてますか」
「……」
「『巻き込みたくない、じゃなくて』——遠ざけたいんですよね、わたしを」
立ち上がった。窓際に行く。背を向けた。外の通りに車が走っている。信号が変わった。歩行者が横断歩道を渡る。日常の風景だ。
影鬼の声のことは話せない。話したら凛はもっと深く入ってくる。南西の方角。頻度の加速。凛が見つけたパターン。その先に影鬼がいるかもしれない。凛を、そこに連れていけない。
「お前には関係ない案件だ」
「関係あります」
声が揺れていない。
「妖怪速報を整理して、出動記録を照合して、パターンを見つけたのはわたしです。三ヶ月分のデータを、昨夜一晩で全部洗いました」
静かだった。怒鳴っていない。声が平坦だからこそ、逃げ場がない。
「それでも関係ないって言うなら——わたしがここにいる意味、何ですか」
振り返らなかった。答えなかった。窓の外を見ている。車が通り過ぎる。
事務所の時計の秒針が聞こえる。凛が少し待った。五秒か、十秒か。
「……わかりました」
声のトーンが下がった。だが諦めた声ではない。飲み込んだ声でもない。
凛がPCを閉じた。電源コードを丁寧に巻いて、鞄に入れる。クリアファイルを戻す。帰り支度を始めた。動作は落ち着いている。取り乱していない。
「出動記録の過去三年分、明日までに全部照合します。次の出現予測、出せると思います」
背中越しに聞こえた。凛の声は淡々としている。仕事の報告と同じ調子だ。だが言外に——まだ退かない、と言っている。退く気がない。
鞄を肩にかける音がした。靴音がドアに向かう。止まった。
「神崎さん」
振り返らない。
「わたしは、自分で決めてここにいます」
ドアが開いて、閉まった。
一人だ。
凛のノートPCは持って帰った。だがデスクの上に、印刷した地図が一枚残っている。五つの赤い点。南西方角。頻度の加速。凛がいなければ、これは見えなかった。三ヶ月分のデータを一晩で整理して、パターンを見つけた。凛の仕事だ。
——知っているよ。
頭の中で、また声がする。影鬼の声。昨夜と同じだ。消えない。朝から何度も。依頼一覧を見ているときも。凛が照合しているときも。ずっと。
拳を握った。爪が掌に食い込む。昨夜と同じだ。止まらない。
次は一人で行く。凛を連れていかない。
それが——正しい。




