第19話 影との邂逅
妖怪速報が鳴った。
四時五十三分。事務所のデスクに突っ伏して仮眠を取っていた。首の後ろが冷たい。四月の早朝。窓の外に朝靄が白く漂っている。
画面を見た。新宿区、歌舞伎町南西。影鬼の眷属。複数同時発生。通知が三件。立て続けだ。
凛の出現予測が当たった。南西方角。頻度の加速。三ヶ月分のデータを一晩で洗って凛が見つけたパターン。的中している。
立ち上がった。肋骨が軋んだ。脇腹の爪痕が衣擦れで引きつる。鬼切丸の柄を握った。指先に亀裂が伝わってくる。刀身に走るひび割れ。前回より深い。
スマートフォンを取った。凛の番号を出す。
「事務所で待ってろ。出るな」
通話を切った。返事は聞かなかった。聞いたら止まるかもしれない。昨日の凛の声が耳に残っている。「わたしは、自分で決めてここにいます」。あの声を聞いたまま、凛を連れていくわけにはいかない。
霊喰いを腰に下げる。破魔の札を三枚、内ポケットに入れた。鶴丸は使えない。手持ちはこれで全部だ。
事務所のドアを開けた。朝靄の冷気が頬を刺す。息が白い。凛が印刷した地図がデスクの上にある。五つの赤い点。南西方角。あの地図が指し示していた場所に、今から行く。
◇◇◇
歌舞伎町南西。路地裏。
瘴気の匂いが先に来た。焦げた土と腐敗。影鬼の眷属に特有の臭気。空気の層が一段重くなっている。気温が落ちた。靴底にアスファルトの湿りが伝わる。
路地の奥に二体。壁を這っている。中級相当。輪郭が揺れる黒い影。こちらには気づいていない。空転体は霊力がゼロだ。妖怪の索敵に引っかからない。
鬼切丸を抜いた。
一体目。壁から飛び降りてきたところを横薙ぎ。核を断つ。手応え——重い。刀身の亀裂に振動が走った。握り直す。
二体目は地面の影に沈んでいた。足元から浮き上がる気配。跳んだ。同時に霊喰いの鎖を振る。重りが影を叩く。形が崩れたところに鬼切丸を突き刺した。核を砕く。瘴気が霧散した。
二体。それだけだ。
だが瘴気が収まらない。むしろ濃くなっている。足元の排水溝から黒い気が噴き出していた。格子の隙間から、地下の闇が覗いている。
下に何かがいる。
排水溝の格子に手をかけた。
「神崎さんッ」
振り返った。
凛だ。バッグを肩にかけたまま、息を切らしている。走ってきたのだ。頬が赤い。朝靄の中に白い息が立っている。
「帰れ」
「帰りません」
声が揺れていない。こちらを真っ直ぐ見ている。
「出現予測は合ってました。でも数が想定より多い」
「分かってる。だから帰れ。お前が来る場所じゃない」
「南西の終着点はここです。わたしが出した予測の、一番奥です」
「聞こえなかったか。帰れ」
「わたしがいなければ、下に何がいるか分からないまま降りるんですよね」
答えなかった。正論だった。凛がいなければ核の位置が見えない。地上の眷属二体でさえ、凛の目があればもっと速く片づけられた。
「地下の瘴気密度は地表よりずっと高いはずです。わたしの目がないと、核の位置が分からない」
「死ぬかもしれないぞ」
「知ってます」
凛の声は平坦だった。怖がっていないのではない。分かった上で来ている。昨日、「自分で決めてここにいます」と言い切った声と同じだ。
排水溝から瘴気がまた噴き上がった。量が増えている。地下から押し上げてくる。凛を帰す時間がない。ここで押し問答をしている間にも、地下の何かが動いている。
格子を持ち上げた。鉄の音が路地に響いた。地下への暗い穴が開く。瘴気が渦を巻いて立ち昇る。
凛を見た。凛は後ろに下がっていない。
「……ついてこい。離れるな」
「はい」
地下に降りた。
◇◇◇
コンクリートの床が五メートルで途切れた。むき出しの岩盤。天井が低い。瘴気が霧のように立ち込めて視界が三メートル先で消える。温度が三度は下がっていた。息が白い。
匂いが変わった。腐敗ではない。もっと古い。土の底の、触れてはいけないものの匂い。
「右の壁際。二体。核は胸の裏側です」
凛の声が背後から来た。低く、正確な声。
壁際を見た。瘴気の霧の向こうに、影が二つ蠢いている。
「了解」
踏み込んだ。一体目。霊喰いの鎖を振る。影の胴に鎖が巻きつく。引いた。体勢が崩れる。背面に回り込んで鬼切丸を突く。核を砕いた。
「もう一体、天井に移動してます。核の位置は同じです」
見上げた。天井を這う影。破魔の札を投げた。瘴気が一瞬散開する。影の動きが鈍る。跳んだ。天井に向かって鬼切丸を突き上げる。核に当たった。手応え。影が崩れ落ちる。
着地した。肋骨に衝撃が走った。鬼切丸が震えている。亀裂が広がった。指先に伝わる振動が変わっている。刀身の半分まで走るひび割れ。
「神崎さん、刀が——」
「分かってる」
次の一撃で折れるかもしれない。
「奥にもう一体。大きいです。核が——見えにくい。瘴気が厚すぎます」
三体目。奥の岩盤に張りついている。他の二体より一回り大きい。瘴気の膜が核を覆っている。
「近づかないでください。瘴気が厚すぎて、もう少し寄らないと核が——」
「下がってろ」
霊喰いを投げた。鎖が影の脚部に絡む。引く。岩盤から引き剥がす。影が床を転がる。瘴気の膜が薄くなった。
「見えました。核、左の肩口の下です!」
鬼切丸を振り下ろした。肩口の下。手応えが来た。核を断った。影が瓦解する。
三体。終わった——
空洞の奥から声が響いた。
「来たか」
瘴気が変わった。
霧のように拡散していた瘴気が、一点に凝縮し始めた。空洞の奥。岩盤の壁の前。闇が集まっている。密度が違う。空気の重さが変わった。
形が生まれた。
輪郭が揺れている。定まらない。人の形に近い。だが影そのものだ。影だけでできた何かが、岩盤の前に立っている。
全身の毛が逆立った。
空転体の五感が叫んでいる。嗅覚が瘴気の密度を測る。触覚が空気圧の変化を拾っている。皮膚の表面に圧がかかる。眷属とは桁が違う。中級でも上級でもない。
——これは、上級じゃない。
もっと上だ。災厄級。あるいはそれ以上。「影」だ。投影にすぎない。本体ではない。投影だけでこの圧。本体の格が測れない。
背後で凛の呼吸が浅くなった。凛の手がこちらの袖を掴んだ。指先が震えている。だが逃げていない。
影の輪郭が揺れた。口に当たる部分が動いた。
「知っているよ。お前のことは——知っている」
声は低く、知的だった。古い言葉遣い。愉悦が滲んでいる。この声を聞いたことがある。あの夜の路地裏。瘴気の残滓から届いた声。同じだ。
「……お前が、影鬼か」
絞り出した。声が掠れている。
「影鬼。人間がつけた名だ。嫌いではないよ」
影の口元が歪んだ。
「小春の記憶から、お前の顔は見えていた」
呼吸が止まった。
小春。影鬼が小春の名前を口にした。記憶。小春の記憶を、こいつが持っている。
「お前の妹は、俺が選んだ」
鬼切丸を握る手が震えた。
「偶然ではない。彼女は最初から——依代として必要だった」
音が消えた。瘴気の霧が肌に触れている。冷たい。凛がそばにいる気配がある。だが何も聞こえない。影鬼の声だけが頭の中で反響している。
依代。小春が依代だった。偶然じゃなかった。七年前のあの日。任務中の事故ではなかった。最初から——選ばれていた。
「嘘だ」
声が出ていた。掠れた声だ。自分の声だと気づくのに一拍かかった。
「嘘ではない。そんなことは、お前が一番よく知っているだろう」
影の輪郭が歪んだ。口元が動いている。
「憎悪は面白い。生きている証だよ、神崎迅」
身体が動いた。
鬼切丸を振りかぶった。踏み込む。全力。亀裂も折れる危険も何も考えていない。考えられない。影鬼に向かって振り下ろした。
空を切る。
影の輪郭が揺らいで、散った。投影だ。本体はここにいなかった。最初からいなかった。
振り下ろした勢いで体勢が崩れる。鬼切丸が岩盤に叩きつけられる。衝撃が腕を伝って肋骨に響いた。膝をついた。
瘴気が膨張する。
天井から岩盤が落ちてきた。崩れ始めている。空洞が崩壊していく。
動けない。身体は動くのに、判断が追いつかない。影鬼の言葉が頭の中で回り続けている。「俺が選んだ」「偶然ではない」「依代として必要だった」。
「神崎さんッ!」
腕を掴まれた。
凛の手だった。小さい。だが力が強い。引っ張っている。
「走ってください! 天井が崩れます!」
「……」
「神崎さん、立って!」
立った。凛の手が腕を掴んだまま離れない。地下通路を駆け上がる。天井から瓦礫が落ちてくる。肩を掠めた。凛が先を走っている。来た道を覚えている。迷っていない。
「こっちです、右」
コンクリートの床が戻ってきた。排水溝の入り口。上から光が差している。
朝の光だ。
地上に出た。
膝をついた。アスファルトの冷たさが膝を打つ。呼吸が荒い。肋骨が叫んでいる。吐き気が込み上げた。堪えた。
凛が隣に座り込んだ。息を切らしている。服が泥だらけだ。腕に擦り傷がある。髪に岩の粉がついている。膝が擦れて血が滲んでいる。
朝靄が薄れ始めている。路地裏に光が差し込んでいた。さっきまでいた地下の闇が嘘のように、朝が来ている。
手を見た。震えている。止まらない。鬼切丸を見た。刀身に新しい亀裂が入っていた。岩盤に叩きつけた痕。もう使えるか分からない。
影鬼の言葉が消えない。
「お前の妹は、俺が選んだ。偶然ではない」。
偶然じゃなかった。
七年間、悔いてきた。あの日、任務についていけていれば。もっと強ければ。守れたはずだと。だがそうではなかった。
最初から、救えなかった。
「……大丈夫ですか」
凛の声が聞こえた。近い。隣にいる。泥だらけの手で、まだこちらの腕を掴んでいた。
凛の手を振り払う。立ち上がった。
「……戻りましょう。事務所に」
答えなかった。歩き出した。
手が震えている。止まらない。




