第20話 退魔師は霊力を持たない
朝靄が薄れていく路地裏を歩いた。アスファルトが湿っている。冷気が靴底から這い上がってくる。歌舞伎町の朝は静かだ。看板の灯りが消え、残ったのは始発前の空気と排水溝の匂いだけ。
鬼切丸の柄を握った。指先に亀裂の凹凸が返ってくる。岩盤に叩きつけた傷。前よりずっと深い。ポケットから鍵を出そうとした。脇腹に鈍い痛みが走る。肋骨の上を爪痕がなぞっている。息を飲んだ。顔には出さない。
後ろで凛の足音が続いている。等間隔。何も言わない。泥だらけのスニーカーがアスファルトを踏む音だけが、俺の足音に重なっている。言わないことを選んでいる。
手が微かに震えていた。鬼切丸の柄を握り直す。止まらない。
事務所のビルが見えた。三階の窓が暗い。階段を上がる。鍵穴に鍵を差し込む。脇腹を庇いながらドアを開けた。朝の光が狭い部屋に斜めに差し込んでいる。埃が光の中を舞っていた。
鬼切丸を机の上に置いた。乾いた金属の音。凛がコーヒーメーカーの前に立つ。水を入れる音がする。豆を挽く音。いつもの手順を、いつもの順番で。
◇◇◇
コーヒーが机に置かれた。白い湯気が立ち上る。取らなかった。鬼切丸を手にして、刃の亀裂を指でなぞっている。三本目の亀裂。一本目は大天狗戦。二本目は港区の眷属戦。三本目は昨日の地下。岩盤に叩きつけた衝撃。次の一撃で折れるかもしれない。
凛がバッグからノートパソコンを取り出した。横にA4の紙が挟まっている。
「あの、昨日の分析の続きがあるんですけど」
手が止まった。凛の声は平坦だった。感情の話をしない。仕事の話だ。
「影鬼の眷属の出現地点と地下空洞からの距離を、全部計算し直しました」
「……計算」
「はい。出現地点を結んだラインが弧を描いてるんです。直線じゃなくて。そこから本体の移動速度に上限が出ました」
A4の紙を差し出してきた。手描きの表。三ヶ月分の出現ポイントが赤ペンで繋がれている。直線ではなく弧。凛の言った通りだった。数字が紙の端まで続いている。余白にメモが走り書きされていた。数式らしきものまである。昨夜のうちに書いたのか。地下から這い出て泥まみれのまま。
紙を取った。黙って見た。南西エリア。半径1.5キロ。出現間隔が短くなっている。十四日から五日。そして三日。加速している。
「次の出現窓は、早ければ三日以内です。南西エリアの地下空洞から半径1.5キロ圏内。ここが一番確率が高い地点です」
凛の指が紙の上の赤い点を指した。爪の横に擦り傷がある。赤黒い。手の甲にも引っ掻き傷。膝の辺りに乾いた血が滲んでいた。服は泥だらけのままだ。
紙から顔を上げた。凛を見た。着替える暇もなかったのか。コーヒーを淹れて、データをまとめて、ここに座っている。
「……着替えた方がいい」
凛が少し目を丸くした。それから小さく笑った。
「神崎さんこそ。コートの裾、泥だらけですよ」
「コートはいい」
「よくないです。傷も見せてください。脇腹、庇ってたの、分かってますから」
答えなかった。凛がテーブルの向こう側から少しだけ身を乗り出す。
「……先に着替えます。神崎さんもですよ」
───
着替えを終えた。椅子に座る。コーヒーを飲んだ。凛が淹れ直してくれていた。さっき置かれた一杯目はもう冷めている。苦い。温かい。
凛が向かい側の椅子に座っている。着替えた服は事務所に置いてある替えのパーカー。ノートをめくっている。ペンが紙の上を走る音。エアコンの低い唸り。事務所に朝の光が落ちている。窓の外で鳩が鳴いた。静かだ。
机の上に鬼切丸がある。亀裂が走った刃。その横に凛の分析データが広がっている。赤い点と線。手描きの数式。
修理が必要だ。鬼切丸を修理に出している間は動けない。一人では。
凛のデータを思い返す。南西エリア。半径1.5キロ。三日以内。出現を予測できる。それは——追えるということだ。七年間手がかりすら掴めなかった影が、初めて輪郭を持った。凛のデータが、そこに線を引いている。
凛が顔を上げた。目が合った。何も言わない。ノートの上でペンを持つ手が止まっている。待っている。何かを。
凛はここにいる。義務はない。借りは五ヶ月前に清算した。明日から来なくていい、そう言っても出て行かなかった。「自分で決めてここにいます」——あの言葉が耳に残る。来るなと言ったのに来た。崩れる天井の下で、腕を掴む手。小さかった。力が強かった。
鬼切丸の柄の上で、手が止まる。
震えが止まっている。いつからか分からない。
鬼切丸を机の上に戻した。
「日向」
凛が顔を上げた。
「お前は——俺が来るなと言っても、来た」
凛が口を開きかける。閉じた。
「一緒に戦ってくれ。頼む」
静寂。事務所の時計が秒針を刻んでいる。エアコンの音が遠い。
凛がしばらく俺を見ていた。目が揺れない。まっすぐだった。
「……最初から、そのつもりでいましたよ」
間。
「はい」
それだけだった。
コーヒーを飲んだ。凛が視線をノートに戻した。ペンが動き始める。さっきと同じ音。何も変わっていないように見える。机の向こう側に凛がいて、ペンを走らせている。
◇◇◇
電話が鳴った。
受話器を取る。「神崎退魔事務所です」。
依頼の声。板橋区の住宅街。下級妖怪。夜になると庭に出る。住人が怯えている。報酬は退魔局の標準レート。
「二時間後に伺います」
受話器を置いた。凛に向く。
「依頼だ」
凛がノートを閉じた。ペンをバッグに入れる。「どんな案件ですか」
「板橋の住宅街。下級。庭に出るやつ」
「了解です」
「D級の俺と、無免許のお前に任せるんだから、よっぽど選択肢がないんだろうな」
凛が笑った。声に力がある。「そうですね。でも、片付けます」
「行くぞ」
「一緒に行きます」
立ち上がった。鬼切丸を蔵に戻す。柄を掴んだ時、亀裂の感触が指に返ってきた。まだ使える。今日は。コートを羽織った。凛がバッグを肩にかける。分析ノートが入っている。
「依頼が終わったら、南西の地下を見に行く」
「はい」
事務所のドアを開けた。階段を降りる。朝の光が二人の影を歩道に落とした。四月の風が頬に当たる。冷たくはない。
Arc 1「影を追う者たち」、ここで一区切りです。
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