第21話 余韻と新しい朝
一週間、何事もなかった。
事務所の机にスマートフォンを置く。退魔局アプリの依頼一覧を開いた。息を吸う。左の肋骨が軋んだ。折れた骨は繋がりかけている。くしゃみ一つで痛みが走る。
向かいの机で、凛がノートを広げていた。昨日と同じ場所に、同じ角度で座っている。「また来たのか」と言おうとして、やめた。先週もその前の日も、朝にはもうここにいた。来て当然になっている。
「おはようございます、神崎さん」
「ああ」
「肋骨、まだ痛みますか」
「平気だ」
「顔、歪んでましたけど」
「息を吸っただけだ」
凛が机の端に置いた缶コーヒーに気づいた。温かいほう。朝の好みを把握している。
鬼切丸を蔵から出した。刀身に視線を落とす。亀裂。前に見たときより深い。次の一撃で折れても不思議じゃない。蔵に戻す。画面をスワイプした。
「何か良い依頼、ありますか」
「探してる」
中級の案件が三つ。どれも鬼切丸を抜かなきゃ片付かない。下までスクロールした。
「新宿区、鮮魚店。ぬれぼとけ。下級」
読み上げると、凛がペンを止めた。
「鮮魚店に妖怪ですか」
「湿気が多い場所に湧く。河童の親戚みたいなやつだ。素手でもいける」
「報酬はどのくらいですか」
「五万。交通費込み」
「下限圏ですね」
「そういうことだ」
凛がノートに店名と住所を書き留める。アプリは触らない。免許がないから操作できない。代わりに紙に情報を写す。そのやり方が、もう板についている。
「場所は西新宿ですね。電車で三十分くらいですか」
「もうちょい。乗り換えがある」
「お昼前に終われそうですね」
「下級なら十分で片付く」
「今日はこの一件だけですか」
「ああ。これだけでいい」
「了解です」
立ち上がるとき、蔵の中の鬼切丸を意識した。使わなくていい案件を選んだ。口には出さない。
「神崎さん。鬼切丸の修理の予約、入れましょうか」
「後で」
「後で、って言って忘れるパターンですよね」
「忘れない」
「三日前も同じこと言ってました」
「覚えてんのかよ」
「メモしておきます」
凛がノートの端に「鬼切丸——修理」と書いた。コートを羽織る。凛が鞄を持って立った。事務所のドアを開ける。四月の終わり。風はぬるい。
◇◇◇
鮮魚店の奥は暗かった。
水槽の裏、排水管が集まる一角。ぬれぼとけは天井に張りついていた。ぬめった灰色の皮膚。小さな目がこちらを見た。
「あそこです。腹にひびが見えます」
凛が天井を指す。
「弱点は」
「水分です。乾燥に極端に弱い構造です」
「換気扇で乾かせるか」
「いけると思います」
凛が店主に振り返った。
「すみません、あの換気扇を開けてもらえますか」
店主がスイッチを入れる。乾いた外気が流れ込んだ。ぬれぼとけの皮膚が震える。動きが鈍い。
蔵から破魔の札を一枚。腹に叩きつけた。青白い光。ぬれぼとけが霧になって消えた。一分かかっていない。
「終わりました」
凛が店主に頭を下げる。俺は札を蔵に戻した。残り七枚。
「助かりました。毎朝、水槽の水が減ってたんですよ」
「妖怪が湿気を吸っていたんです。もう大丈夫ですよ」
凛が店主に説明している。その言い方が、どこか慣れてきている。
「お二人は、前からコンビなんですか」
店主がカウンター越しに聞いてきた。答える前に凛が口を開く。
「まだ一ヶ月です」
「長いな、もう」
凛がこちらを見た。反論はない。俺も、黙ったままだ。
「一ヶ月でこの連携は大したもんだ」
「いえ、わたしは換気扇を指差しただけで」
「それが大事なんだよ、お嬢さん」
店主が鯛の切り身を二パック、紙袋に入れて渡してきた。
「お礼です。持っていってください」
「ありがとうございます」
凛が受け取った。俺は先に店を出た。
◇◇◇
帰り道。商店街を抜けて駅に向かう。凛が鞄からノートを取り出した。
「地下の情報、整理し始めてもいいですか」
立ち止まらずに聞いてくる。俺が言う前に。
「やれ」
「影鬼の出没パターンと、南西地下の推定範囲をまとめてます」
「いつの間に」
「昨日の夜です。気になって眠れなかったので」
「寝ろよ」
「神崎さんに言われたくないです」
俺が言う前どころか、昨日から始めていた。
事務所に戻った。凛がノートを机に広げる。俺は横から覗き込んだ。出没パターンの下に日付と場所が書き込まれている。南西地下の推定範囲は区画ごとに色分けされていた。
「ここからここが、反応がいちばん強かったエリアです」
「根拠は」
「退魔局の過去の報告書を五件照合しました。全部このエリアに集中してます」
「いつの間に報告書なんか読んだ」
「アプリは使えませんけど、紙の閲覧なら免許なしでも申請できるんです」
「知らなかった」
「わたしも先週知りました。窓口の人に聞いたら教えてくれて」
「行動力だけは一人前だな」
「だけ、は余計です」
凛の声に怒りはない。軽口が返ってくるようになった。
「鬼切丸の修理、見積もりを取る」
スマートフォンを手に取った。霊具師の連絡先を探す。凛がノートの端に「鬼切丸——修理見積もり済」と書き直した。
◇◇◇
夕方。窓から橙色の光が差している。
霊具師への連絡は終わった。来週の火曜、持ち込み。スマートフォンを机に置く。
「神崎さん」
「なんだ」
「鶴丸の修理も、同じ日に頼めますか」
手が止まった。鶴丸。前の戦いで壊れた短刀だ。使えなくなったまま蔵に入っている。
「そうだな。まとめたほうが安い」
「火曜の持ち込みのときに、一緒に出せるか聞いてみます」
「頼む」
「あと、破魔の札の補充も必要じゃないですか。今日一枚使いましたよね」
「残りは七枚だ。来週までは持つ」
「念のためリストに入れておきます」
凛がノートに書き足す。鶴丸の修理。破魔の札の補充。
ノートをこちらに向けた。準備リストが並んでいる。地下調査の持ち物。修理スケジュール。情報源の候補。退魔局への追加閲覧申請。項目ごとに締め切りが入っていた。
「やること、増えたな」
「でも、減ってないものもありますよ」
「なんだよ、それ」
「相棒が一人います。増えませんが、消えません」
返事をしなかった。窓の外を見る。夕日がビルの隙間に落ちかけている。凛の横顔が橙に染まっている。
「行くのは来週からだ」
「分かりました」
凛がノートを閉じた。鞄に入れる。缶コーヒーの空き缶を捨てて、コートのボタンを留めた。
「明日も九時でいいですか」
「ああ」
「じゃあ、また明日」
ドアが閉まった。事務所に一人。机の上に、凛のペンが一本忘れてある。明日、返せばいい。




