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第22話 霊具の系譜

 五月に入って三日目。事務所の窓を少しだけ開けた。湿った風が入ってくる。外の通りを走るバイクの排気音。近所の飲食店から揚げ物の匂い。午後の新宿は騒がしい。


 机の上にスマートフォンを置いた。退魔局アプリの依頼一覧を開く。中級案件が二件。報酬は悪くないが、どちらも霊体系だ。鬼切丸がなければ手が出せない。火曜の修理が終わるまで、あと四日。下にスクロールする。下級の案件もない。


 蔵に手を触れた。鬼切丸のスロットが空いている。鶴丸も同じ。残っているのは霊喰いと破魔の札七枚だけ。手持ちが薄い。


 向かいの机で凛がノートを広げていた。地下調査の準備資料。退魔局から閲覧申請して取り寄せた過去報告書のコピーが、何枚か積み重なっている。ペンを動かす音だけが事務所に響いている。


「神崎さん、南西エリアの報告書、もう一件追加で申請していいですか」


「好きにしろ」


「じゃあ明日出します。あと、この前の瘴気濃度の分布なんですけど」


「後にしろ。今は依頼を探してる」


「見つかりましたか」


「見つかってねえから探してんだろ」


 凛がノートの端にメモを書き足した。ペンのインクが薄くなっている。——あれは昨日、机の上に忘れていったやつだ。朝、返した。


 午後の事務所は静かだった。依頼がない日は、こういう時間が流れる。鬼切丸が戻るまで、やれることが限られている。


 ドアをノックする音。二回。間を置いて三回目。乱暴でも丁寧でもない叩き方。依頼人のノックとは違う。


 立ち上がる前に、ドアが開いた。入ってきたのは長身の男。黒い短髪をきっちり整えている。仕立てのいいダークグレーのコート。両手にはめた革の手袋をポケットに突っ込んだまま、部屋を見渡す。


「よう、迅。——そっちが助手か」


 土御門晴輝。この事務所に来たのは三年ぶりだ。


「お前が来るほうが珍しいだろ」


「それもそうだ」


 晴輝が入口に立ったまま部屋の中を見回した。狭い事務所。机が二つ。ソファが一つ。以前と変わっていない。


 凛がペンを止めてこちらを見ている。


「日向凛だ。助手をやってる。——こっちは土御門晴輝。御三家の次期当主候補だ」


 凛が立ち上がって軽く頭を下げた。


「はじめまして。日向凛です」


「晴輝でいい。次期当主候補ってのは余計だな、迅」


「事実だろ」


「言い方がな」 視線が凛に向いた。「——助手か。お前には似合わない選択だな」


「どういう意味だ」


「褒めてんだよ」


 晴輝が凛に軽く頭を下げてから、ソファに腰を下ろした。コートを脱がない。手袋も外さない。足を組んで、目だけがこちらを見ている。笑顔のようで、目が笑っていない。いつものやつだ。


「鬼切丸、修理に出したのか」


「限界だっただけだ」


「お前が限界と言うのは、もっと前から限界だったってことだろ」


 返事はしなかった。晴輝が鼻で笑う。


「で、用件は」


「蔵のことだ」


 声のトーンが変わった。軽口の温度が消える。凛のペンが止まった。


「蔵って何者から受け取ったか、覚えてるか」


「知らない。気づいたらあった」


 晴輝が一拍置いた。ソファに背を預けたまま、視線を天井から戻す。


「蔵の正体から話す。あれは御三家の始祖が作った霊具群の残存品だ」


「始祖って——どのくらい昔の話だ」


禍古神まがこしんの封印時に作られた。正確な年代は土御門の文献にも出てこない。数百年じゃ効かないくらい古い」


 禍古神。初めて聞く名だ。御三家が何かを「封じている」という話は、断片的に噂で聞いたことがある。だが名前が出てきたのは初めてだった。


 凛が手元を見た。ペンを持ったまま、ノートに触れていない。書き留めるべきか判断している。


「禍古神って何だ」


「御三家が封じている何かだ。——分かるだろ」


「分かる。続けろ」


「封印時に使った道具群が複数ある。その一部が散逸して、今でも残ってる」


 晴輝の指が膝の上で組み替わる。手袋越しにも指の動きが見える。


「蔵はそのひとつだ」


「始祖が作ったのに、なんで俺が持ってる」


「霊力なき者のために設計されたからだ」


 晴輝の声に余分な感情はなかった。事実を並べている。


「当時も、霊力がない人間はいた。御三家の始祖はその人間たちが使えるように、霊力を必要としない霊具を作った。蔵はそのうちの一本だ」


 左手首に目を落とした。黒い腕輪。蔵。刃はない。鞘だけ。指先で触れると、いつもと同じ感触が返ってくる。馴染む。最初からそうだった。いつから持っているのか分からない。けれど手放そうとしたことが一度もない。


「なんで俺に渡ったんだ」


「それは俺も知らない」


 晴輝の目が動かなかった。嘘か本当か、この男の場合は判断がつかない。だがここで追及しても出てこない。知らないと言った以上、そこは閉じている。


「霊力なき者のための道具が、霊力ゼロの俺に渡った。出来すぎてるだろ」


「そうだな。だがそこの経緯は、土御門の文献にもない。少なくとも俺がアクセスできる範囲にはな」


「もう一つ聞いていいか」


「内容による」


「空転体と関係があるのか。蔵と」


 沈黙が落ちた。外の通りを走る車の音だけが聞こえる。三秒。晴輝が足を組み直した。


「蔵が霊力なき者に馴染む理由のひとつに、霊力ゼロの体と共鳴しやすい設計がある。それは空転体と——似た構造をしている。俺が調べられる範囲では、そう見える」


「似た構造ってどういう意味だ」


「霊力を変換する器官の代わりに、別の何かを使う。蔵も、空転体も——おそらく」


 晴輝がそこで止まった。声のトーンが一段落ちる。


「お前の体質は、偶然じゃないかもしれない」


 蔵の上に置いた手が止まっていた。指先が硬い。


「続きは」


「俺にも分からない。そこまでは調べられていない」


「それだけか」


「今日言えるのはここまでだ」


 凛が視界の端にいる。ペンを持った手がノートの上で止まったまま動かない。書き留めるか、書き留めないか。その判断自体が、情報の重さを測っている。


◇◇◇


 晴輝が立ち上がった。


「とりあえず今日はここまでだ。蔵のことは覚えておけ——次に御三家と関わるとき、意味を持つかもしれない」


 コートの裾を払う。玄関に向かう。


「もう一個だけ聞く」


 晴輝がドアの前で足を止めた。振り返らない。


「禍古神は今も封じられてるのか」


 晴輝の肩が、ほんの一瞬だけ止まった。振り向いた顔は普段通りだ。だが目だけが違う。笑みがない。


「封じられてる。……今は、な」


「今は?」


「言いすぎた。忘れろ」


 コートの襟を直して、出て行った。ドアが閉まる。階段を下りる靴音が遠くなる。


 事務所に残ったのは二人。


 凛がノートに視線を落としている。ペンの先が紙に触れたまま、インクが小さな点を作っていた。


「……禍古神、って書いていいんでしょうか」


「書いとけ」


「はい」


 凛がノートに三文字書き込んだ。その下に「封印——始祖——霊具群」と走り書きする。手が少し早い。聞いた情報を、逃さないように留めている。


「神崎さん」


「なんだ」


「蔵って、ずっと使ってたんですよね」


「ああ」


「出自を知らないまま」


「知る必要がなかった。手に馴染む。それだけで十分だった」


 凛が何か言いかけて、口を閉じた。ノートに視線を戻す。


 蔵を手に取った。黒い腕輪。さっきと同じ感触。変わっていない。ただ、馴染む。


 ——偶然じゃないかもしれない。


 晴輝の声が残っている。答えは出ない。出せない。


 窓の外を見る。五月の空は高い。雲が一つ、ビルの向こうに流れていく。

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