第23話 地下への一歩
水の音がする。壁を伝って、コンクリートの継ぎ目から染み出している。苔の匂い。湿った空気が肺の奥まで入ってくる。五月の朝だというのに、ここには季節がない。
廃棄施設の地下通路。天井が低い。幅は三メートルほど。壁に非常灯の残骸が貼り付いている。レンズが割れて、もう何年も点いていない。足元のコンクリートは黒ずんでいる。水か、別の何かが長い時間をかけて染みたのだろう。
鬼切丸を左手で確認した。修理を終えたばかりの刃は軽い。馴染む。手に返ってくる重心の位置が、以前と同じだ。鶴丸は右腰。破魔の札は内ポケットに六枚。一枚は手に持っている。
背後に凛がいる。ノートは持っていない。代わりに、視線が通路の奥を探っている。地上で情報をまとめてきた顔とは違う。集中している。
「神崎さん」
声が低い。反響する。地下では音の飛び方が違う。壁が硬いぶん跳ね返りが多い。
「おかしいです。範囲が——いつもの半分くらいしか、読めません」
振り返らない。前を向いたまま聞く。
「弱点は」
「それは見えます。でも、位置が——十メートルくらいまでしか届かない感じです。地上だと三十は見えてたのに」
瘴気だろう。影鬼由来の気が岩盤に染み込んでいる。凛の感知を歪ませている。分かっていたことだ。地下に入れば条件は変わる。予測はしていた。だが「半分」という数字を実際に聞くと、計算が変わる。
「十メートルで足りるか」
「——足ります」
迷いが一瞬だけ混じった。それでも答えた。十分だ。
「行くぞ」
◇◇◇
浅部に入って五分。通路の幅が少し広がった。四メートル弱。天井も上がって三メートル近い。コンクリートの壁が途切れて、むき出しの岩肌が見える。自然空洞に接続したらしい。空気の質が変わった。湿度が上がり、温度が下がる。
壁面に引っかき傷がある。三本線。爪痕だ。乾いた粘液の跡が床に点々と続いている。虫の死骸が隅に固まっていた。潰れている。何かに踏まれた跡。粘液と爪痕の方向は奥へ向かっている。巣がある。
「神崎さん、痕跡が続いてます」
「見えてる」
「右の奥。一体います」
凛の声が耳に入る。短い。戦闘時の報告が板についてきた。
「急所は首の付け根。光に弱い——たぶん、地上のやつより弱いです」
破魔の札を一枚、通路の壁に貼った。指先で押し込む。霊的な光が広がる。白い。影が一瞬で後退し、通路の奥七メートル先に輪郭が浮かんだ。
影の断片だ。人型を取ろうとして崩れかけている。足元が地面に溶けている。形が安定しない。消えては現れる。
「形が定まりません。地上のやつより小さい——瘴気に依存してるタイプです」
下位使い魔。光に弱い分、地下の暗闇でだけ形を保てる。
凛は俺の二メートル後方、通路の左壁寄り。使い魔は正面奥。間に遮蔽物はない。通路は一本道。逃げ場も退路も同じ方向にある。
踏み込んだ。
使い魔が形を固めようとする。遅い。鬼切丸の刃が首の付け根に入った。手応えがあった。実体がある瞬間だけ、切れる。影が散って、再び固まろうとする。二合目。形が崩れた。三合目で散った。黒い霧になって天井付近を漂い、消える。
破魔の札の光がまだ残っている。通路を白く照らし、岩肌の凹凸が影を刻んでいた。
「もう一体——」
凛の声が途切れた。
「どこかに、います。でも——」
位置が掴めていない。声の調子で分かる。感知の輪郭が滲んでいるのだろう。十メートルの範囲内にいるのか、外にいるのか。弱点は読めている。だが方向が分からない。地上なら指差していた。ここでは指が迷っている。
音を聞く。空転体の聴覚が拾える範囲を広げた。水の滴る音。コンクリートが軋む音。岩肌を伝う水滴。風はない。地下に風は——
上。
天井近くに何かが貼り付いている。右側。破魔の札の光が届かない暗がり。死角だった。
爪が落ちてくる。
半歩ずれた。完全には躱しきれない。右の脇腹を爪の先端が走った。薄い。だが確かに裂いている。シャツの下で皮膚が開く感触がある。熱い。
舌打ちが出た。
凛の息を呑む音が背後で聞こえる。
「二体目。弱点は」
動きながら言う。脇腹から血が滲んでいるのは分かっている。手を当てる暇はない。使い魔は落下の勢いで通路の右壁側に着地している。距離は三メートル。
「頭部——左側面です。でも今、どこに——」
位置を掴めない。凛の声が揺れている。それでも弱点は読めた。頭部の左側面。それだけあればいい。
天井を見上げた。破魔の札の光で影が揺れている。通路の右壁沿い、上方二メートル。さっき貼り付いていた痕跡。粘液の跡。移動した。
音。右奥の天井。僅かな擦過音。爪がコンクリートを掴む音がする。
破魔の札をもう一枚、右壁に叩きつけた。光が走る。使い魔の輪郭が浮き上がった。天井の隅にしがみついている。一体目より一回り大きい。形が安定している分、実体がある時間が長い。
壁を蹴った。届く高さ。鬼切丸を横に薙ぐ。頭部の左側面。凛が読んだ急所に、刃が通った。
手応え。影が裂ける感触。崩れた。黒い霧になって散った。
着地する。膝に衝撃が走る。脇腹が引きつった。
静寂。
水の音だけが残っている。破魔の札の光が二つ、通路の壁で白く光り続けている。
脇腹に手を当てた。指に血が付く。赤い。量は少ない。浅い傷だ。
背後で凛が立っている。動いていない。両手が下がったまま、こちらを見ている。
「すみません」
声が小さい。
振り返らない。
「お前が刺したわけじゃない」
「でも、わたしが気づいていれば——」
(データは取れた。鬼切丸で一体ずつなら問題ない。凛の弱点報告も正確だ。ただし二体同時は感知が追いつかなかった。瘴気の影響は想定以上。天井と壁面に貼り付く動き。今日はここまでだ)
「撤退する」
「はい」
出口へ向かう。凛の足音が後ろについてくる。いつもより少し遅い。
◇◇◇
事務所に戻る。椅子に座って、シャツの裾を捲った。脇腹の爪跡。三本線。浅い。前に肋骨を折った辺りの少し下で、古い痛みと新しい痛みが重なっている。別の傷だ。
凛が救急箱を持ってきた。テーブルに置いて、絆創膏とガーゼを並べる。
「いい。自分でやる」
凛の手が止まった。一瞬だけ何か言いかけて、口を閉じる。救急箱をテーブルの端に寄せて、引いた。
ガーゼを当てて、テープで留める。消毒は後でいい。シャツを下ろす。脇腹の違和感が残っているが、動きに支障はない。
凛が向かいの椅子に座った。鞄からノートを出す。表紙を開いて、地下調査のページを探している。事前にまとめた資料の続きだ。
「わたし、地下では半分も見えませんでした」
「分かった」
「弱点は読めるんです。急所の位置も、光に弱いことも。でも位置が——瘴気が濃いと、輪郭が滲むみたいになって、方向が分からなくなるんです」
「弱点が読めるなら、使える」
「……はい」
ペンを取った。ノートを開く。白いページにインクが走り出す。
「原因を調べます。岩盤の種類か、瘴気の密度か——あるいは影鬼の瘴気に固有の性質があるのかもしれません」
書き始めている。見出しを付けて、箇条書きにしている。さっきまで声が小さかった人間と同じとは思えない。切り替えが早い。問題を見つけたら、解く方に頭が向く。
「次は対策を取ってから入る」
凛が顔を上げた。ペンが止まる。
「次も、行けますか」
「当然だ」
凛がノートに視線を戻した。ペンが走り出す。紙の上にインクが乗る音だけが事務所に響いている。
「札、何枚使いましたか」
「二枚。残り四枚だ。補充が要る」
窓の外は夕方に近い。地下にいたのは一時間もなかった。たった一時間で、分かったことがある。あの場所は、二人で行く意味がある。凛の感知が不完全でも、弱点が読めるだけで一体目は三合で片付いた。位置さえ分かれば、二体目も同じだ。
脇腹が痛む。浅い。明日には忘れる程度の傷だ。
凛のペンの音が続いている。問題を解ける形に分解し始めた。それができるなら、次がある。




