第24話 鳳凰院の調査員
地下から地上に出ると、空気が変わった。
腐臭が薄れる。埃っぽさが残る程度で、肺に入る空気に重さがない。廃ビルの階段を上がりきると、コンクリートの割れ目から夕陽が差し込んでいた。
脇腹が痛む。右側。爪痕は浅いが、階段を上るたびに引きつる。壁に片手をついて体を支えた。
「大丈夫ですか」
凛が下から声をかけてきた。ノートを胸に抱えたまま、俺の背中を見ている。
「問題ない」
壁から手を離した。離せた。それで十分だ。
地上に出る。閉鎖区域の金網フェンスが視界に入った。夕方の光が廃ビルの外壁に当たって、錆びた鉄骨がオレンジに染まっている。風が吹いた。地下にはなかった風だ。湿気の代わりに、排気ガスの匂いが混じっている。東京の空気だ。
凛が隣に並んだ。ペンを握ったままの手が、少し震えている。地下での時間がまだ体に残っているのだろう。
「神崎さん、脇腹——」
「浅い。明日には忘れる」
凛が口を閉じた。それ以上は聞かない。聞いても俺が同じ答えを返すと分かっている。
二歩踏み出したところで、足が止まった。
廃ビルの入り口——階段状になった外壁の上段に、人影が立っている。
女だ。暗褐色の長い髪を後ろで束ねている。黒いジャケットにスラックス。手袋はしていない。右手の薬指に何かが光っている。指輪型の霊具だ。
上から見下ろしている。腕を組んでもいない。ただ立っている。それだけで、こちらの動きを全部見ていたと分かる立ち方だった。
「お疲れ様でした」
声が降ってきた。落ち着いた声。感情が乗っていない。労いではなく、確認だ。こちらが地下から出てくる時間を知っていた声だった。
凛が俺の後ろに半歩下がった。
(御三家の人間だ)
気配の消し方に癖がある。独学の隠密とは違う。型がある。組織で叩き込まれた所作だ。鳳凰院か土御門か。指輪型の霊具——鳳凰院だ。
「鳳凰院の人間か」
女が階段を一段降りた。靴音が静かだ。
「鳳凰院朱里」
名前だけだ。肩書も説明もない。
「鳳凰院の正式な調査員か」
「正式な役職はありません」
それ以上は説明しない。聞いても出てこないだろう。
朱里がもう二段降りてきた。俺たちと同じ高さになる。距離は五メートルほど。凛は俺の右斜め後ろ。朱里は正面やや左。三角形の頂点に三人が立っている格好だ。
朱里の視線が俺の顔に合った。茶色い目。感情を映していない。
「神崎迅さん、ですね」
名前を知っている。こちらは一言も名乗っていない。
「俺の名前、知ってるのか」
「今日が地下初回ではないですね」
質問に答えていない。こちらの調査頻度まで把握している。
「さん付けは要らない。それで、何しに来た」
「調査です」
「どんな調査だ」
「それは答えられません」
短い。答えないと決めている。
「答えられない、か。じゃあ聞き方を変える。ここで俺たちを待ってたのか」
「待っていたわけではありません。タイミングが重なっただけです」
「タイミングが重なった。つまり、あんたもここに用があった」
「そう解釈されるのは自由です」
「今日の調査結果は把握しています」
朱里が言った。声のトーンが変わらない。
「浅部に使い魔が複数。二体倒されています。そちらの方が傷を負われた」
二体。正確だ。見ていなければ出てこない精度だった。
「随分詳しいな。どこから見てた」
「答えられません」
「答えられないが多いな」
「そういう仕事です」
「便利な仕事だ」
「お互い様ではないですか。D級フリーが地下に入る用事も、普通はありません」
返しが速い。こちらの立場を突いてきた。朱里の視線が俺から外れる。
凛の方へ向く。
一瞬ではない。二秒ほど、朱里の目が凛を捉えていた。凛のノートを持つ手。首元のペンダント。顔。視線が下から上へ流れる。退魔師が相手を値踏みするときの動きだ。
俺ではなく、凛を見ている。
凛がそれに気づいた。体がわずかに硬くなった。朱里の視線が外れる。何事もなかったように俺に戻った。
(凛を見ていた。俺じゃなく、凛を。退魔師免許もない一般人のどこを見る)
「鳳凰院の独自調査、御三家の枠組みで動いてるのか。それとも鳳凰院だけの判断か」
二段構えで聞いた。片方でも答えれば情報になる。
「それも答えられません」
「御三家の共同案件なら退魔局に記録が残る。残ってないなら独自だ」
「お調べになればいいのでは」
「調べるさ。だが今聞いてる」
「聞かれても答えは変わりません」
かわし方に迷いがない。聞くほど、こちらの手札だけが減っていく。
(正面からは崩れない。質問を重ねても引き出せない。別の手がいる)
「何か取引はできるか」
朱里の動きが変わった。首がわずかに傾いた。束ねた髪の先が右肩に流れる。
「取引、ですか」
初めて、声に色が乗った。驚きではない。予想していなかった提案を査定する間だ。
「こっちにも地下の情報がある。向こうにもあるだろう。交換すれば互いに得だ」
「今は材料がありません」
「今は、か。つまり将来は材料ができる可能性がある」
「そのまま受け取ってください。深読みは不要です」
「深読みしてるんじゃない。あんたの言い方がそう聞こえるだけだ」
朱里が半歩引いた。会話を終わらせにかかっている。
鳳凰院が独自に動いている。その調査対象が俺たちと同じ地下なら、重なる部分がある。
「もうひとつだけ聞く」
朱里の靴が止まった。半歩引いた姿勢のまま、こちらを見ている。
「鳳凰院は影鬼のことを知ってるか」
朱里が止まった。
コンマ一秒。靴が地面から離れかけた状態で、動きが固まる。右手の指輪が夕陽を弾く。
すぐに戻った。何もなかったように踵を返す。背中を向けた。
「影鬼という名称については確認できません」
声だけが返ってきた。歩き出している。今までの「答えられません」とは違う言い回しだ。確認できない。知らないとは言っていない。
「待て」
止まらない。背中が遠ざかる。黒いジャケットの裾が風に揺れた。
「次にお会いするときは、もう少し話せるかもしれません」
振り返らずに言った。廃ビルの角を曲がる。束ねた髪の先が揺れて、消えた。
足音が遠ざかる。数秒で消える。
風が吹いた。朱里が立っていた階段の上段には、何も残っていない。靴跡すらなかった。
朱里の言葉を頭の中で並べる。
「答えられません」を五回以上繰り返した。だが影鬼を問うたときだけ、言い方が変わった。「確認できません」。知らないとは言っていない。知っていて、認めることができない。そういう構文だ。
御三家の人間が単独で廃ビルの地下を調査している。正式な役職もなく。
(御三家の内部で、正式に通せない調査。鳳凰院が独自に動いている。しかも影鬼を知っている可能性が高い)
凛が一歩前に出た。俺の隣に並ぶ。
「朱里さん、わたしのことを見てました」
声に揺れがない。
「気づいてたか」
「はい。二秒くらい。ノートから首のペンダントまで、順番に」
「退魔師が相手を値踏みするときの見方だった」
「わたしもそう思いました」
凛がノートを胸の前で抱え直した。ペンを握ったまま。
「……なんで見てたんでしょう」
問いかけの声が変わった。情報分析ではない。自分に向いている。
地下では凛の能力が機能しなかった。ひびが見えなかった。それが凛の中に残っている。朱里の目には、凛に見えなかった何かが見えていたかもしれない。鳳凰院の霊術師——偵察と感知を得意とする家系の人間が、能力を持たないはずの一般人をわざわざ見る。
「お前の目は普通じゃない。鳳凰院がそれを知っているとしたら——」
言葉を止めた。材料が足りない。ここから先は推測が多すぎる。
凛がこちらを見た。
「……続きを聞かせてください」
「まだ材料が足りない。次に会うための根拠を作る」
歩き出した。脇腹が引きつる。足を止めない。
背後で凛がノートを開く音がした。ペンが走る音。何を書いているかは聞かない。
閉鎖区域のフェンスに向かって歩く。夕陽が沈みかけている。影が長く伸びて、フェンスの金網に届いていた。
凛の足音がついてくる。三歩ほど遅れて。
朱里が立っていた階段を一度だけ振り返った。
何も残っていなかった。
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