表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
24/40

第24話 鳳凰院の調査員

 地下から地上に出ると、空気が変わった。


 腐臭が薄れる。埃っぽさが残る程度で、肺に入る空気に重さがない。廃ビルの階段を上がりきると、コンクリートの割れ目から夕陽が差し込んでいた。


 脇腹が痛む。右側。爪痕は浅いが、階段を上るたびに引きつる。壁に片手をついて体を支えた。


「大丈夫ですか」


 凛が下から声をかけてきた。ノートを胸に抱えたまま、俺の背中を見ている。


「問題ない」


 壁から手を離した。離せた。それで十分だ。


 地上に出る。閉鎖区域の金網フェンスが視界に入った。夕方の光が廃ビルの外壁に当たって、錆びた鉄骨がオレンジに染まっている。風が吹いた。地下にはなかった風だ。湿気の代わりに、排気ガスの匂いが混じっている。東京の空気だ。


 凛が隣に並んだ。ペンを握ったままの手が、少し震えている。地下での時間がまだ体に残っているのだろう。


「神崎さん、脇腹——」


「浅い。明日には忘れる」


 凛が口を閉じた。それ以上は聞かない。聞いても俺が同じ答えを返すと分かっている。


 二歩踏み出したところで、足が止まった。


 廃ビルの入り口——階段状になった外壁の上段に、人影が立っている。


 女だ。暗褐色の長い髪を後ろで束ねている。黒いジャケットにスラックス。手袋はしていない。右手の薬指に何かが光っている。指輪型の霊具だ。


 上から見下ろしている。腕を組んでもいない。ただ立っている。それだけで、こちらの動きを全部見ていたと分かる立ち方だった。


「お疲れ様でした」


 声が降ってきた。落ち着いた声。感情が乗っていない。労いではなく、確認だ。こちらが地下から出てくる時間を知っていた声だった。


 凛が俺の後ろに半歩下がった。


(御三家の人間だ)


 気配の消し方に癖がある。独学の隠密とは違う。型がある。組織で叩き込まれた所作だ。鳳凰院か土御門か。指輪型の霊具——鳳凰院だ。


「鳳凰院の人間か」


 女が階段を一段降りた。靴音が静かだ。


「鳳凰院朱里」


 名前だけだ。肩書も説明もない。


「鳳凰院の正式な調査員か」


「正式な役職はありません」


 それ以上は説明しない。聞いても出てこないだろう。


 朱里がもう二段降りてきた。俺たちと同じ高さになる。距離は五メートルほど。凛は俺の右斜め後ろ。朱里は正面やや左。三角形の頂点に三人が立っている格好だ。


 朱里の視線が俺の顔に合った。茶色い目。感情を映していない。


「神崎迅さん、ですね」


 名前を知っている。こちらは一言も名乗っていない。


「俺の名前、知ってるのか」


「今日が地下初回ではないですね」


 質問に答えていない。こちらの調査頻度まで把握している。


「さん付けは要らない。それで、何しに来た」


「調査です」


「どんな調査だ」


「それは答えられません」


 短い。答えないと決めている。


「答えられない、か。じゃあ聞き方を変える。ここで俺たちを待ってたのか」


「待っていたわけではありません。タイミングが重なっただけです」


「タイミングが重なった。つまり、あんたもここに用があった」


「そう解釈されるのは自由です」


「今日の調査結果は把握しています」


 朱里が言った。声のトーンが変わらない。


「浅部に使い魔が複数。二体倒されています。そちらの方が傷を負われた」


 二体。正確だ。見ていなければ出てこない精度だった。


「随分詳しいな。どこから見てた」


「答えられません」


「答えられないが多いな」


「そういう仕事です」


「便利な仕事だ」


「お互い様ではないですか。D級フリーが地下に入る用事も、普通はありません」


 返しが速い。こちらの立場を突いてきた。朱里の視線が俺から外れる。


 凛の方へ向く。


 一瞬ではない。二秒ほど、朱里の目が凛を捉えていた。凛のノートを持つ手。首元のペンダント。顔。視線が下から上へ流れる。退魔師が相手を値踏みするときの動きだ。


 俺ではなく、凛を見ている。


 凛がそれに気づいた。体がわずかに硬くなった。朱里の視線が外れる。何事もなかったように俺に戻った。


(凛を見ていた。俺じゃなく、凛を。退魔師免許もない一般人のどこを見る)


「鳳凰院の独自調査、御三家の枠組みで動いてるのか。それとも鳳凰院だけの判断か」


 二段構えで聞いた。片方でも答えれば情報になる。


「それも答えられません」


「御三家の共同案件なら退魔局に記録が残る。残ってないなら独自だ」


「お調べになればいいのでは」


「調べるさ。だが今聞いてる」


「聞かれても答えは変わりません」


 かわし方に迷いがない。聞くほど、こちらの手札だけが減っていく。


(正面からは崩れない。質問を重ねても引き出せない。別の手がいる)


「何か取引はできるか」


 朱里の動きが変わった。首がわずかに傾いた。束ねた髪の先が右肩に流れる。


「取引、ですか」


 初めて、声に色が乗った。驚きではない。予想していなかった提案を査定する間だ。


「こっちにも地下の情報がある。向こうにもあるだろう。交換すれば互いに得だ」


「今は材料がありません」


「今は、か。つまり将来は材料ができる可能性がある」


「そのまま受け取ってください。深読みは不要です」


「深読みしてるんじゃない。あんたの言い方がそう聞こえるだけだ」


 朱里が半歩引いた。会話を終わらせにかかっている。


 鳳凰院が独自に動いている。その調査対象が俺たちと同じ地下なら、重なる部分がある。


「もうひとつだけ聞く」


 朱里の靴が止まった。半歩引いた姿勢のまま、こちらを見ている。


「鳳凰院は影鬼のことを知ってるか」


 朱里が止まった。


 コンマ一秒。靴が地面から離れかけた状態で、動きが固まる。右手の指輪が夕陽を弾く。


 すぐに戻った。何もなかったように踵を返す。背中を向けた。


「影鬼という名称については確認できません」


 声だけが返ってきた。歩き出している。今までの「答えられません」とは違う言い回しだ。確認できない。知らないとは言っていない。


「待て」


 止まらない。背中が遠ざかる。黒いジャケットの裾が風に揺れた。


「次にお会いするときは、もう少し話せるかもしれません」


 振り返らずに言った。廃ビルの角を曲がる。束ねた髪の先が揺れて、消えた。


 足音が遠ざかる。数秒で消える。


 風が吹いた。朱里が立っていた階段の上段には、何も残っていない。靴跡すらなかった。


 朱里の言葉を頭の中で並べる。


 「答えられません」を五回以上繰り返した。だが影鬼を問うたときだけ、言い方が変わった。「確認できません」。知らないとは言っていない。知っていて、認めることができない。そういう構文だ。


 御三家の人間が単独で廃ビルの地下を調査している。正式な役職もなく。


(御三家の内部で、正式に通せない調査。鳳凰院が独自に動いている。しかも影鬼を知っている可能性が高い)


 凛が一歩前に出た。俺の隣に並ぶ。


「朱里さん、わたしのことを見てました」


 声に揺れがない。


「気づいてたか」


「はい。二秒くらい。ノートから首のペンダントまで、順番に」


「退魔師が相手を値踏みするときの見方だった」


「わたしもそう思いました」


 凛がノートを胸の前で抱え直した。ペンを握ったまま。


「……なんで見てたんでしょう」


 問いかけの声が変わった。情報分析ではない。自分に向いている。


 地下では凛の能力が機能しなかった。ひびが見えなかった。それが凛の中に残っている。朱里の目には、凛に見えなかった何かが見えていたかもしれない。鳳凰院の霊術師——偵察と感知を得意とする家系の人間が、能力を持たないはずの一般人をわざわざ見る。


「お前の目は普通じゃない。鳳凰院がそれを知っているとしたら——」


 言葉を止めた。材料が足りない。ここから先は推測が多すぎる。


 凛がこちらを見た。


「……続きを聞かせてください」


「まだ材料が足りない。次に会うための根拠を作る」


 歩き出した。脇腹が引きつる。足を止めない。


 背後で凛がノートを開く音がした。ペンが走る音。何を書いているかは聞かない。


 閉鎖区域のフェンスに向かって歩く。夕陽が沈みかけている。影が長く伸びて、フェンスの金網に届いていた。


 凛の足音がついてくる。三歩ほど遅れて。


 朱里が立っていた階段を一度だけ振り返った。


 何も残っていなかった。

お読みいただきありがとうございます。

ブックマークや評価で応援していただけると励みになります。

続きもお楽しみに!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ