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第25話 母の容態

 朱里との遭遇から四日が経っていた。


 事務所の窓から差し込む夕陽が、机の上のノートを照らしている。凛が地下調査の記録を書き直していた。ペンが走る音だけが響く。俺は鬼切丸の修理見積もりを眺めている。刀身の研ぎ直しに加えて柄の巻き直し。合計で六万八千円。痛い出費だが、霊具なしで上級には勝てない。


 凛の携帯が鳴った。


 ペンが止まる。凛が画面を見た。手が動かなくなった。指先の色が変わるほど、携帯を握っている。


「……母が」


 それだけ言って立ち上がった。椅子が音を立てて後ろに滑る。バッグを掴んでドアに向かう。靴を引っかけるように履いた。


 立ち上がる。何か言いかけて、やめた。


「先に出ろ」


 凛がドアを開ける。振り返らなかった。俺はコートを掴んで後を追った。


 ノートが開いたまま、机の上に残っている。ペンがページの途中に転がっていた。夕陽がそこだけを照らしている。


◇◇◇


 電車の中は混んでいた。


 凛は窓の横に立っている。外を見ている。話しかけない。俺も話さない。駅が二つ過ぎた。三つ目を過ぎても、凛は一度も振り向かない。


 凛の手がバッグの紐を握っている。指が白い。紐に食い込むほどの力だ。それだけが分かる。


 新宿で降りる。改札を出て、早足で病院に向かう。凛が半歩前を歩く。人混みの中を縫うように進む。信号で一度止まり、青に変わった瞬間に凛が歩き出す。信号を二つ渡って、総合病院の正面入り口が見えた。


 ロビーに入った瞬間、消毒液の匂いが鼻を突いた。白い照明。リノリウムの床。面会時間の終わりが近いのか、人はまばらだった。


 長椅子に、晴輝がいる。


 高そうなコートの裾を膝にかけて、携帯を見ている。こっちに気づいて顔を上げた。


「早いな」


「お前こそ。何で先にいる」


「土御門の情報網を甘く見るな」


 軽口だった。だが声のトーンが違う。いつもの余裕がない。目が笑っていない。


 凛が足を止めた。


「……なんで晴輝さんが」


「お前のことを調べていた。日向凛——霊力なしの事務所に張り付いている一般人。名前を辿ったら、母親の方が引っかかった。症状が感応体質と一致していた。容態が変わったという連絡も、その流れで入ってきた」


 凛の唇が動いたが、声にならなかった。


 看護師が奥から歩いてきた。


「日向さんのご家族ですか。お母様のお部屋にご案内します」


「はい——」


 凛が駆け足で看護師についていった。白い廊下の奥に、ポニーテールが揺れて消えていく。


 俺と晴輝が残された。ロビーの待合椅子が、二人の間に並んでいる。


「知ってるのか。凛の母親のこと」


「少し」


 それだけだった。晴輝が携帯をコートのポケットにしまった。


「土御門の霊術で何か見たのか」


「見た、というのとは違う。記録にあった。似た事例が」


 立ち上がる。


「行くぞ。廊下で話す」


◇◇◇


 三階の廊下は静かだった。蛍光灯が白い。足音が妙に響く。どこかでナースコールの電子音が鳴って、すぐに消えた。


 凛が病室の扉の前に立っていた。中に入って、出てきたところだ。扉は閉まっている。


「……意識はあるって言われました。でも、呼んでも反応が薄くて」


 声が途切れた。凛の手が、扉の取っ手を握ったまま離れない。


「目の焦点が合ってなくて。ときどき、知らない地名を呟いてて……行ったこともない場所の名前なんです。手が——すごく冷たかった」


 最後の言葉は、ほとんど聞こえなかった。


「前より痩せてました。起き上がれなくなってて。二週間前までは、電話で普通に話せてたのに」


 晴輝が壁に背を預けた。腕を組む。俺は廊下の反対側の壁に寄った。


「日向さん」


 凛が振り返った。


「お母さんの体質について、聞いたことがあるか」


「体質……? いえ、昔から体が弱いとは聞いていましたけど——」


「禍古神の感応体質だ」


 凛の目が晴輝に固定された。瞬きが止まった。


「感応体質は、強い霊的存在に引き寄せられやすい。向こうからも引き寄せる。霊力とは別の——感受性だ」


 晴輝の声が低くなった。いつもの軽い調子が消えている。言葉の選び方がわずかに丁寧になった。


「お母さんの症状は、病気じゃない。霊的存在に感応する体質が、体を蝕んでいる」


「蝕んでいる……?」


「選ばれている——と言った方が正確だな。向こうが、お前の母親を見つけている」


 凛の手が扉の取っ手から落ちた。壁に手をつく。


「……それは、お医者さんが言ってた自律神経失調症とは——」


「薬が効かないだろう」


「……はい」


「当然だ。原因が違う」


「……直す方法は、ありますか」


 晴輝が一拍置いた。


「ないとは言えない」


 凛が顔を上げた。


「ただ、今すぐ動ける話じゃない」


 沈黙が落ちた。蛍光灯の微かなノイズが聞こえる。


 晴輝が凛を見た。目を細めて、一拍置いてから口を開いた。


「お前に聞きたいことがある」


「……はい」


「お前の能力——妖怪の弱点が見えるやつだ。いつから使える?」


 凛が固まった。口が開いたまま、言葉が出ない。手が壁から離れて、体の横に落ちた。


「……小学校の、二年か三年の頃から。妖怪に——取り憑かれかけた後から、です」


「その前は?」


「何も見えませんでした。普通の——普通の子供でした」


「そうか」


 晴輝が頷いた。短く、一度だけ。


◇◇◇


 廊下の突き当たりに非常口の扉があった。隙間から外の空気が流れてくる。夜の匂いだ。昼間の消毒液とは違う、湿った冷気が足元を撫でる。


 晴輝が俺と凛を見てから、続けた。


「禍古神という名前を聞いたことがあるか」


 凛が頷いた。「……前に、晴輝さんから。御三家が封じている何か、と」


「そうだ。感応体質は、禍古神との感応が特に強く出る体質だ」


 凛の肩が強張った。


「感応体質は遺伝する。お前の能力は、感応体質が特定の霊的存在に共鳴した結果かもしれない。俺には確認する手段がないが——可能性は高い」


「わたしの力が、母と同じ……」


「同じとは言っていない。体質が繋がっている可能性がある、と言っている」


「でも、それなら——わたしも、いつか母みたいに」


「そこまでは分からない。今の段階では誰にも」


 晴輝の視線が廊下の先を向いた。


「御三家が封じている、とお前は言った。だが、その封印は完全ではない」


 凛が息を呑んだ。


「もう一つだけ言っておく。禍古神の完全封印には、複数の『器』が必要だという記録がある」


 凛が顔を上げた。


「感応体質を持つ者が、封印の鍵になるという説が土御門の古文書にはある。確実ではない。ただ——知っておいた方がいいと思った」


「封印が完成すれば——禍古神の感応は弱まる。お前の母親が楽になる可能性がある」


「……わたしが、鍵」


 凛の声が出ていなかった。唇が動いただけだ。


 晴輝が視線を戻した。凛を見た。表情は変わらない。


「俺が言えるのはここまでだ」


 長い沈黙だった。


 蛍光灯のノイズ。遠くでエレベーターのベルが鳴る。病院の夜の音だけが、廊下に響いている。


 凛が壁に手をついて、しゃがみこんだ。


 バッグが肩から滑り落ちて、床に落ちる。凛はそれを拾わなかった。


 俺は動かない。言葉がなかった。


 壁を背にして、凛の隣にしゃがんだ。右の肋骨が軋む。脇腹の傷がまだ引きつる。構わない。


 凛の肩が震えていた。声を立てない。肩が小さく、繰り返し震えている。それだけだ。


 晴輝が一歩引いた。廊下の先を見ている。手袋をはめた手をコートのポケットに入れた。二人のいる空間に、踏み込まなかった。


 どのくらい経ったか分からない。


 蛍光灯の光は変わらない。廊下の奥で、看護師の靴音が近づいて、また遠ざかっていく。非常口から入る夜風が、凛の髪を揺らした。


 凛が顔を上げた。目が赤い。頬に跡が残っている。袖口で一度だけ目元を拭った。


「……帰ります」


 声が掠れていた。


「母は今夜は安定してるって」


 立ち上がった。床に落ちたバッグを拾う。肩にかける。手の震えはまだある。


 晴輝が口を開いた。


「考えすぎるな」


 凛が晴輝を見た。


「動ける話になったら、連絡する」


「……分かりました」


 凛の声が平らだった。抑揚がない。


 俺は立ち上がった。


「行くか」


 晴輝が「また連絡する」と言って、先に廊下を歩いていく。コートの裾が揺れて、角を曲がって消える。靴音だけが残って、それも消えた。


 凛が俺を見た。一瞬だけ。何かを言おうとして——口を閉じた。


「……はい」


 歩き出した。


 俺はその隣を歩いた。半歩だけ前に。


 廊下の先に、病院の出口の灯りが見えている。白い光だ。夜の外に繋がっている。


 背後で、母の病室のドアが閉まったままだった。

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