第26話 偶発的共闘
三日が経っていた。
凛は事務所の椅子に座って、地下の地図を広げている。赤いペンで書き込んだ線が増えていた。感知の反応があった場所、なかった場所。線が密集しているエリアと、まったく空白のエリアがある。
「感知制限の原因、少し分かってきました」
ペンが地図の浅部を指した。
「地上に近いところだと、方向と距離が読めるんです。でも深くなると——岩盤が厚い場所で信号が途切れます。地下だと指向性が変わるみたいで」
「試せるか」
「はい」
凛が地図を畳んだ。バッグに入れて、立ち上がる。
「分からないことの方が多いですけど——動きます」
靴を履き替える音。俺はコートを掴んで、破魔の残弾を確認した。鬼切丸は修理中で使えない。短刀二本と鉄棒が三本。下級の群れなら足りる。
事務所のドアを開けた。五月の朝の空気が流れ込んでくる。湿気が少ない。調査日和だ。
地下への入口は、新宿の廃ビル地下駐車場から続いている。前回と同じルートだ。懐中電灯の光がコンクリートの壁を照らす。ひび割れた排水溝の蓋を跨いで、奥へ進む。コンクリートが途切れて、むき出しの岩盤に変わった。空気が変わる。土と、微かに腐った水の匂い。瘴気ではない。地下水脈が近いだけだ。気温が二度下がった。足元の水たまりを避けて歩く。
凛が一歩後ろで歩いている。右手の指先が微かに光った。能力が起動し始めている。呼吸が浅くなったのが背中越しに分かった。集中している。
「前方——右側に反応。三体」
声が低い。戦闘モードの凛だ。
「腹部に弱点。三体とも同じ位置です」
懐中電灯を消した。暗闇に目を慣らす。岩盤の通路が二方向に分岐している。左の通路から、湿った風が吹いてくる。瘴気の匂い。薄い。下級だ。
右側の分岐から、三つの影が滲み出てきた。霧状の体に、赤い光点が浮かんでいる。蛞蝓型の下級妖怪。動きは遅い。
短刀を鞘から引き抜いた。柄の革紐が掌に吸いつく。一歩で間合いに入る。腹部を横一文字に裂いた。刃が核を噛む。砕ける手応えが手首まで走った。瘴気が飛び散る。二体目。左に半歩ずれて、突く。刃先が核を貫通する感触。引き抜いた。三体目は後退しかけたが、追いついた。首筋を薙ぐ。崩れる。
三体を処理するのに、四秒。岩盤の壁に瘴気の染みが残っている。
「左奥にもう一体。頭部です」
凛の声が背後から飛ぶ。振り返らずに左の分岐に踏み込んだ。天井から垂れ下がる一体。蜘蛛型。頭部を鉄棒で貫いた。
瘴気が散る。通路が静かになった。
「後ろが読めません——多すぎて」
凛の声が変わった。抑えた声だが、切迫している。
振り返った。背後の分岐から、瘴気の壁が迫ってきていた。一体や二体ではない。影が重なり合って通路を塞いでいる。十体以上。岩盤の暗部から湧き出てくる。壁面の水滴が、瘴気に触れて蒸発した。空気が重くなる。
退路が塞がれた。
「下がれ」
凛を背中側に置いた。短刀一本。鉄棒が二本。十体を相手にするには心もとない。鬼切丸があれば五体を一薙ぎにできるが、今は修理中だ。
瘴気の壁が近づいてくる。五メートル。四メートル。先頭の影が形を結びかけている。腕のような突起が伸びた。
背後の分岐から、光が走った。
白い光だ。霊術の光。瘴気を切り裂いて、先頭の二体を吹き飛ばした。
鳳凰院朱里が、分岐の奥から歩いてきた。
右手の薬指が光っている。指輪型の霊具だ。束ねた髪が肩に揺れている。服は前回と同じ紺のジャケット。ただし裾が乱れていた。単独で地下に入っていたらしい。
「神崎さん」
「鳳凰院か——何でいる」
「同じ状況です」
朱里の背後にも影が見えた。前方——朱里にとっての前方から、別の群れが流れてきている。朱里も前と後ろに挟まれていた。三者が分岐の合流点で鉢合わせた。
朱里の右手が翳された。索敵霊術の圧力が空間に広がる。
凛が一歩前に出た。
「右後ろ——いまず」
凛の動きが止まる。一瞬だけ、視線が俺に向いた。
◇◇◇
「右後ろ約四十五度——二体、来ます。弱点、腹部」
凛の声が通路に響いた。
動いた。朱里の右後方に回り込む。三歩で死角に入った。岩盤の裂け目から染み出してきた二体。薄い蛞蝓型。短刀で断った。瘴気が足元に散る。靴底が滑った。踏み直す。
朱里が索敵の方向を修正した。指輪の光が揺れて、右後方をカバーする角度に広がる。視線は前方に固定したまま、凛の指摘だけで死角を塞いだ。
三者が背中合わせになった。俺が前方。凛が右。朱里が左と後方を索敵で押さえる。通路の壁が近い。肩が触れそうな距離だ。
「左から来ます、三体——急所は腹部」
凛が方向と情報を同時に投げる。
動いた。朱里の右後方に回り込む。三歩で死角に入った。岩盤の裂け目から染み出してきた二体。薄い蛞蝓型。短刀で断った。瘴気が足元に散る。靴底が滑った。踏み直す。
朱里の霊術が左側の二体を弾いた。残り一体に踏み込む。腹部を鉄棒で貫く。
「下がれ!」
天井から落ちてきた一体を跳ね上げて、壁に叩きつけた。朱里が間髪入れず浄化の光を当てる。瘴気が霧散した。
「右奥の二体——急所、首」
凛の声に迷いがない。
短刀を逆手に持ち替えた。右の分岐に飛び込む。首を狙う。一太刀。核が割れる音。もう一太刀。二体が同時に崩れた。刃に纏わりついた瘴気を振り払う。
通路が開いた。
退路が見えた。地上方向への分岐が、瘴気の切れ間から覗いている。
「そこ——今なら通れます」
凛が走った。朱里が後を追う。俺が最後尾につく。背後を確認した。群れの気配は追ってきている。五メートル。七メートル。追撃の速度が落ちた。十メートルで止まった。縄張りの端だ。それ以上は追ってこない。
通路の傾斜が上がり始めた。空気が変わる。地上の匂いが混じってきた。
◇◇◇
地上まで二十メートルほどの場所で、足を止めた。
出口の方向から外の光が薄く差し込んでいる。五月の朝の光だ。地下の湿った空気と、地上の乾いた空気が混ざっている境目。
凛が壁に手をついている。息が荒い。能力を連続で使った反動だろう。額に汗が滲んでいる。だが膝は折れていない。立っている。俺の視線に気づいて、小さく頷いた。大丈夫だ、という意味だろう。
朱里は壁に背をつけて座り込んでいた。膝を立てて、右手を膝の上に置いている。指輪の光はもう消えた。呼吸を整えている。顔色は見えない。薄暗い通路では表情まで読めなかった。
数秒の沈黙。
朱里が立ち上がった。服の乱れを払いもしない。そのまま出口方向へ歩き始めた。
「助かったな」
声が出ていた。空間に向けた一言だった。
朱里の足が止まった。
一拍の沈黙。
「……助かりました」
振り返らないまま、それだけ言った。歩き出した。出口に向かって。
三歩。足が止まった。
「神崎さん、一つだけ教えます」
背中のまま、続けた。
「かつて鳳凰院の内部に、影鬼と繋がっていた一派がいて情報を渡していました」
朱里の右手が、一瞬だけ拳を握った。すぐに開いた。
「私はそれを知った時点で——もう手遅れだった」
そのまま歩き去った。最後まで振り返らなかった。
凛が俺を見た。何か言おうとして、やめている。
朱里の背中が出口の光に溶けていく。紺のジャケットの輪郭が薄くなって、地上の明るさに消えた。足音も消えた。
凛が俺の隣に立っている。何も言わない。ただ、朱里が消えた方向を見ている。
影鬼と情報を交換していた。
鳳凰院が。
壁に背を預けた。頭の後ろに冷たい岩盤が当たる。短刀の血糊が乾きかけている。拭かなければならない。
だが手が、動かなかった。
出口の光が、薄く差し込んでいる。五月の朝だ。地上では人が歩いている。電車が走っている。何も知らない朝が、あの光の向こうにある。




