第27話 鳳凰院の内側
夜になっても、朱里の言葉が頭から離れない。
鳳凰院の内部に、影鬼と繋がっていた一派がいる。情報を渡していた。朱里はそれを知ったとき、手遅れだったと言った。背中のまま、一度も振り返らずに。
事務所の蛍光灯が白い。机の上に地下調査のメモが散らばっている。凛が赤ペンで書き込んだ地図が開いたまま放置されていた。朱里の告白から数時間。俺は壁に背を預けて冷コーヒーを握っている。中身はもう冷えている。
凛がペンを置いて伸びをする。
「神崎さん、そろそろ今日の分まとめますね」
「ああ」
そのとき、ドアをノックする音がした。
凛が椅子から立ちかけて、俺を見た。時計は九時を回っている。依頼者が来る時間ではない。
ドアを開けた。
鳳凰院朱里が立っていた。紺のジャケット。裾の乱れは落としてあった。髪を後ろで束ねた顔が、廊下の薄暗い照明に浮かんでいる。昼間の地下で背中を預けた相手だ。窮地を助けた。助けられた。あの借りがなければ、今ここには立っていない。
「夜分に失礼します」
「……上がれ」
朱里が事務所に入った。室内を一巡りするように見渡す。机の書類、壁際の棚、キッチンの流し。視線の動かし方が速い。部屋の全体を把握してから足を進めている。
凛がパイプ椅子を出した。朱里は座る前に椅子の座面を一度見て、位置を五センチずらしてから腰を下ろした。背筋は真っ直ぐだ。パイプ椅子なのに姿勢が崩れない。
俺は壁に戻った。冷コーヒーを机に置く。立ったままでいる。
「鳳凰院の内部について、聞く気はありますか」
朱里の目がまっすぐ前を向いている。俺でも凛でもなく、部屋の中央を見ていた。
「聞く」
一語で返した。朱里の視線が動かない。確認する間でもなかった。来た時点で決めている。
「お茶、淹れますね」
凛が立ち上がった。キッチンに向かいかけて、机の角に積んだ書類の束に気づく。三段に重ねた書類ファイル。一番下のファイルが机の端からはみ出していた。
「これ、邪魔じゃないですか――」
横に避けようとした手が、束の端を引っかけた。
雪崩が起きた。
三段に積んだ書類が崩れて、床に広がる。依頼書、報告書、領収書。白い紙が扇状に散った。領収書の一枚が朱里の足元まで滑っていった。
「……お前、今何段崩した」
「えっ、これ順番があったんですか!?」
「あった」
「すみません――ごめんなさい――」
凛が慌てて膝をつく。朱里が床の書類を一枚拾い上げた。角を合わせて、机の脇に置く。次の一枚も拾う。端を揃える。指先の動きが正確だった。考えるより先に手が動いている。反射だ。散らばった紙を見て、整えずにいられない。
「……余計なことするな」
「失礼しました」
朱里の手が膝の上に戻った。表情は変わらない。二枚の書類が机の脇に揃えて置かれている。角が一ミリもずれていなかった。
凛が残りの書類を拾い集めている。順番が分からないまま重ねて、ファイルに戻した。明日もう一度並べ直す必要がある。
沈黙が三秒ほど続いた。凛が咳払いをした。
「気を取り直して――鳳凰院さんについて、という話ですね」
朱里の視線が凛に向いた。一拍置いてから、口を開く。
「鳳凰院家の内部に、禍古神の力を制御・利用しようとする一派が存在します」
声のトーンは変わらない。冷たい丁寧語。ただ、一文が普段より長かった。
「年配の重臣層が中心です。当主――蘭華様でも、止めきれていません」
凛がノートを開いた。ペンが走り始める。朱里の言葉を一字一句拾おうとしている。
「利用派が影鬼と独断で動いていたということか」
「直接、かは分かりません。ただ情報の流れがあったことは確認しています」
朱里の視線が機の上の地図に落ちた。赤ペンの書き込みを見ているのか、視線を逃がしているのか。一拍置いて、続ける。
「私はその一派ではありません」
短い。この一文だけが、普段の朱里の長さだった。
「その情報は――影鬼に何をさせるためのものでしたか」
凛のペンが止まった。顔を上げて朱里を見ている。
「それが分かれば、ここには来ていません」
声が更に短くなった。
◇◇◇
「なぜフリーの退魔師に話すんだ」
朱里の視線が俺から外れた。壁の時計を見ている。時計ではなく、俺の目を避けている。
「利用派を止める証拠が必要です。御三家の内部で動ける立場にない人間が、外から圧力をかけるしかない」
「それが俺たちだと言うのか」
「御三家に話せば利用派に漏れます。影鬼に近づいている外部の人間は、今あなたたちだけだ」
凛がペンを置いた。ノートの上に指先を揃えている。数秒の間があった。
「……鳳凰院さんは、止めたいんですね」
静かな声だった。質問ではない。確認だ。
朱里が答えなかった。
視線が戻る。凛の顔を一瞬見て、また正面に向き直った。温飲みを両手で持ち上げて、一口飲んだ。茶が減る音だけが聞こえた。
答えない。それが答えだった。
俺は冷コーヒーを一本、机に中央に出した。朱里の前ではなく、机の中央に。
「分かった。続きを聞く」
朱里が温飲みを下ろした。両手が膝の上に戻る。
「――影鬼のことを、もう少し話します」
◇◇◇
「影鬼は単独の妖怪ではありません」
朱里の声が低くなった。ここまでで一番遅い語り方だった。言葉を選んでいる。
「禍古神の眷属です。封印が作られた当初から、その内側に封じられていた存在です」
「先兵、と言った方が正確です。禍古神本体の封印をさらに弱める動きをしている可能性があります」
「……影鬼は、禍古神の一部ということか」
「一部とは言えません。ただ、独立した存在でもない」
冷コーヒーを置きかけた手が止まった。指が缶の側面に触れたまま、持ち上げも下ろしもしない。
「影鬼を倒すことは、禍古神本体への道を開くことです」
その一文だけが、部屋の空気を変えた。蛍光灯の光は同じ白さなのに、温度が一度下がったように感じる。
凛がペンを止めた。朱里を見ている。
「先兵――ということは、影鬼を倒しても禍古神本体は残る?」
「残ります。それが問題の本質です」
朱里が一拍置く。視線が一度落ちて、また上を向く。
「鳳凰院は七年前からこれを知っていました」
三者が黙る。事務所の外から車の走る音が一度だけ聞こえて、消えた。エンジン音が遠ざかる。五月の夜の底に沈んでいく。
「……その情報交換で、何が起きた」
朱里の視線が俺に向いた。
「具体的なことは分かりません。それが――」
「七年前の箱根で、俺の妹が依代にされた。十五歳だった」
凛が息を止めた。
朱里が動かない。温飲みに触れたままの手が止まっている。
「鳳凰院はそれに関わっていたのか」
「情報交換があったことは確認しています。それが――あなたの妹と繋がっているかどうかは」
「分からない、と言うのか」
返事がなかった。
朱里の手が膝の上に戻った。指先が揃っている。
「……申し訳ありませんでした」
俺は何も言わなかった。
朱里が立ち上がった。ジャケットの裾を直す。温飲みを机に戻した。動作は正確だった。
ドアに向かう。靴を履く音。ドアが開いて、夜の空気が少し入り込んだ。
「明日また来るか」
朱里が一瞬、止まった。
「……必要な情報があれば、連絡します」
ドアが閉まった。足音が階段を下りていく。規則正しいリズム。等間隔の靴音が遠ざかって、消えた。
事務所に俺と凛が残された。蛍光灯の光。散らばったままの書類。冷コーヒーと朱里の温飲みが机に残っていた。
凛がノートを胸に抱えたまま動かない。閉じたドアを見ている。
「……神崎さん」
「ああ」
「晴輝さんに、連絡するんですね」
「四人で話す必要がある」
冷コーヒーを開けた。プルタブを引く音が響く。一口飲んだ。ぬるかった。
窓の外で、車が一台通り過ぎた。五月の夜だった。




