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第39話 影鬼の仮封印

 翌夜。排水路の入口に四人が揃った。


 地下への階段を見下ろす。コンクリートの隙間から湿った空気が上がってくる。瘴気の匂い——昨夜より濃い。皮膚がざらつくような圧が、階段の下から這い上がっている。


 鬼切丸の柄を確かめた。蔵の残弾を数える。封印札が二枚、閃光霊符が三枚、予備の短刀が一本。足りるかどうかは、やってみなければ分からない。


「顕現が進んでる」


 晴輝が階段の縁に手を置いたまま、低く呟いた。右手に展開した術式符が淡く反応している。


「昨夜の三倍近い。封印術の有効時間が短くなる可能性がある」


「どのくらい保つ」


「展開から四十分。それを過ぎたら術式が飽和する」


 四十分。短い。だが、昨夜のように撤退する選択肢は最初からない。


 朱里が結界の霊具——指輪型の術式媒体を右手で回した。


「結界は封印エリアの固定に専念します。妨害排除は任せます」


 短い。必要なことだけを言う。鳳凰院の人間が昨夜の分派の件で何を思っているか、表情からは読めない。だが、ここにいる。それが答えだ。


 凛が俺の横に立っていた。


「迅さん。わたしが核の位置を読みます。方向と距離を伝えるので、そこを」


「ああ。方向だけでいい」


 凛が小さく頷いた。呼吸が一つ深くなる。緊張している。だが、目は据わっている。「ひび」の知覚を受け入れてから、この目をするようになった。


 ——降りるぞ。


◇◇◇


 地下空洞は、昨夜と空気が違っていた。


 階段を降りきった瞬間に分かる。天井から垂れるコンクリートの破片。壁面を走る亀裂。排水管の残骸が散乱した空洞の中心に、影が凝縮していた。


 人型だった。


 昨夜は輪郭すら曖昧だった影が、今は肩と腕の形を持っている。頭部にあたる部分が天井に触れるほど巨大で、胴体から伸びる影の触手が空洞の壁面に食い込んでいた。


 災厄級——いや、それを超えている。七年前の時点で既に災厄級を上回っていたという情報は、嘘じゃなかった。


 空気が重い。呼吸するだけで肺が圧迫される。瘴気が物理的な密度を持っている。


「晴輝」


「分かってる」


 晴輝が術式符を展開した。五枚の符が宙に浮き、空洞の五方に散る。一枚ごとに光の線が走り、格子状の紋様が空間に描かれていく。封印術式の下地だ。


「結界、展開します」


 朱里の声と同時に、指輪から放射状の光が広がった。封印エリアの境界線が床に刻まれる。影鬼を中心にした半径十メートルの円。その内側が戦場になる。


 影鬼が動いた。


 触手が三方向に伸びる。晴輝の術式符を狙っている。封印の下地を壊す気だ。


「朱里!」


「対処済みです」


 結界の壁が触手を弾いた。接触面で影が蒸発する。だが、弾かれた触手がすぐに再生する。結界の強度と再生速度が拮抗している。


「保ちますが、長くは」


「四十分で終わらせる」


 晴輝の声に迷いがない。術式の格子が空洞全体に広がっていく。封印の準備が整いつつある。


 影鬼が唸った。空気が振動する。天井からコンクリートの破片が落ちてくる。


 こいつは知っている。何をされようとしているか。


 触手の密度が上がった。五本、八本、十本——結界の壁に次々と叩きつけられる。朱里の結界が軋む音が聞こえる。


「凛」


「——見えます」


 凛の目が影鬼の内部を捉えていた。「ひび」の知覚。妖怪の構造的弱点を視覚化する能力。


「核が……複数あります。三つ。いえ、四つ。でも——」


 凛の声が一瞬途切れた。


「中心にもう一つ。他の核と繋がっている、大きいのが一つ」


「そいつが本命か」


「はい。左前方、高さ三メートル——あそこです。あの核を崩せば、顕現が止まります」


 左前方。三メートル。影の塊の中心部。触手の根元に近い。


 鬼切丸の柄を握り直した。蔵から力を引き出す。腕の血管が浮き上がるのが分かる。空転体の出力を上げる——筋繊維が軋む感覚。


「迅さん、左側の触手が厚いです。右から回り込めば——」


「正面から行く」


 凛が息を飲んだ。だが、反論はしなかった。


 七年だ。


 小春が死んでから七年。影鬼を追い続けた七年。排水路の下にこいつがいると知ったのが三週間前。ここまで来るのに、どれだけの依頼をこなして、どれだけの情報を買って、どれだけの夜を費やしたか。


 数えていない。金額なら覚えている。


 ——行くか。


◇◇◇


 踏み込んだ。


 床のコンクリートが砕ける。空転体の脚力が地面を蹴り抜いた反動で、身体が弾丸のように飛び出す。


 影の触手が反応した。左から三本。


「左に来ます」


 凛の声が聞こえた。短い。的確だ。


 身体を右に傾ける。触手の先端が頬を掠めた。冷たい。影に実体はないはずなのに、掠めた箇所の皮膚が凍りつくように痺れる。


 二本目が腹を狙う。鬼切丸で斬り払った。刃が影を裂く。霊具でなければ触れることすらできない。


 三本目——足元。


 跳んだ。触手の上を蹴って、さらに前へ。影鬼が影の壁を張った。視界が真っ黒になる。


 見えない。だが——方向は分かっている。左前方。三メートル。凛が示した位置。


 影の壁を鬼切丸で突き破った。刃が影の質量を切り裂く。腕に重い抵抗がかかる。粘つくような感触。影が刃に絡みつこうとしている。


 構わない。押し通る。


 影の壁の向こう側に出た。


 核が見えた。赤黒い光を放つ球体。拳二つ分の大きさ。影の束が核から四方に伸びて、空洞全体を支えている。こいつが本体の中心だ。


 鬼切丸を振りかぶった。空転体の全出力を腕に集中させる。筋肉が悲鳴を上げている。関節が熱い。


 一撃。


 これで終わりだ。


「小春の名前を使ったことへの答えはこれだ」


 静かな声だった。叫ぶ必要はない。七年分の答えを、刃に乗せるだけでいい。


 鬼切丸が核を砕いた。


 衝撃が腕を伝って肩まで走る。核が割れる音——硬い卵が砕けるような、乾いた音。赤黒い光が飛散して、影が弾けた。


◇◇◇


 影鬼の輪郭が崩れていく。


 人型を保っていた影が、中心から外へ向かって溶けるように薄れていく。触手が力を失い、壁面から剥がれて地面に落ちる。


「今だ」


 晴輝の声が空洞に響いた。


 五枚の術式符が同時に発光する。格子状の紋様が空間を圧縮するように収縮し、崩れかけた影鬼を包み込んでいく。光の檻。


「結界、固定に移行します」


 朱里が右手を突き出した。指輪から放たれた光が封印術式の格子に重なり、固定する。影鬼が封印の中で蠢いている。まだ消えてはいない。仮封印——完全な消滅ではなく、顕現を凍結させる処置。


 だが、動きは止まった。


 空洞の空気が変わった。瘴気の圧が薄れていく。肺が軽くなる。天井からの破片も止まった。


 晴輝が額の汗を拭った。


「仮封印、成功だ。……完全封印には退魔局の正式な術式が要るが、これで当面は顕現が止まる」


 術式符が最後の光を放って、空洞の五方に固定された。光の格子が影鬼の残骸を静かに閉じ込めている。


 朱里が結界を解除した。指輪の光が消える。呼吸が一つ深くなった——今まで張り詰めていた分を吐き出すように。


「お疲れ様でした」


 短い。だが、声にわずかな安堵が混じっていた。


 凛が俺のそばに歩いてきた。


「迅さん、腕……」


「問題ない」


 右腕が痺れている。空転体の全出力を集中させた反動だ。筋繊維が限界を超えた時の痛み。一晩で引く。


 ——終わった。


 鬼切丸を蔵に戻した。影鬼の光の格子を見る。七年間追い続けた影が、あの中にいる。


 小春の仇。小春を依代にした化け物。


 砕いた。一撃で核を砕いた。それは事実だ。


 なのに——腕の痺れ以外に、何も残っていない。空洞の湿った空気を吸い込んだ。冷たいだけだ。


 足音が聞こえた。


 空洞の入口——階段の方向から。四人全員が振り返った。


 宗次郎だった。


 昨夜と同じ和装。表情がない。空洞の中を一瞥して、光の格子を見た。仮封印が完了していることを確認したのだろう。


 封印強化を止めろ——昨夜の言葉が甦る。宗次郎はそれを阻止するためにここに来たのか。だとすれば、間に合わなかった。仮封印は既に終わっている。


 晴輝が俺の横で低く呟いた。


「……あの人が来た理由、心当たりがある。封印強化に使う術式は、影鬼に取り込まれた依代の魂にも影響する可能性がある。小春さんの——」


 晴輝の言葉がそこで切れた。俺の表情を見たのだろう。


 宗次郎は何も言わなかった。


 入口に立ったまま、数秒。光の格子と、俺を見比べたように見えた。


 そして——振り返って、階段を上がっていった。一言も発さずに。


 追わなかった。追う理由がない。今は。


 空洞に四人が残された。光の格子だけが、静かに明滅している。


 七年間の答えの一つが、あの光の中にある。


 だが、それだけでは足りないことも——分かっていた。

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