表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

38/40

第38話 三者衝突

 排水路の壁がコンクリートに変わっていた。


 地上に近い。住宅街の裏手を走る排水路の中間地点——天井が低く、四人が並ぶと肩が壁に触れる幅。街灯の光が排水路の入口方向から薄く差し込んで、足元の乾いた底面を照らしている。さっきの地下とは違う。瘴気の匂いが薄い。コンクリートと泥と、五月の夜気が混ざった空気。


 懐中電灯を前方に向けた。


 光の先、十五メートル。人影があった。


 妖怪ではない。瘴気がない。人間の気配だった。ただし霊力を持つ者——空気の密度が微かに変わっている。呼吸のたびに周囲の霊気を圧す。この圧力は知っている。


 右手を挙げて全員を止めた。


 背後で晴輝が足音を消す。朱里の指が右手の指輪に触れた。凛の呼吸が浅くなる。


 懐中電灯の光が前方の人影を捉えた。


 黒の羽織。長身。背筋が伸びている。腰に一振り。立っているだけで排水路の空気が重い。


「……親父」


 声が出ていた。


 神薙宗次郎がこちらを見ていた。視線が逸れない。暗い茶色の目が懐中電灯の光を受けて、まばたきをしなかった。


「来ていたか」


 落ち着いている。排水路の壁に反響する低い声。感情が乗っていない。いつもと同じだった。東京支部の近くで「深追いするな」と言った時と、声の温度が変わっていない。


 背後の三人の位置を確認する。晴輝が俺の左後方、壁際。朱里が右後方、指輪に手を添えたまま。凛が俺の右斜め後ろ、出口寄り。宗次郎は前方十五メートル、通路の中央。退路を塞いでいるわけではない。ただ、そこにいる。


「なんでここにいる」


「封印強化を止めろ」


 質問に答えなかった。挨拶も前置きもない。宗次郎の声が排水路の壁に当たって、硬い反響を返す。


「誰の封印強化だ」


「お前たちが仕掛けようとしているものだ」


「晴輝の仮封印術のことか」


 晴輝が背後で息を詰めた。宗次郎がそれを知っている——仮封印の準備をしていることを把握している。


「理由を言え」


「言えない」


 間がなかった。即答だった。この男はいつもそうだ。理由を語らない。説明しない。断言して終わる。


「小春に関係あるのか」


 宗次郎の目が微かに動いた。コンマ二秒の間——それだけだ。感情を制御するサイン。


「……退け」


 答えになっていない。だがこの男にとっては、これが回答だ。


「——それが親父のいつもの答えだ」


 排水路の空気が重い。宗次郎と俺の間の十五メートルが、埋まらない距離のまま張りつめている。


 鬼切丸の柄に手が伸びかけて、止めた。ここで抜く理由がない。奥歯を噛む。顎の筋肉が軋んだ。


 晴輝が一歩前に出た。


「神薙当主。仮封印の詳細は——」


 晴輝の声が途切れた。


 背後から、もうひとつの気配が来た。


◇◇◇


 霊力の質が違う。


 御三家系の霊術だが、歪んでいる。正統な術式の形を保ちながら、出力の方向が捻じれている。四つ、五つ。複数の霊力源が排水路の出口側から近づいてくる。


 振り返った。


 排水路の出口方向から四人の霊術師が現れた。黒いジャケット。術符を隠し持っている。先頭の男が右手に術式を展開しながら歩いてくる。淡い光が排水路の壁を舐めた。


 朱里が息を呑んだ。


「鳳凰院の……」


 声量がいつもの半分に落ちている。知っている術式なのだ。自分の家の。


「知ってるやつか」


「……分かりません」


 朱里の返答が短すぎる。普段の冷たい丁寧語ではない。動揺している。


 挟まれた。前方に宗次郎。後方に鳳凰院の四人。俺たちは中間にいる。排水路の幅は三メートル。横に逃げる場所がない。


「神薙宗次郎」


 先頭の男が声を上げた。視線は宗次郎だけを見ている。


「封印に関わる立場の方だ。来てもらう」


「断る」


 宗次郎が動いた。


 足音が一つ。俺たちの脇を通過する。黒い羽織が視界の端を過ぎた。腰の霊具も抜かなかった。速い。地下での影形処理で疲弊した俺の足より、はるかに速い。


 先頭の男が術式を発動した。光が排水路の天井に跳ねる——その光が届く前に、宗次郎の右手が先頭の男の手首を掴んでいた。


 術式が霧散する。


 接触と同時の無効化。朱里が目を見開く。


「……霊力ではない。霊具です」


 朱里の声が揺れていた。袖の中に隠していた小型の霊具——接触した瞬間に相手の術式を消している。力技ではない。精密な霊具運用だ。


 先頭の男が膝をついた。宗次郎は手首を放さない。残り三人が術式を構えたが、足が止まっている。一瞬で先頭が制圧された。その事実が残りの足を止めている。


 宗次郎が振り返った。俺を見る。暗い茶色の目が感情を映さなかった。


「お前たちは出ろ」


 説明なし。助けを求めるでもない。命令でもない。事実の通告として。


「親父、こいつらは——」


「出ろ」


 同じ言葉を繰り返した。声のトーンが変わらない。新しい情報を加えず、立場も変えない。この男は、そういう男だ。


 晴輝が俺の肩に手を置いた。


「行くぞ。ここは巻き込まれる場面じゃない」


 冷静な判断だ。正論だった。


 朱里が動かなかった。分派の残り三人の顔を見ている。鳳凰院の中の誰がここに来ているのか——確認しようとしている。


「朱里さん」


 凛の声が静かだった。朱里の腕に触れて、出口と反対側——排水路の別の出口方向に促す。


 朱里が唇を噛んだ。視線を切って、動き出す。


 宗次郎が分派の残りに向き直った。先頭の男を片手で押さえたまま、三人に対峙している。霊具すら抜かない。抜く必要がないのだ。


 背を向けた。走る。四人分の足音が排水路に反響する。背後で術式が弾ける音が二回。宗次郎の足音は聞こえない。


◇◇◇


 地上に出た。


 夜の空気が肺に入った。五月の湿気が首筋に張りつく。住宅街の裏手は静かだった。街灯が虫を集めている。遠くでエアコンの室外機が唸っている。生活音。地下で三者が衝突している間も、この街は普通に動いていた。


 排水路の出口を振り返る。


 宗次郎は出てこなかった。分派を制圧して、そのまま地下に引き返したのだろう。単独で。あの男は常にそうだ——独りで動き、独りで処理し、理由を誰にも言わない。


 朱里が壁に背を預けた。束ねた髪が右肩に流れている。右手の指輪を握り締めていた。


「わたしの知らない人たちです」


 声がいつもと違った。語尾の硬さが崩れている。


「鳳凰院の……でも、誰なのか分からなかった」


 台詞が長い。普段の朱里なら一言で終わる。情報を一つ渡して黙る。それが崩れている——自分の家の人間が、目の前で御三家の当主を連行しようとした。その事実が朱里の中で処理できていない。


 晴輝が腕を組んで、黙った。今は何を言っても響かないと判断したのだろう。


「蓮華さんには報告するのか」


「……します」


 朱里の返答が遅い。一拍の沈黙。それだけで、家の中に対する不信が見えた。


 凛が朱里の横に立っていた。手は触れていない。ただ距離を詰めて、そこにいる。凛の右手がスカートの裾を一度握って、離した。小さな仕草だった。自分が何かしたいのに、言葉が見つからない時の所作。


 空を見上げた。


 星は見えない。新宿の光害がオレンジ色に空を塗っている。首筋に夜風が当たる。汗が冷えていく。


 封印強化を止めろ。理由は言えない。


 七年前から何一つ変わっていない。追放した時も、理由を一言も説明しなかった。小春のことを聞いても答えなかった。今夜も同じだ。


 だが——分派を退けた。俺たちを通した。理由を言わないまま、独りで地下に戻っている。


 あの行動の意味が分からない。


「親父は何を知ってる」


 声に出ていた。誰にも向けていない。夜の空気に投げた言葉だった。


 答えてくれる人間は、今夜ここにはいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ