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第37話 戻ってこい

 歩く速度が上がっていた。


 自覚はない。ただ足が前に出る。地下通路の岩盤が左右に流れた。朱里の索敵粒子が天井を薄く照らしている。靴底が乾いた岩を叩く音だけが反響する。四人分の足音。だが俺の音だけが、他の三人より速い。


 鬼切丸の柄を握る右手に力が入っている。汗で滑る。地下の空気が肺の奥に張りつく。瘴気の残り香だ。空洞を離れてからずっと、鼻の奥にこびりついて取れない。


 さっき鞘に戻したはずの刃を、もう一度抜きたくなる衝動が手首から肘まで走る。


「落ち着け。追われてない」


 晴輝の声が背後から飛んできた。


 返事をしなかった。落ち着いているつもりだ。ただ足が止まらない。影鬼の声がまだ耳の奥にこびりついている。『また来るだろう、神薙の子』。あの複数の声が混ざった響きが、頭蓋骨の内側で反響する。


 奥歯を噛んだ。顎の筋肉が軋む。噛む力が強すぎて、こめかみまで痛みが走る。


 足が速くなる。通路の傾斜が緩んだ。岩盤の変質が薄れ、コンクリートの壁面が戻り始めた。地上に近づいている。だが足は地上を目指していない。身体が前に出ようとしているだけで、向かいたい方向は逆だ。さっきの空洞。あの闇の中に影鬼がいる。


 背後で凛の足音が変わった。歩幅が広がっている。俺に追いつこうとしている。


「朱里さん、晴輝さん。先に出口まで行ってください」


 凛の声が静かで確かだった。


 足音が分かれた。晴輝が何か言いかけて、口を閉じている。朱里は無言で歩き出した。索敵粒子の一部が前方に伸びて、二人を先導していく。残った粒子が少ない。通路の明るさが半分に落ちた。岩盤の輪郭がぼやけた。


 二人の足音が遠ざかる。凛の足音だけが、俺の後ろにある。


◇◇◇


 分岐路だった。


 直進すれば出口に向かう。右に折れれば——さっきの空洞に戻る。影鬼がいる方向。通路の壁が禍古神の気配で黒ずんでいる。空気の匂いが違う。甘い腐敗臭が右の通路から流れてくる。左は乾いた岩の匂い。


 足が右に向いた。


 自然な動きだった。考えてから曲がったのではない。身体が先に右を選んでいる。鬼切丸の柄を握り直す。準顕現状態の影鬼には物理が通らない。さっきそれを確認した。刃が核を素通りした感触が、まだ手に残っている。だが足は止まらない。


 腕を掴まれた。


 凛の手だった。指が細い。だが離さなかった。掴む力に迷いがない。


 振り返った。


 凛の目が近い。朱里の粒子が遠ざかって、残っている光はほとんどない。暗がりの中で、凛の瞳だけが見えた。焦点が合っている。さっき空洞で過負荷を起こした時の、あの不安定な目ではない。背筋が伸びている。肩に力は入っていないのに、一歩も退かない姿勢だった。


「今ここで突っ込んでも、小春は戻らない」


 息が詰まった。肺の中の空気が固まる。妹の名前が、暗い通路に反響した。


 反射で口が開きかけた。右足が前に出ようとする。右の通路に。あと二十歩で空洞に戻れる距離だ。鬼切丸の柄を握る手に力が入る。


 凛の指が、腕の上で締まった。骨ばった手首を、細い指が巻いている。


「でも迅さんがいなくなったら、わたしが終わる」


 足が止まった。


 止めたのではない。止まった。あの時と同じだ——凛が「今日じゃない」と言った時と、同じ場所が止まる。膝ではない。胸の奥の、もっと深い場所が凍りつく。


 凛の目が逸れない。暗い通路の中で、俺だけを見ている。怯えていない。涙も見えなかった。声が震えてもいない。


 ただ事実を言っている顔だった。自分が終わるという事実を、天気予報のように淡々と。


 ——わたしが終わる。


 説得ではなかった。正論でもない。復讐を止めろとも、冷静になれとも言っていない。ただそれだけの言葉が、鬼切丸を抜こうとする衝動より重かった。


 凛の指が、まだ俺の腕を掴んでいる。離す気配がない。この手は、俺が向きを変えるまで離れないだろう。


 息を吐いた。長い。肺の底から全部出す。吐き切って、空になった胸の中に、もう一度空気を吸い込む。地下の空気は重い。瘴気の残り香がする。だがさっきより楽に吸えた。


 鬼切丸の柄から、指を一本ずつ離す。五本。全部離れた。右手が力を失って、体側に落ちる。


 何も言わなかった。「分かった」とも「お前は正しい」とも。言葉にしたら、たぶん嘘になる。分かったわけではない。正しいとも思えない。


 右の通路の闇を見た。甘い腐敗臭が、まだそこから流れてきている。あの奥に影鬼がいる。


 目を逸らした。


 向きを変えた。出口の方向に足を踏み出す。一歩目が重い。二歩目で少し楽になる。凛の指が腕から離れた。指の跡が、袖の上にまだ残っている気がした。


 横に並ぶ足音。凛が隣を歩いている。さっきと同じ距離だ。腕が触れるほど近い。触れてはいない。通路を進むごとに、空気が軽くなる。瘴気が薄れていく。


◇◇◇


 出口の光が見えた時、肺が勝手に深く息を吸った。


 夜の空気が顔を打った。五月の生温さが肌に張りつく。排水路の入口を出ると、街灯の明かりが目に刺さった。地下にいた時間は一時間半ほどだが、目が闇に慣れすぎている。まぶたを細めても光が痛い。


 住宅街の裏手は静かだった。遠くで車が走る音がする。どこかの家のエアコンの室外機が低く唸っている。生活音だ。地下にいた間も、この街は普通に動いていた。


 虫が街灯の周りを回っている。入った時と同じ光景。だが同じには見えない。


 晴輝と朱里が先に出ていた。晴輝が排水路の入口脇のコンクリート壁に背を預けていた。腕を組んで、顔に汗の跡がある。朱里は三メートルほど離れた位置に立ち、指輪に触れて索敵の残りを処理している。


「今日は無理だ。仮封印の準備が間に合わなかった」


 晴輝が言った。腕を組み直す。いつもの冷静な声だが、語尾が少しだけ硬かった。事実の報告であって、言い訳ではない。俺に言い訳をする男ではない。こいつが言い訳を始めたら、それは本当に終わった時だ。


「次回は封印術の事前展開が必要です。現地での即時展開は成功率が低すぎます」


 朱里が振り向かずに言った。もう次の手を考えている。索敵粒子を処理しながら、左手で手帳を開いている。


 空を見上げた。


 星は見えない。新宿の光害が空をオレンジ色に染めている。雲の輪郭すら曖昧だ。地下の闇とは正反対の、明るすぎる夜空。首筋に夜風が当たる。汗が冷える。鼻の奥にまだ瘴気の匂いが残っているが、地上の空気が少しずつ上書きしていく。


 空を見上げたまま、三秒。鬼切丸の柄に手を伸ばしかけて、やめた。今はいい。


「次を考えよう」


 自分の声が、いつもより低かった。喉の奥に瘴気の名残がこびりついているせいかもしれない。だが前を向いて出た言葉だった。


 晴輝がこちらを見た。一瞬だけ目が細くなる。何かを確かめるような視線。それから頷いた。


 朱里が振り向いて、手帳のページをめくる。ペンを取り出している。封印術の事前展開に必要な条件を、もう書き始めているのだろう。こいつらは止まらない。止まれない人間が集まっている。


 凛が横で、小さく息をついた。


 視界の端で凛の肩が下がるのが見えた。力が抜けている。背筋はまだ伸びたままだ。あの地下通路で俺の腕を掴んだ時の、あの姿勢のまま。


 掴んでいた腕の感触が、まだ右腕に残っている。薄い指の跡。強くはない。だが離れなかった。


 あの手が、俺を止めている。


 夜風が首筋を撫でた。街灯の下で、四人の影が地面に伸びている。


 それだけの事実が、胸の奥で重さを持っている。

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