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第36話「小春の真実」

 闇が、形を持った。


 空洞の中心で揺れていたものが、今度は明確に動いた。天井から床まで届く影の柱が地面をはがすように膨れ上がり、人の輪郭を取ろうとしている。だが輪郭は定まらない。肩の位置が揺れ、頭部が伸びては縮み、巨大な影の質量だけが確かにそこにある。


 鬼切丸の刃が震えた。俺の手ではない。刃そのものが反応している。


 朱里が一歩退いた。索敵術を展開しようとして、指先が止まる。また途中で消えたのだろう。晴輝が腰の符嚢に手をかけたまま動かない。凛の呼吸が隣で浅くなった。


 影が、声を発する。


 人の声ではなかった。男とも女ともつかない、複数の音が重なったような響き。壁に反射するのではなく、空洞そのものが震えて言葉になるような音だった。


「七年、待っていたか」


 奥歯が鳴った。噛み締めたのではない。勝手に鳴った。


 影の輪郭が揺れる。こちらを見ている——と、感じた。目がないのに。


「待っていた、という表現は正しくないか。追っていた、だな。民間退魔師になり、下級の依頼をこなし、わずかな手がかりを集め。七年かけて、ここに来た」


 喋りやがる。声が空洞を満たすたびに空気が重い。立っているだけで肺が圧迫される。鬼切丸の柄を握り直した。汗は出ない。指が冷たい。


「影鬼」


 声が出た。自分の声がひどく小さく聞こえた。空洞が広すぎるのか、影の声が大きすぎるのか。


「そう呼ばれている。人がつけた名だ。名は形を与える——だから、その名でよい」


 影の輪郭が首を傾けるような動きをした。複数の声が重なり、奥の方で別の声が笑った。


「神崎迅。いや——神薙の子か。あの子と同じ血筋」


 あの子。


 足の裏から冷たいものが這い上がった。腹の底まで一気に到達して、胃が縮んだ。


「小春のことを言っているのか」


 訊いた声が平坦だった。感情が出る前に言葉が出た。


「小春。そうだ、その名前だった」


 影が揺れた。思い出すような間——人間のそれを真似ているのか。


「純粋な霊力の器。歳は十五。霊力回路が成長途上で、属性に偏りがなく、精神に濁りがない。禍古神の封印を安定させる依代には、その三つが必要だった」


 依代。


 聞いたことがある言葉だ。鳳凰院の古い記録に一度だけ出てきた。封印の媒介に使われる人間の器。


「年齢。霊力の質。精神的な純度。三つの条件を同時に満たす人間は、数十年に一人。お前の妹は——」


 影が、笑った。複数の声が微かにずれて重なる、人間には出せない笑い方。


「最初から選ばれていた。出会った日から」


 膝が、抜ける。


 踏みとどまった。鬼切丸の柄を握る力だけで立っている。視界の端が白くなって、空洞の壁が遠くなった。


 最初から。


 出会った日から。


 七年間抱えてきた言葉が頭の中で崩れた。「救えなかった」。何度も反芻した。何度も奥歯を噛み締めた。俺がもっと強ければ。俺が間に合っていれば。


 違う。


 最初から救えるはずがなかった。条件を満たしていた。数十年に一人の最適解として。十五歳の小春は、生まれた時点で——


 呼吸を忘れている。吸った。冷たい空気が肺に入って、胃の底の冷たさと混ざる。


 横で、朱里の指が震えた。


 見える。俺の視界の端で、朱里が右手の指輪に触れようとして止めている。束ねた髪の先が右肩に流れている。顔は見えない。だが指先の震えだけは見えた。


 鳳凰院の情報交換。影鬼との。あの四人の会議で朱里が自分の口で語った事実。家の年配重臣たちが影鬼と交わした情報が——小春を標的にする一因になったと、今、気づいたのだろう。


 凛の手が、俺の左腕に触れた。


 触れただけだ。掴んではいない。指先が袖の上から腕に当たって、そのまま離れなかった。


 構わなかった。影鬼の声だけが頭を占めている。


「儀式は成功した。お前の妹の霊力が封印の媒介となり、禍古神は再び安定している。数十年の猶予を得た。御三家が七年間対処できたのも、あの子の——」


「黙れ」


 声が出ている。喉が張り裂けそうな声だった。


 身体が動いた。右手の鬼切丸ではなく、左の拳を影に向かって叩き込んだ。


 拳が、影の中に沈んだ。


 何も、ない。


 手応えがなかった。抵抗がない。冷たくもなく、熱くもない。拳が影の輪郭を突き抜けて、ただ空気を殴った。肩まで沈んでも掴めるものが何もない。


「待て、迅! 封印術の展開がまだ——」


 晴輝の声が背後で弾ける。足が止まらない。鬼切丸を引き抜いて横薙ぎに振った。刃が影を裂いた——裂けた影が霧のように散って、すぐに元に戻った。


「物理攻撃は届かない。準顕現状態では、影は実体を持たない」


 影鬼の声に苛立ちがなかった。教えるような調子。複数の声が静かに重なっている。


 もう一度突く。切る。蹴る。全部通り抜けた。影の中心を貫いても、鬼切丸の刃先に手応えがない。破魔の札に手が伸びかけて、止めた。霊体に干渉する札だが、準顕現状態が霊体と同じとは限らない。残り五枚を賭けるには情報が足りない。


 霊喰いの鎖を投げる。鎖が影をすり抜けて地面に落ちた。乾いた金属音が空洞に響いて、消える。


 息が上がった。地下に入ってから影形を十体以上斬った疲労が、今になって足に来ている。膝裏が震えている。右の脇腹——古い爪跡が、走った衝撃で鈍く疼いた。


「俺の妹の死に——」


 影鬼が口を開く。


「意味があった。そう言いたいのか」


 声を奪われる。


 違う。影鬼が言ったのではない。俺が言おうとした言葉を、影鬼が先に口にした。


「意味があった」


 影の声が繰り返す。複数の声が、今度は静かだった。


「儀式の成功。封印の安定。御三家の七年間。すべて、あの子の死があったから成り立った」


 視界が赤くなった。


 比喩ではない。血が頭に上って、目の奥が熱くなって、空洞の暗闇が赤黒く滲んだ。鬼切丸の柄が軋むほど握り締めている。指の関節が白い。


 意味があった。小春の死に。十五歳の少女が器にされて、霊力を搾り取られて命を落としたことに——意味があった。


 足が前に出た。


「迅」


 背中に、声。


 凛だった。


「今日じゃない」


 足が、止まった。


 止めたのではない。止まった。凛の声が背中に当たった瞬間、膝の力が抜ける。前にも後ろにも行けない。


 影鬼は動かなかった。追ってこない。空洞の中心から一歩も出ない——準顕現状態では移動能力が限られている。


「封印術の展開には時間がいる。今の装備じゃ触れられない」


 晴輝の声。低く、硬い。事実だけを述べている。


「索敵粒子が通りません。内部構造の解析も不可能です」


 朱里の声。いつもの冷たい丁寧語。だが、語尾がわずかに揺れた。


 凛が俺の隣に立つ。


 肩が視界の端に入った。顔は見ない。見る余裕がない。だが凛の肩が震えていないことだけはわかった。


「今日じゃない」


 凛がもう一度言った。


 同じ言葉。同じ声。だが二度目のほうが近かった。凛の目が俺の背中ではなく、横顔を見ている。


 影鬼が沈黙した。影の輪郭が薄れ始めている。維持できる時間が限界に近いのか。複数の声が遠くなっていく。


 鬼切丸を鞘に戻す。


 手が震えている。握力が落ちて、柄を離す瞬間に指が攣りそうになった。


 振り返る。凛が立っていた。目の焦点が合っている。背筋が伸びている。さっき、絞り込み型の使い方を見つけた時の顔と同じだった。怯えていない。揺れていない。ただ、俺を見ていた。


 背を向ける。出口に向かって歩き始めた。足が重い。一歩ごとに地下通路の空気が肺にまとわりつく。


 四人の足音が地下通路に反響した。晴輝が殿を歩き、朱里がその前。誰も何も言わなかった。


 影鬼の最後の声が、空洞の壁に残響する。


「また来るだろう、神薙の子」


 答えなかった。


 凛が隣を歩いていた。腕が触れる距離。触れてはいない。だが距離は、来た時より近かった。

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