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第35話 深淵への突入

 排水路の鉄格子は、予想よりも薄かった。


 蔵から引き出した鶴丸の柄を鍵穴に当てる。霊具の震動が金属に伝わり、錆びた錠前が内側から弾けた。音は立てない。鶴丸を戻し、鬼切丸に持ち替える。


 午後十一時。新宿南口から徒歩十五分。住宅街の裏手にある廃排水路の入口は、地図で見た通りの場所にあった。頭上の街灯が一本だけ点いている。虫が光の周りを回っていた。五月の夜気は生温い。


 四人とも黒い作業着に着替えている。晴輝が腰の符嚢を確かめた。凛が深く息を吸い、吐いた。朱里だけが、表情を変えていない。


「気配は前方九十メートルから急増します。それまでは安全です」


 朱里が右手の指輪に触れた。薄い光の粒子が指先から散り、排水路の闇に溶けていく。索敵術。壁を透過して前方の情報を拾い上げる。


「それまで、な」


「隊列は予定通りで」


「ああ。入るぞ」


 先頭は俺。次に晴輝。凛が三番目。朱里が最後尾。作戦会議で決めた通りだ。


 排水路に足を踏み入れた。靴底がコンクリートの水たまりを踏む。浅い。くるぶしにも届かない。空気は湿っていて、鉄錆と泥の匂いがする。二日前に事務所の前で嗅いだ排水溝の匂いの、もっと濃い版だ。


 懐中電灯は使わない。朱里の索敵術の光粒子が通路の輪郭を薄く浮かび上がらせている。俺の五感なら光がなくても動ける。晴輝も封印術の感知で足元は読める。凛だけが、朱里の粒子に視線を頼っている。


「足元、段差があります。三メートル先」


「了解」


 朱里が後方から索敵と地形情報を同時に流してくる。十メートル進むごとに、空気が変わった。


 最初は排水路の匂い。古いコンクリートと汚水の残滓。だが二十メートルを超えたあたりで、別の気配が混じり始めた。五感が拾う。鼻の奥に張りつくような、甘い腐敗臭。瘴気だ。薄い。だが確実に濃くなっている。


「封印から漏れてる量が増えてる」


 晴輝が低く言った。歩きながら左手で印を切っている。探知用の封印術。


「岩が変わってる……禍古神の気配が染み込んでます。長い年月で」


 凛が壁に手を触れずに読んでいる。歩きながら、視線が壁面の何かを追っていた。


「コンクリートが……なくなってます。岩に変わってる」


 その通りだった。壁がいつの間にか天然の岩盤に変わっている。継ぎ目はない。人工物が浸食されて天然空洞と融合したような構造だ。


「何年だ」


「……分かりません。でも、かなり長い」


 凛が指先を壁に向けた。触れてはいない。だが指が微かに震えている。能力が拾った情報の量が、凛の表情を固くしていた。


「凛。無理はするな」


「大丈夫です。読めてます」


 短い返事だった。迷いのない声だ。


 三十メートル。傾斜がきつくなった。通路の幅が少し広がる。足元の水が消え、乾いた岩盤がむき出しになっていた。代わりに空気そのものが重くなった。肺の中に粘土を詰め込まれるような圧迫感。


「迅。この濃度、想定より早いぞ。下で何かが変わってる」


「封印が劣化してるのか」


「劣化じゃない。中から押してる。封印の外側に向かって、圧力がかかってる」


 四十メートル。空転体の五感が全方位に警告を出している。首筋の産毛が逆立つ。この先にいるものの気配が、岩盤を通して伝わってくる。


 朱里の索敵の光粒子が、急に揺れた。


「九十メートル地点です。ここから先は——」


「ああ」


 分かっている。安全圏は終わりだ。


 前方の闇が、質を変えた。


◇◇◇


 壁から滲み出たのは、影だった。


 半透明の黒い塊が岩盤の表面を這い、形を成していく。犬ほどの大きさ。四本脚。輪郭が揺れている。目も口もない。影形の下位妖怪——影鬼の気配を帯びた使い魔だ。瘴気の匂いが一気に濃くなる。


 一体ではない。左の壁から三体。右から四体。天井から三体。十体以上が同時に顕現した。通路が塞がれる。


「左から四体。右に五。天井に三」


 朱里の声は平坦だった。索敵術の光粒子が揺れながら敵の位置を示している。


「下位だな。晴輝、後ろを頼む」


「了解」


「凛、構造を読め。こいつらの弱点と供給源」


「はい」


 鬼切丸を構えた。柄が掌に馴染む。先頭の影が地面を蹴った。


 ——遅い。


 下位だ。一体ずつなら二秒で片がつく。問題は数と、この狭さ。排水路の幅は三メートル。鬼切丸を振り回す余裕はない。突きと薙ぎの切り替えで捌く。


 一体目。右から飛んできた影に鬼切丸を突き入れる。刃が核に触れた瞬間、黒い霧になって散った。手応えは軽い。二体目は左。横薙ぎ。影が真っ二つに裂けて霧になる。三体目が天井から落ちてくる。半歩下がって突き上げた。刃先が核を貫く感触。


「後方、封じた。挟撃はない」


 晴輝の封印術が背後の通路に薄い光の膜を張っていた。判断が速い。


「朱里、前方のルートは」


「直進二十メートルで分岐。左が本道です。右は行き止まり」


「凛、何か見えるか」


「探してます——数が多くて」


 四体目と五体目が同時に来た。鬼切丸を右に薙いで四体目を散らし、左手で蔵から霊喰いを引き出す。二刀。柄を握った瞬間に五体目の核を撃ち抜いた。黒い霧が顔にかかる。拭わない。


「右壁!」


 凛の声。短い。


 見た。右壁の岩盤に、他とは違う亀裂がある。影たちの核ではない。影たちが湧き出す元——供給源だ。


「あそこを壊せば止まります!」


 残りの影が六体。次々に壁から這い出してくる。切りがない。個別に潰しても無駄だ。


「供給源を潰す。道を開けろ」


「三秒稼ぎます」


 朱里の索敵粒子が壁面に集中し、光の壁を作った。影が一瞬たじろぐ。その隙に走った。六体目が横から飛びかかってきた。霊喰いの柄で弾き、二歩で亀裂の間合いに入る。鬼切丸を叩き込んだ。岩盤が割れ、中から黒い霧が噴き出して——消えた。


 残っていた影が、一斉に形を失う。黒い霧が天井に昇って、消えた。


 静寂が戻った。排水路の中に残っているのは、瘴気の残り香と四人の呼吸だけだ。


「処理完了。新たな反応はありません」


 朱里が報告した。索敵の光粒子が安定している。


 鬼切丸の刃についた黒い染みを袖で拭った。刃こぼれはない。下位相手なら当然だ。霊喰いを蔵に戻す。


「全員無事か」


「問題ありません」


「俺もない」


「はい」


「晴輝、封印は」


「解除した。後方も反応なし」


「凛。さっきの指示、正確だったな」


 壁の中にある発生源を指し当てた。地下で、能力の精度が落ちるはずの環境で。


「おかげで早く片がついた。十体以上を個別に潰してたら時間がかかる」


「いえ、あれは——」


 凛が額を押さえた。顔色が白い。朱里の光粒子に照らされた横顔に、汗が浮いている。


「見えすぎ、ました」


 声が掠れていた。


「精度が上がったんじゃなくて、情報が勝手に流れ込んできて……」


 過負荷だ。地下の禍古神の気配が凛の能力を増幅している。広範囲の構造情報が一気に流れ込んで、処理が追いつかない。地上なら起きなかった症状だ。


「少し待て」


 足を止めた。


「凛さん、脈拍が上がっています」


 朱里が索敵と並行して凛を観測していた。晴輝が周囲を警戒している。


「……戻るか?」


 晴輝が聞いた。


「いえ」


 凛が壁に手をついた。目を閉じる。呼吸を整えている。五秒。十秒。


「……絞れる、かもしれない」


 独り言のような声だった。凛は目を開けた。だが視線が変わっていた。さっきまでの凛は、壁も天井も床も——空間全体の構造を読もうとしていた。今は違う。足元を見ている。いや、俺を見ている。俺の動きだけを。


「左、来ます」


 反射で振り向いた。壁の隙間から新しい影が一体、這い出す途中だった。鬼切丸を振る。核を捉えた。散った。


 凛が読んだのは、俺の動きの延長線上にある脅威だけだ。広く読むのをやめて、必要なものだけ読む。情報を絞り込む。能力の使い方を、この場で切り替えた。


「……今ので二体目だ。出てくる前に見えてたろ」


 晴輝が低く言った。凛の新しい読み方の精度に対してだ。


「はい。神崎さんの動きの先を読むと、そこに敵が見えます。絞ったほうが、速い」


「使える」


「進めるか」


 凛に向けた。


「はい」


 凛の声に、さっきまでの震えはなかった。背筋が伸びている。目の焦点が定まっている。


 四人で再び歩き出した。通路はさらに下っている。


「この先、大きな空間があります。反応は——ひとつ、巨大なものだけ」


 朱里の索敵情報。空気の重さが一段と増していく。足音が反響する間隔が広がり始めた。前方の空間が、開けようとしている。


「全員、気を抜くな」


◇◇◇


 通路が途切れた。


「……広い」


 凛が足を止めて呟いた。


 一歩踏み出した足が、空間の広さを察知する。天井が急に高くなった。空気の流れが変わる。反響が遠くまで届いている。


「直径五十メートル以上あります。天井の高さは……読めません」


 朱里の報告。直径五十メートル。地下空洞だった。


 朱里の光粒子が空洞の入口付近だけを照らしている。その先は闇。天井は見えない。壁面は禍古神の気配で変質した岩盤が黒く鈍い光を放っている。空気が排水路とはまるで違う。湿った重さではない。圧縮された瘴気が空間を満たし、肺が拒否反応を起こすほどの濃度だった。足元の岩盤が、微かに脈打っている気がする。


 四人の足が止まった。


 朱里の索敵術の光粒子が、空洞の中に散って——途中で消えた。闇に呑まれるように。


「索敵が通りません。粒子が途中で消失します」


 朱里の声が、初めてわずかに硬くなった。


「晴輝」


「……ああ。分かってる」


 晴輝が印を結びかけて、やめた。探知術を使う前に、答えが出ていた。


「探知するまでもないな。これは」


 全員が、同じものを感じていた。空洞の中心に、何かがいる。


 五感が告げている。目には見えない。音も届かない。匂いすら消えた。だが空転体の全身が、そこに存在する質量を感じ取っている。巨大で、重く、そして——古い。排水路で感じた瘴気とは桁が違う。あれは漏れ出した残滓に過ぎなかった。本体は、ここにいる。


「……いる」


 凛が囁いた。


 視界の端で、凛の手が震えている。だが恐怖ではない。能力が反応しているのだ。今まで感じたことのない質感の構造——あの「ひび」が、凛の目に映っている。


「……見えます。弱点構造が、見えます。でもこれは——」


 凛が言いかけて、止まった。言葉にできないものを見ている顔だった。


 朱里が静かに一歩、後退している。晴輝の左手が、腰の符嚢に触れていた。


 影鬼。


 七年前に妹を奪ったものが、この闇の中にいる。


 鬼切丸の柄を握り直した。汗で滑る。握力を上げる。蔵の中の霊喰い、破魔の札五枚、鶴丸。全装備の位置を確認した。


 暗闇の中心で、何かが動いた。


 気がした、ではない。空気が揺れた。確かに。


 四人は息を止めた。

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