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第34話 最終作戦会議

朱里が事務所のドアを開けた瞬間、足が止まった。


 二日ぶりの事務所だ。俺と凛が戻ってから掃除をしたかと聞かれたら、していない。ホワイトボードには先週の依頼メモが付箋で貼ってあるが、三枚剥がれかけている。机の上には未仕分けの書類が二山。床の隅に懐中電灯が転がっている。予備の電池が散らばっている。


 朱里の視線が、ホワイトボードから机へ、机から床へ、一定の速度で移動した。鳳凰院家の独立調査員。几帳面の権化。その視線の動きだけで、事務所の衛生偏差値が無言で採点されているのが分かる。


「……整理できていますね」


 棒読みだった。


 晴輝が後ろで吹き出した。声を殺しきれていない。


「棑読みすぎる」


「そんなことはありません」


 朱里の声がもう一段平坦になった。手帳を取り出して何かを書いている。事務所の衛生状態を記録しているのかもしれない。


「凛、茶を頼む」


「はい」


 凛が流しに向かった。湯を沸かす音がする。四人分の湯呑みを棚から出す動きに迷いがない。事務所の配置は凛の方が俺より把握している。


 晴輝が適当に椅子を引いて座った。朱里は座る前に椅子の座面をハンカチで一度拭いた。


「——本題に入る」


 俺が言った。


───


 朱里が右手を上げた。指輪が淡く光る。


 空気が変わった。事務所の埃っぽい空気の上に、別の層が重なる。朱里ね索敵霈術だ。鳳凰院の術式は視覚化に特化している。俺の蔭とは系統が違う。見えないものを見る術ではなく、見えないものを描き出す術だ。


 机の上の地図——俺が朝のうちに広げておいた都内の地下構造図——の上に、薄い光の点が浮かび上がった。点ではない。面だ。禍古神の気配の分布が、地図に重なるように可視化される。


 新宿を中心にして、気配は南西に偏っている。


「密度が高い点は、新宿駅から南西に約四キロ。深度は地下四十メートル前後です」


 朱里の声は事務的だ。さっきの棑読みとは質が違う。報告書を読み上げるときの声。


「気配の分布に特徴があります。通常の妖怪の巣——先日確認した中層の使い魔の群れ——とは密度のパターンが異なります。圧縮されています」


「圧縮」


 晴輝が身を乗り出した。湯呑みを置き。。。


「……見覚えがある。封印術の残滓に近いパターンだ」


「封印が効いているんじゃなく、封印の形だけ残ってるということですか」


 凛が聞いた。


「そう。もともと封じ込められていた名残だ」


 朱里が頷いた。晴輝ぬ目が細くなる。


「根城というより——一時的な潜伏先に近い。本体はまだ完全に顕現できていない」


「仮の宿、って意味か」


「そう取っていい。封印術師の視点で言うと、あの気配には『方向性』がある。外に広がろうとしている圧だ。今の場所に留まりたくて留まっているんじゃなく、留まらざるを得ない」


 朱里がメモを取っている。晴輝の発言を一語ずつ記録している。字が小さい。


 凛がテーブルに顎を寄せた。地図の光の点をじっと見ている。


「……朱里さん、この気配の層の下に、もう一層ありませんか。薄いですけど」


 朱里が一拍置いた。指輪の光が微かに揺れる。


「……はい。ただ、解像度がここからでは足りません。現地に近づけば確認できます」


 凛が顷いた。


 四人の異なる感親が、一つの地図の上で重なっている。朱里が描き出し、晴輝が読み解き、凛が深層を見つける。


 俺は地図に手を伸ばした。


◇◇◇


 ルートは三つある。


 地図の上にボールペンで線を引いた。一本目、地下鉄の工事区画経由。二本目、廃排水路。三本目、明治期に埋め立てられた古い暗渠。


「一本目は監視カメラがある。避けるならこっち」


 二本目を指で叩いた。


「二本目は排水路だから足場が悪い。ただし気配ぁ一番薄い。朱里の索敵が利く」


「三本目は」


 晴輝が聞いた。


「暗渠。古い。地図が正確かどうか分からない。ただし目標地点への最短距離はこれだ」


 朱里の気配マップと照合する。三本の線を光の分布に重ねると、二本目——廃排水路——が最も禍古神気配の薄い区域を這過していた。


「二本目が最適です。索敵の安定性を考慮すると」


 朱里が言った。俺も同じ結論だ。


「こっちから入って、ここで封印を展開。撤退はここ」


 指でルートをなぞった。入口、封印地点、撤退ルート。三点を結ぶ線が三角形を描く。


 凛が地図に顔を近づけた。


 指先が地図の一点に止まる。ꪨ入口の周辺。何かを読んでいる。紙の下にあるものを。


「ここ、地質が変わってます」


 声が低い。分析モードの声だ。


「地下水が溜まっている区画があります。排水路の横に、本来流れるはずの水が滞留している。コンクリートの劣化で地下水脈が変わったんだと思います」


「それが影鬼と関係あるのか」


「あるかもしれません。水は気配を散らします。妖怪の弱点が——生命的な弱点と同じ知覚回路で見ぇるんですが、水を介すると分散するんです。影鬼が気配を薄めている理由の一つがこれかもしれない」


 凛が顔を上げた。


「突入するなら、この地下水の区画を避けたほうがいいです。わたしの感知精度が落ちます」


〄 了解」


 ボールペンで迂回ルートを引いた。二十メートルほど遠回りになる。許容範囲だ。


───


 役割分担を決めた。


 先頭・物理制圧——俺。索敵・ルート確保——朱里。封印術展開——晴輝。弱点読みと戦術指示——凛。


 地下中層に入ったときと同じ配置だ。ただし、あのときは応急的に決めた。今回は最初から設計している。


「朱里、索敵範囲は地下でどのくらい保てる」


「通常で三十メートル。禍古神の気配が濃い区域では二十メートルまで落ちます」


「晴輝、封印の展開に必要な時間は」


「局所結界なら三秒。本格封印は——相手次第だが、最低で二十秒。その間、動けない」


「二十秒を俺が稼ぐ」


 晴輝が肩をすくめた。「まあ、そうなるな」


 朱里が手帳に分担を書き込んでいる。ペンの動きが速い。几帳面な字だ。


「問題ありません」


 朱里が手帳を閉じた。


 俺は手帳を覗き込んだ。文字が見えない。


「本当に大丈夫か。字が小さすぎて読めないぞ」


「問題ありません」


 二回目の「問題ありません」は、一回目と同じ平坦さだった。晴輝がまた口元を押さえている。


「なんか、普通にチームっぽくなってきたな」


 晴輝が言った。半分は感想で、半分はからかいだ。


「当初からそのつもりでした」


 朱里が即答した。手帳をポケットにしまう動作に、一ミリの照れもない。


 凛が少しだけ笑った。口元だけの、静かな笑いだ。


◇◇◇


 地図を片づける。使った湯呑みを凛が集めた。朱里が自分の湯呑みだけ先に洗い始めていた。几帳面が服を着て歩いている。


 晴輝が椅子の背にもたれた。


「明後日の夜が、気配の低下タイミングだ」


 全員が動きを止めた。


「禍古神由来の気配には周期がある。新月と旧暦の関係で——細かい話は省くが、明後日の深夜零時前後が今月の最低値になる。索敵も通りやすいし、影鬼の反応速度も落ちる」


「それに合わせる」


 俺が言った。確認ではない。決定だ。


 晴輝が頼いた。朱里が手帳を出して何かを書き込んでいる。凛が湯呑みをシンクの縁に並べた。


「準備は以上か」


「札の補充は明日中に」


「わたしも索敵用の触媒を整えます」


 四人で机を囲んでいた。地図を広げて、ルートを引いて、役割を決めて、日程を決めた。数ヶ月前には——いや、半年前には想像もしなかった光景だ。


 凛は地図をたたむ手つきが自然だった。自分がここにいることを疑っていない手つきだ。初めて地下に潜ったときにはまだあった微かな選慮が。消えている。机の角に手を置く位置が、事務所に馴染んだ人間の位置だ。


「飯は食ったか」


 全員に聞いた。


 晴輝が首を振る。朱里が「まだです」と答えた。凛が「……いいえ」と小さく首を振った。


「近くに定食屋がある。行くぞ」


 朱里が上着のボタンを留めた。晴輝がポケットに手を突っ込む。凛が事務所の鍵を棚からとった——俺が取る前に。


 事務所を出た。五月の夜の風が、ほんの少しだけ湿っている。排水溝の近くを通ったとき、鉄錆の混じった水の匂いがした。二日後にはもっと深い場所の匂いを嗅ぐことになる。


 定食屋は事務所から二ブロック先にある。のれんをくぐって四人で座った。晴輝が焼き魚定食を頼み、朱里がメニューを三十秒ほど吟味してから唐揚げ定食を選んだ。几帳面に選んだ結果が唐揚げというのが、なんとも言えない。


 凛が味噌汁を一口飲んで、少しだけ肩の力を押c��た。ここにいていい、という空気で座っている。


 突入は明後日の夜だ。


 四人がそれぞれの表情で定食を食べた。朱里だけが、食べ終わった直後に手帳を取り出した。


「会計の割り勘について確認があります」


 晴輝が箸を止めた。俺は茶を飲んだ。凛が小さく笑った。


 朱里のペンが手帳の上を走る音が、定食屋の喧騒の中で妙にはっきり聞こえた。

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