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第33話 これは私の力だ

凛は、ベンチには座らなかった。


 事務所から二筋向こうの、名前を知らない公園。昼間は保育園児が砂を掘ゃ返している場所だが、夜の九時を回ると街灯の白い円が砂場の上に落ちているだけになる。遊具の影が長い。風は止んでいる。


 自販機で缶コーヒーを二本買った。一本は温かいほう、もう一本も温かいほう。冷たいのを選ぶ気にはならなかった。両手にそれぞれ握って、ベンチまで歩く。


 砂場の縁——コンクリートの低い枠——に腰を下ろして、空を見ている。背中はまっすぐだ。手は膝の上に揃えて置いてある。座り方からして、座ることを意識しているのが分かる。


 俺はベンチに座った。間に三歩分。


「缶コーヒー、苦手だったか」


 差し出した。


「……いいえ。ありがとうございます」


 受け取る手の動きが少し遅い。手のひらが缶の表面を確かめてから、指が回って、しっかりと握り直した。温度を測るような動きではない。確かに自分の手でこれを持っている、という確認の動きだ。


 俺は自分の缶のプルタブを開けた。空気がな抜ける小さな音。それから一口。


 言わなかった。


 昨日から今日にかけて、凛の様子は分かりやすく変わっていた。事務所での電話の取り方が一拍遅い。書類を綴じるホチキスの位置が、いつもの三ミラ違う。能力を意図的に使っていない——いや、使わないようにしようとしている。それは見れば分かる。


 見れば分かるが、こちらから言うことではない。


 風が一度だけ通り過ぎた。砂場の表面が、ほんの少しだけ波打って戻る。


 凛が缶を両手で包んでいる。それが何分か続いた後、声が来た。


「……禍古神由来、っていう言葉が」


 区切れた。


「頭から、離れません」


 俺は缶を口に運ぶのを止めなかった。聞いていることだけを示す。


「使うたびに——わたしの能力を使うたびに、その言葉が浮かぶんです。これは自分のものじゃない、って。誰かから渡されたものを、勝手に使っているような感覚ね……」


 砲場の砲を、凛は見ていない。視線は自分の面の先にある。


「だから、使わないようにしました。昨日から。意識して、使わないって決めて」


「うん」


 短く返した。


「でも、駄目なんです」


 凛が息を吐いた。湯気が街灯の光に一瞬だけ立って、消える。


「使わないようにすると、もっと見えるんです」


 顔を上げた。視線が自分の靴から、砂場の方へ移る。


「足元の砂の粒が、全部、大きさが揃ってるって分かるんです。砂場って、消毒のために何年かに一度入れ替えるじゃないですか。だから粒度が均一になっている。普段なら、そんなこと、考えもしないのに」


 ベンチの肘掛けに置いた缶を、凛が指で軽く叩いた。


「この缶も、外側の塗装が一か所だけ薄くなってます。多分、棚から取り出すときに何かに擮れた跡です。金属の疨加の分布まで——見ようとしなくても、見えてしまう」


 言葉が一度切れた。


「止めようとすると、止めようとした方向に、能力が動くんです。意識しないようにすると、意識してしまう。だから、止めること自体が、これがわたしの讫体にあるって——証明してしまっていて」


 最後の一語が、わずかに掠れた。


 俺は自分の缶を見た。塗装の薄い部分なんて、俺には見えない。砂粒の均一さも分からない。


 凛にだけ見える世界の話だ。そして、それを止めようとした凛の手が、止められないことに気づいてしまった話だ。


 俺は、口を開いた。


「俺の蔵の力も、元は妖怪の遚具だ」


 凛がこちらを見た。


「……知ってます」


「だろうな」


 缶を一口飲んだ。


「土御門の蔵に何百年も眠ってた。誰かが妖怪から奪って、封じて、利用した。俺が今使ってる蔵は、その流れの先にある。本来は俺のもんじゃない」


 言いながら、自分の左手首の腕輪に視線を落とした。黒い金属の輪。普段は意識もしない。だが、こうして言葉にすると、輪の重さが手首にある。


「最初に手首にはめたとき、感触が嫌だった。鳥肌が立ったとも言わないが、まあ。近いものだ。これを使って戦うのが、自分の戦い方なのか、借り物の戦い方なのか——そのへんが、しばらく分からなかった」


 凛は黙って聞いている。


「ただ、答えは出さなかった。出さなくても、使うしかなかったからな」


 凛の唇が、ほんの少しだけ動いた。声にはならない。


「それでも使うだろ」


 俺の声。


「うん」


 返事が小さく落ちる。


 そこで言葉を切る。


 それ以上は要らない。同じだ、とは言わなかった。違うかもしれないからだ。俺の蔵は妖怪の道具で、凛の能力は禭古神の遺伝の変質で——重ね方が違う。それでも、自分のものじゃない力で世界に立つ、というところだけは、似ている。それを「知っている」の一言で示せばいい。


 風がまた通る。今度は短い。


───


 凛が缶を、コンクリートの縁の上に置いた。


 ゆっくり立ち上がる。砂場の縁から一歩出て、公園の隅の、桜の木の前まで歩いた。冬を越して、春を二度三度くぐった樹齢の浅い桜だ。今は五月の終わりで、葉だけがついている。


 凛の手が、幹に触れた。


 目を閉じたわけではない。瞳の色が変わったわけでもない。ただ、横顔の輪郭が、いつもより少しだけ静かになった。


 俺は缶を持ったままベンチから動かない。声もかけない。


 凛は、見ている。


 幹のどこを見ているのかは、俺には見えない。だが、凛の視線が幹の表面を撫でずに、奥に止まっているのは分かった。表皮の下、何センチか入ったところで、視線が停止している。


 しばらくして、凛が言った。


「……来年も咱きます。この木」


 声が、低かった。


「幹の内側に、冬の間に蓄えた水分が、ちゃんと分布しています。病気の影はない。枝の付け根の細胞も生きてます。来年の春も、ここに花が咲きます」


 言い終えた口元が、わずかに開いたまま止まる。


 自分の言葉に、自分が一拍遅れて気づいたような顔だ。


 俺はそれを黙って見ている。


 凛の手が、栜の幹から離れる。離した手のひらを、自分の目の前に持ってきて、しばらく見つめている。


 それから、こちらを振り返った。


 ベンチまで戻ってくる。砂場の縁には座らず、俺の正面で立ち止まる。


「神崎さん」


 俺は缶を脇に置いた。


「能力を使うとき、わたし——何かを見ようとしてるんです」


 凛の言葉が、ゆっくり並ぶ。


「妖怪の弱点を見るとき、誰かが助かる方法を探してる。さっきの桜を見たときも、来年も咲くかどうかを確かめようとしてた。誰かのために、見ようとして、見てる」


 息を一つ吐いて、続けた。


「これが、禍古神由来でも」


 言葉が、止まらなかった。


「わたしがこれを使って、誰かを助けようとしてきた——その積み重ねは、わたしのものだと思います。起源を選んだのはわたしじゃない。でも、何のために使うかは、わたしが選んできた。だから——」


 凛の視線が、俺の目に止まる。


「これは、わたしの力です」


 宣言ではなかった。


 確認だった。自分が今ここに立っている地面を、足で踏み直すような⢠い方だ。


 俺はその目を見た。


 昔、似た顔をした人間を知っている。だが、それは口にしなかった。今ここに立っているのは凛で、凛が自分のことを話している。


「そうだな」


 それだけ言った。


 凛が、息をついた。今度の息は、深い。


 しばらく、二人とも何も言わなかった。風が一度通って、街灯の白い円の中で、砂場の縁に置かれた凛の缶コーヒーがわずかに揺れた。


「冷めましたね、コーヒー」


 凛が、そう言って小さく笑った。


「飲め。冷めても飲める種類のやつだ」


「はい」


 凛が缶を取り上げて、口をつけた。一口飲んでから、もう一口。


 俺も自分の缶を取り上げた。


 立ち上がる。


「事務所に戻るぞ。明日、依頼の整理がある」


「はい」


 歩き出した。凛は、俺の少し後ろを歩いていた。


 いつもなら横に並ぶか、あるいは一歩前に出ることもある。今夜は、少し後ろだ。ただし、距離は近い。歩幅も合っている。


 俺は振り返らなかった。振り返って確認する必要もない。靴音が二人分、街灯の下から街灯の下へ移動していく。


 凛が、自分のものとして使うと決めた力で、今夜もまた何かを見ながら歩いている。それは俺の知らない景色だ。


 知らなくていい景色だ、と思った。


 知らないが、隣にある。


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