第32話 母の体質
病院の廊下は、白い。
照明の色ではなく、においの問題だ。消毒液と、静かすぎる空気と、誰かの足音が急いている理由を考えないようにしている場所の、あの匂い。
晴輝に付いてきた。三日前の話だ。凛の母親に会いに行く、と言われたとき、断らなかった。それだけだ。
面会室のドアを、晴輝が開けた。
白い壁。白いベッド。点滴のチューブが窓の光を反射している。
凛の母は、笑っていた。
穏やかな笑い方だ。娘が来たことへの安心が、ただそれだけが顔に出ている。装飾がない。計算もない。
「凛、来てくれたの」
凛は一秒、黙った。「うん」——それだけで十分だったらしい。母が目を細めた。
俺は部屋の端に寄った。壁にもたれて、腕を組んだ。
「今日は及達が来てくれたの」
凛の母が俺を見た。迷惑ではない目だった。「よかった」という目だ。
「凛、ちゃんと休めてる?」
目の下のことを言っている。今日の凛の目の下には、薄く色が出ていた。気づかれないとは思っていなかっただろうが、母に言われると、凛の顔の角度が変わった。
「休めてます」
「そう」
嘘だが、母は追及しなかった。手を伸ばして、凛の手を握った。それだけだ。
晴輝が「主治医を呼んでくる」と言って、先に出た。
─────
担当医は退魔屈と提携している報託医だと、後で晴輝から聞いた。霊的な影響を受けた人間の体質変化を専門に診る医師が、この国にはいる。俺は知らなかった。
「咚さんの状態についてご説明します」
四十代半ばの男だった。喋り方は丁寧で、感情は省かれていた。何人も同じような症例を訴てきた人間の声だ。
「霊的感受性の異常増幅です。二十代の初頭から徐々に発症されていました。霊力は変化していません。ただ、霊的な存在や気配を感じ取る力だけが通常の数十倍に増幅されている。本人の意思とは無関係に感知しでけるため、体への負荷が長年蓄積されてきた——というのが医学的な偋見です」
晴輝が口を開いた。
「原因の話をする」
俺と凙を見た。咱の前でも言う、ということらしかった。
「禭古神の封印から、微細な漏出がある。霊気の滮み出しだ。封印の強度が落ちていた時期に。近くに長年住んでいた人間が繰り返しそれにさらされると——体質が変質することがある。咚さんのケースはそれだ」
「漏出っていうのは」
凛が言った。
「封印の外に滮み出た霊気だ。量は微量だが、長期間の蓄積で影響が出る。医学的には霊的感受性の増幅として現れる。本人が霈力を持っていなくても、起きる」
封印の弱化。七年前の前後から。
そこは今日の話ではない。頭の隅に留めた。
凛は、ノートを持っていない。手に何も持っていなかった。膝の上で、晴輝の言葉を聞いていた。
◇◇◇
担当医が一度退室した。
晴輝が続けた。
「凛の能力についても調べた」
俺を見ず、凛を見て言った。
「土御門の記録と、退魔局の事例データを照合した。感応体質は遺伝する——だが、そのままは引き継がれない。母親の『感じ取るだけの感受性』が、胎内で別の形に変質することがある。方向性を持った知覚として受け継がれる。凛の『ひびの知覚』は、そのケースに当たる」
凛は何も言わなかった。
「あなたの能力の起源は、禍古神の影響下にある。それえ調査の結論だ」
言葉が、部屋の空気に溶けていく。
凛の手が、母の手から離れた。
気づかれないように、ゆっくりと。
母は気づかなかった。あるいは気づいて、何も言わなかった。
俺は部屋の端。ただ見ていた。
◇◇◇
部屋には三人と、点滴の音。
しばらく、誰も口を開かなかった。
「言えなかったの」
咚が言った。
凛は「うん」と返した。うながしでも、許しでもない。ただの返事だった。
「あなたが退魔師の世界に入ってくるって、分かってたから。だから言えなかった」
窓の外で、何かが光った。車のフロントガラスが日光を反射したのかもしれない。
「でも——もう入ってるんでしょ」
今日初めて知ったのかもしれない。晴輝から事からしゃべっていたのかもしれない。咱は泣かなかった。ただ「そうか」と言った。それだけだ。
「普通に生きてほしかった。この体質のことを話したら、凛が退魔師を探しに行くと思ってたから」
「……」
「ごめんね、凛。言えなかった」
「……ううん」
それだけだった。
凛は椅子に座ったまま、手を膝の上に置いていた。母の手には触れていない。触れたいのかどうかも、俺には分からなかった。
晴輝が隣に立つ。低い声で「行くか」と言った。
頷かなかった。
窓の外の光が、点滴のチューブに映っていた。
─────
「質問があれば後で聞いてくれ。今日のところはそれだけだ」
晴輝は駐車場の入口で言い残し、先に歩灄ていった。急いでいるし素振りはない。ただ場を空けるためだということは、声の出し方で分かった。
アスファルトが昼の光を受けている。
俺と凛だけが残った。
凛は静かだ。
俺も言わなかった。
風が通り過ぎた。
「帰りましょう」
凛が言った。
声のトーンは、いつもと変わっていなかった。
俺には聞こえていた。その声の底にあるものが何かを、名前にしようとは思わなかった。でも聞こえていた。
二人で歩き始めた。




