第31話 依代の疑惑
事務所に、朝が来ていた。
煙草を一本、指の間で転がした。火はつけていない。
神薙宗次郎の声が、まだ耳の内側に残っている。
——深追いするな。
三回。同じ言葉で、三回繰り返した。一度目と三度目はほぼ同じ言い方だった。変わったのは、一度だけ。「次根に関係しているのか」と俺が聞いたとき、間の前にわずかな息が混じった。
一瞬の間があった。
短い。短かったはずだが、そこだけ、別の時間が流れた気がする。
煙草を置いた。窓の外が白い。五月の朝だ。鳥の声が一度だけして、止んだ。
昨夜は帰ってきてすぐ横になった。眠れたかどうかは分からない。ただ、朝には起きている。
それだけでいい。
テーブルの上に、昨日の退魔局から持ち帰った地下の構造図がある。宗次郎が来る前まで広げていた。今は畳んだままだ。見る気にならない、というわけじゃない。ただ、今朝はまず別のことを整理する必要がある。
─────
扉を叩く音がしたのは、それから三十分後だった。
「いるだろ、開いてんぞ」
返事を待たずに声が来た。聞が慣れた声だ。
扉が開く。土御門晴輝がコートを片手に持ったまま入ってきた。
「よう」
「……何の用だかな」
「用があるから来た。それ以外に理由があるか」
晴輝は部屋を一度見回してから、俺に目を戻した。
「顔色が悪いな」
「いつもと変わらない」
「火もついてない煙草を転がしてるのがいつもの姿か」
テーブルの上の煙草を見た。細かいことに気づく男だ。昨からそうだった。
「座れ」
「言われなくても」
晴輝は椅子を引いた。斜めに構える。いつものやり方だ。
凛が奥の棚のところから出てきた。いつの間にか来ていた。昨日の今日で早い。
「晴輝さん、おはようございます」
「おはよう、凛ちゃん。……お茶もらえると嬉しい」
「コーヒーならありますけど」
「それで」
短いやり取りが流れた。晴輝が来ると、事務所の空気が一段落ち着く。意識してやっている節はあるが、悪くはない。
晴輝が俺に向き直った。
「神薙の旦那、お前に何か言ったな」
開口一番だった。
照草を手に取った。まだ火はつけない。
「どこで聞いた」
「お前が退魔局の近くにいたのは把握してた。宗次郎さんが動いたのも、後から流れてきた」
情報が早い。
「止まれって言われた」
「理由は」
「言わなかった」
答えた。煙草を指に挟む。
「封印強化を止めようとしてる理由、聞いたか?」
「聞いた。答えは返ってこなかった」
晴輝が少し黙った。
凛がコーヒーを持ってきた。三つ。自分の分も持ってきている。椅子を引いて、ノートを膝に乗せた。記録するつもりだ。三人の打ち合わせになると分かっているらしい。
晴輝がカップを受け取った。
「一つ、聞いていいか」
「言え」
「神薙の内部記録、って知ってるか」
俺は答えなかった。
晴輝がコーヒーを一口飲んだ。
「御三家はそれぞれ、あの封印に関する独自の調査記録を持ってる。共有されてない分だ。土御門の先代は土御門分しか見れなかったが——神薙のやつは、別格らしいって話は聞いてた」
「別格って」
「量が多い。古い。それと、宗次郎さんが個人管理してる部分がある、って」
凛がペンを止めた。
「非公開の記録って、具体的に何が入ってるんですか」
晴輝が凛を見た。
「それが分からないから非公開なんだよ、凛ちゃん」
凛が「……そうですよね」と言って、また書き始めた。
窓の外に目を向けた。
神薙家の調査記録。宗次郎が管理している。そして宗次郎は封印強化を止めようとしている。
繋がっているはずだ。何が繋がっているかが、まだ分からない。
宗次郎の顔が一度だけ浮かんだ。七年ぶりに見た。緩せていた。それ以外は変わっていなかった。あの人は変わらない。良くも悪くも。
◇◇◇
「依代の話、知ってるか」
晴輝が聞いた。
「概要だけだ」
「どこまで聞いてる」
「人間を封印の維持に使う儀式。使われた人間は戻らない」
「そこまでは合ってる。補足すると——禍古神の封印は、それ単独では長くは保たない。定期的に霊力を補充する必要がある。依代はその補充源だ。儀式を行うことで、弱化のペースを遅らせる」
凛が手を止めた。
「……使われた人間って、霊力ごと取り込まれるんですか」
「霊力だけじゃない。魂ごとだ。土御門の先代は、そう言っていた」
凛が静かに書いている。
「御三家は、それを知った上で七年前の箱根で実施したんですか」
「知っていたかどうか——そこが問題だ」
晴輝の声のトーンが変わった。説明調から、別の何かに。
「正確には、危院性を認識していた可能性がある、って話だ。緊急銶況だったのは本当だと思う。封印の弱化が急速で、余裕がない状況だ。だが——」
「だが」
「判断が歪んでいた可能性がある、って先代は言ってた。緊急だから仕方ない、じゃなくて、緊急だから考えることをやめた、っていう方向の歪み方だ」
俺は何も言わなかった。
「緊急状況って言葉、便利だよな」
どこかも出たか分からない言葉だ。
「何でも許せる気がしてくる」
晴輝も凛も、何も言わない。
晴輝がコーヒーカップを両手で持ち直した。凛がペンを止めた。事務所の中で、三人分の息だけが静かに動いている。
窓の外で風が木を揺らす音だけが、薄く入ってきた。
◇◇◇
「神薙家が、依代の危険性を把握していたとしたら」
俺は言った。
「小春が選ばれた経緯に、神薙家の判断が絡んでいた可能性がある」
「確定じゃない」
晴輝がすぐ返した。
「分かってる」
「疑惑の段階だ。宗次郎さんが記録を管理してるのは事実だが、中身は分からない。神薙の内部情報にアクセスする手段が、俺には今のところない」
「今のところ」
「うん。今のところだ」
晴輝は目だけで少し笑った。約束ではない。でも、可能性を閉じてもいない、という答えだった。
煙草をテーブルに置いた。
「神薙家が知っていたなら」
もう一度、口に出した。
「俺の親父も、知っていたことになる」
確認するつもりで言った。愲鳴ることでも、嘆くことでもない。声の高さは変えない。ただ、確かめる。
窓の外に視線が向いた。五月の空が高い。光は白くて、べつに何も映っていない。
凛が一度、手を止めた。
「それって——」
「今は無理だ」
俺は凛を見た。
「記録にアクセスする前に、やることがある。影鬼の本体の位置を確定させる。そっちが先だ」
「……それ、順番としておかしくないですか」
凛が言い直した。
「親父さんが知っていた可能性があって、それを後回しにするって——」
「後でいい」
遮った。
凛が一度、黙った。
事務所が静かになる。晴輝がコーヒーカップを両手で持った。
「……分かりました」
凛の声がした。
「でも、後で必ず」
返事はしなかった。
晴輝が口を開いた。
「まあ、優先順位の問題だな。影鬼を先に片付けないと、記録を取りに行く時間が無くなる。順番の理屈は通ってる」
「……はい」
凛が言った。納得はしていない声だ。
三人とも、それ以上は言わなかった。
五月の朝の光が、事務所の窓を斜めに切っている。コーヒーの湯気が、ゆっくりと消えていくのを見た。
俺が言った言葉は確認だ。愲鳴っていない。「知っていたことになる」——仮定だ。まだ疑惑の段階。事実じゃない。
それは分かっている。
だが、あの間は本物だった。「箱根に関係しているのか」と聞いた瞮間の。父の喉の動き。ほんの一拍、答えを探す間があった。ああいう間は、何も知らない人間には出せない。
後ろで凛が、ノートに何かを書いていた。
何を書いているかは知らない。ただ、ペンの音が止まらないのは分かる。凛のやつ、止める㬔はないらしい。




