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第30話 父の警告

「……ごめんなさい」


 凛がまた言った。


 さっきも聞いた言葉だ。


「さっきも言った」


 俺は前を見たまま答えた。夕方の光が、ビルの間で薄く伸びている。退魔局東京支部から少し離れた路上。人通りは少ない。


「それでも」


 凛の足音が、半歩遅れてついてくる。


「次に来る。それだけだ」


 俺は足を緩めなかった。


 凛が小さく「……はい」と返した。三歩分の沈黙が落ちる。


「禍古神に近づくほど、わたしの能力が強まるって——朱里さんが言ってました」


 凛の声が、後ろから上がった。


「ああ」


「……それは、いいことなんでしょうか」


 答えを探した。少しの間が空く。


「分からない」


 短く返した。本当に分からない。


 凛が黙る。靴音だけが続く。


 五月の夕方は、思ったよりも早く暗くなる。空の上の方が、もう紺色に寄っている。


 角を一つ曲がった。


 凛の足音が止まった。


 俺の足も止まる。


◇◇◇


 前方二十メートル。


 誰かが立っていた。


 長身。背筋が伸びている。年齢の割に肩が落ちていない。立ち止まり方が、現役の動きだった。


 黒の羽織。腰に帯刀型の霈具。普段は抜かない種類のものだ。鞘の意匠に見覚えがあった。


 視線がこちらを向いている。


 一度も逷れない。


 俺の喉の奥が、勝手に冷えた。


 凛が隣で、息を呑む音だけを立てた。


「——深追いするな」


 声が届いた。


 大きくない。低い。それなのに、距離を無視して耳に入ってきた。


 七年ぶりに聞いた声だった。神薙の当主——俺の父親だ。


 俺は一歩進んだ。二歩。それから普通の速度で詰めていった。


 五メートルで止まる。


 顔がはっきり見えた。記憶よりも痩せている。それ以外は変わっていない。


「——誰から聞いた」


 確認のつもりで聞いた。悲鳴り声にはならなかった。


「関係ない」


 間が空かなかった。


 今日、地下に入ったことを知っている。それでここに来た。


 父は俺を見ていた。視線が、最初から一度も外れていない。


「彡鬼のことは神薙が処理する」


 同じ声の高さで言った。


「断る」


 俺も間を置かなかった。


 父の喉が、わずかに動いた気がした。コンマ二秒、唇が止まる。


「……お前には関係ない」


 俺は引かなかった。「関係ある。七年間追いかけた」


「神薙の案件だ」


「断る」


 父は答えなかった。


 沈黙が落ちる。風が一度だけ通った。羽織の裾が浅く揺れた。


 俺は息を一度整えた。


「小春のことを知っているのか」


 名前を出した。


 父の視線は動かなかった。


 答えはなかった。


 右手が、勝手に握られた。霊具を出す前のクセだ。気がついて、開いた。


 言葉が一つ、喉の奥まで上がってきた。


 ——七年前、俺がいたら。


 出かけて、止めた。


 飲み込む。


 代わりに別のことを聞いた。


「あんたが関係しているのか。箱根に」


 父の唇が止まった。


 コンマ二秒。


 短い。短いはずだった。


 でも、さっきまでは無かった間だ。


「……神薙の案件だ」


 同じ台詞。


 ただし今度だけ、頭にわずかな息が混じっていた。


 俺は気づく。


 父も、自分の間に気づいた顔をしなかった。


 それが体計に分かりやすかった。


「……知ってるのか」


 低く聞いた。


「関係ない」


 三度目。


 ほんの少しだけ、語尾が遅れた。


 俺の父の目を見た。


 父も俺の目を見ている。


 どちらも動かない。


 凛の呼吸が、後ろで一度浅くなった。それも止んだ。


◇◇◇


 父の足が、半歩引いた。


 後退ではない。向きを変える動作だった。


 去る気だ。


「止まれ」


 俺は言った。


 父は止まった。


 振り返らない。


「——深追いするな」


 低く、それだけ言った。


 父が動いた。


 黑い羽織が、夜の入り口に滑に出していく。歩幅は乱れていない。背中に何の感情もない。


 振り返らなかった。


 角を一つ曨がる。羽織の裾の先が消える。


 街灯が一つ、遅れて点いた。


 俺は息を吐いた。気づかれないように、小さく。


 凛が、まだ動かなかった。


 十秒ほどあった気がする。もっとگかったかもしれない。


「え父さん——ですよぽ」


 凛が静かに言った。


「……ああ」


 修�は答えた。


「何かを知ってます。あの人」


 俺は答えなかった。


「箱根に関係してるかどうかって聞いたとき——少し間がありました」


 凛の声が続いた。


「神崎さん、気づいてましたよね」


 俺は一秒だけ、凛を見た。


 凛は俺を見ていない。父が消えた角の方に目がいっていた。


「……止めようとしてる理由が分からないと、次の一手が打てません」


 凛が言い切った。


 今日、地下に入ったことを知っていた。それでここに来た。

 彡鬼のことは神薙が処理する。関係ない。それ以上は言わなかった。

 箱根ついう言葉に、間があった。繋がっている。


 ——止める理由がある。封印を阻止しようとしている。なぜかは、まだ分からない。


 そこまで言葉にして、俺は前を向いた。


 歩灋始める。


「分かってる」


 凛が少し遅れてついてきた。


「……怒ってますか」


 後ろから聞こえた。


「どう思う」


 答えの代わりに返した。


「……怒ってますね」


「当然だ」


 短く言った。


 声の高さは、さっきと変えなかった。変えるつもりもない。


 五月の夜が、街灯と街灯の間に薄く溜まっている。


 凛の足音が、半歩遅れて、ちゃんと続いていた。


 角を曲がる。父が消えた方向ではなく、事務所の方向に。


 俺は一度だけ、振り返らなかった自分を確認した。


 それで充分だった。


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