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第29話 過負荷

焦げた金属の匂いがする。泥を混せたような重さで、肺の奥に張りつく。最初に来た浅部で嗅いだ腐った水草の匂いとは違う。質が違う。深さの違いだ。


 地下中層の入口。天井が高い。五メートル近くある。通路は広く、岩盤がむき出しのまま左右に逃げている。非常灯の類は最初からない。晴輝の手元で淡い光球が浮いている。封印用の式神を一体、照明代わりにしてある。


 鬼切丸を左手で確認した。隴丸は右腰。霊喰いの鎖を背中に巻いている。重りの感触が肩甲骨のあいだに触れる。破魔の札は内ポケットに六枚。準備は終わっている。


 凛が後ろにいる。ノートはない。両手が空いている。地上の癖が抜けている。


「……見えます。今のところ問題ないです」


 声が低い。地下用の声だ。


 朱里が右手を浅く上げた。指輪が薄く光る。索敵霊術の展開だ。空気が一拍だけ密度を変える。


「使い魔が複数います。前方と右側面、計五体以上」


「封印の気配を確認」晴輝が顎を引いた。「根城の方向はこの先で間違いない」


 四人。配置は決まっている。先頭が俺、半歩下がって凛、その後ろに朱里、最後尾が晴輝。退路の確保は晴輝の仕事だ。


 歩き出した。


「神崎さん——前方右、一体、首の付け根が核みたいです」


「確認した。進むぞ」


 最初の一体が岩陰から出てきた。タコ趺型。八本の触手が岩盤を撫でるように移動する。先端が太い。各触手の先に核がある——のではなく、どれか一本の先端だけが核だ。残り七本は囮で、しかも再生する。浅部では出てこなかった型。


「左から二番目の触手の先端——そこが核です。残り四本は再生します」


 凛の声が落ち着いている。五体のうち最初の一体だ。


 跳んだ。


 鬼切丸を振った。狙ったのは左から二番目。先端の一節だけを断ち落とす。重心が逃げる。逃がさない。返す刀でもう一度。先端の核が砕ける。残った七本がぐにィりと崩れた。再生は始まらない。一体祓い済み。


 朱里が手を上げた。「晴輝さん——その一体、押さえて」


 晴輝が手のひらを返す。局所結界が展開した。タコ趺型の一体が動けなくなる。


「押さえてる方——右前の触手、三本目が核です」凛。


 朱里の札が飛んだ。結界の中の核を正確に焼く。崩れる。二体目。鳳凰院の札は速い。火が走る角度が無駄なく真っ直ぐだ。


 三体目と四体目は俺がやった。


 残り二体が奥へ後退した。本体の気配に引っ張られるように動く。逃げているのとは違う。呼ばれている。


「追うか」


 顎で奥を示した。晴輝が一拍置いた。


「……奥は禍古神の気配が濃い」


 凛が黙っている。何かを感じている。だが言葉にはなっていない。視線が落ちて、また上がる。


「行くぞ」


 短く切った。先頭で歩き出す。


◇◇◇


 奥へ五十メートル進んだあたりで空気の質が変わった。焦げた金属の匂いがさらに重くなる。岩盤の温度が下がる。鬼切丸の柄を握っている手のひらに、わずかに汗が滲んだ。霊力の濃さとは別の、もっと物理的な圧だ。


「索敵範囲が落ちています。禍古神の気配が干渉しています——三十メートルから二十メールへ」


 朱里の声。指輪の光が弱い。


 俺は一度だけ凛を見た。確認の動作だ。視線がぶつかる前に、凛が口を開いた。


「大丈夫です」


 言い切った。先回りで言い切った。前を向く。


 別の中級妖怪が三体、岩陰から出てきた。さっきと同じタコ趺型だが、サイズがひと回り大きい。


「——右端の一体、核は……」


 凛の声に一拍の間が入った。


「……右側面、腕の付け根、あたり」


「あたり?」


 歩を止めずに聞いた。確認のためだ。


「……はい、あたり」


 言い切れていない。凛の言葉に「あたり」という不確定の語が混ざるのを、俺は初めて聞いた。これまで一度もなかった。「核です」と切る。それが凛だった。——朱里の索敵は範囲が落ちた。凛は逆だ。全部が見えすぎて、絞れなくなっている。


 鬼切丸を振った。とりあえず凛が示した位置に当てる。当たった。核だった。崩れる。


 二体目は晴輝が抱え込んだ。結界で拘束する。


「凛、核」


「——左、上から二本目……いえ、三本目」


 修正が入った。修正自体は今までもあった。だが今のは違う。「分からないから言い直した」声だ。


「三本目で行く」


 断ち切る。崩れる。だが核が外れていた。崩れたのは外殻だけだ。残骸が再生し始める。


「もう一度」凛。「——下から、二本目」


 断ち切る。今度は当たった。崩れる。


 三体目は朱里と晴輝で処理した。俺は動かない。凛の横に立った。


 奥へさらに進む。空気が一段濃くなった。耳の奥で何かが鳴っている。気配の重みが鼓膜を内側から押している。


 凛が立ち止まった。


 振り返った。


「——神崎さん、」


 そこで止まった。続きが出てこない。


「あの——前の、一体、核が……」


 凛の呼吸が浅い。視線がうろついている。岩盤の割れ目、通路の天井、自分の手の甲。焦点が定まらない。


「見えすぎて……」


 声が細い。今まで聞いたことのない声だ。


「どこを言えばいいか、分からない……」


 三歩で凛の横に立った。


「見えすぎる——全部見えるのか」


 低く言った。確認だ。


 凛が頷いた。目は合わない。岩盤の割れ目を見ている。そこにも、ひびが見えているのだろう。


「分かった」


 責めていない。聞いていない。確認しただけだ。次の動作に移る。


◇◇◇


 凛の右の手首をつかんだ。引いた。退路の方向だ。歩き出す。


「撤退する」


 晴輝と朱里に向けて言った。前は向いたままだ。


「——ここまで来て」晴輝の声。低い。


「今日は終わりだ」


「……分かった」


 即座に切り替わった。晴輝は議論しない。判断したのが俺なら従う。古い習慣だ。朱里の指輪の光が向きを変えた。索敵が後退方向に切り替わる。後ろから来るものを警戒する配置だ。


 通路を戻る。


 使い魔が一体、岩陰から滲み出した。タコ趺型の小型。再生途中の残骸だ。


 左手で凛の手首を握ったまま、右手で霊喰いの鎖を投げた。重りが触手の根元に巻きつく。引く。核ごと引き剥がす。崩れた。


 凛は俺に引かれながら歩いている。自分の足で歩けている。ただ感知はもう使えていない。


「……すみません」


 歩きながら、小さく言った。


「謝るな」


 短く切った。一度も後ろを向かない。前だけ見て歩く。


「でも——」


「次に来るための撤退だ」


 それで終わらせた。


◇◇◇


 出口付近まで戻ったところで足を止めた。使い魔は追ってこない。本体の気配からの距離が離れて、引力が弱まったらしい。


 凛が岩盤に背中を預けて、ゆっくりとしゃがみ込んだ。膝が震えている。座ってから止まった。


「落ち着いてきたか」


「……少しずつ」


 声が戻ってきている。完全ではないが、声の芯が戻った。


「怪我は」晴輝が全員に聞いた。


「なし」


「なし」


「……なし」


 凛の声も出た。


 朱里が凛を見ている。じっと、直視している。二秒以上。観察というより、何かを確かめる目だ。表情は変わっていない。


「——禍古神の気配に反応した?」


 朱里の声。


 凛が顔を上げた。朱里を見る。


 俺は朱里を一度見た。何を聞くつもりだ、という視線だ。朱里はそれを受けて、視線をそらさなかった。


「……見えすぎました」


 凛が答えた。


「全部がひびに見えて、どれを言えばいいか分からなくなった」


 その声を、朱里は黙って聞いた。聞き終えてから口を開いた。


「禍古神の気配に共鳴した——ということですか」


「……分かりません」


 凛が下を向いた。誠実な答えだ。分からないものを分からないと言える。地上の凛なら必ずそうした。地下の凛も同じだ。


 朱里の視線が俺に向いた。


「この能力——禍古神に近づくほど強まる可能性がある」


 答えなかった。


 凛が顔を上げる。


「……でも、地上では問題ありませんでした。浅部でも」


「中層から先が境界線かもしれません」


 朱里の声は冷たくない。事実を一つずつ並べている声だ。


 俺は鬼切丸を背負い直した。霊喰いの鎖を巻き直す。札を確認する。五枚。一枚使った。


「今日は情報として持って帰る」


 言って、晴輝を見た。


「また来る」


 晴輝が頷いた。


「ああ」


 凛が、しゃがんだまま、少しだけ笑った。失敗を笑っているわけではない。「また来る」という言葉に反応しただけだ。


 出口の方向で光が薄く見えた。五月の昼を抜けた、午後の光だ。


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