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第40話 その先の空虚と、次の光

【新宿地下】なんか昨夜すごい気配しなかった?【体感した人いる?】


1 名無しの退魔ウォッチャー

昨夜0時〜2時ごろ、新宿南口から離れた地下で気配が二段階変わった気がする

霊感ある人いる?


2 名無しの退魔ウォッチャー

>>1

気配というか息苦しさがあった

窓閉めても変わらなかった


3 名無しの退魔ウォッチャー

霊感ない系だけど犬が外向いてずっと吠えてた

結局朝まで寝れなかったわ


4 名無しの退魔ウォッチャー

御三家系列? 公式コメントは出てない

各自注意したほうがいい


5 名無しの退魔ウォッチャー

>>4

怖いこと書かないで!

また地震でしょ


◇◇◇


 煙草を一本、箱から抜いた。


 火はつけない。指の間で転がして、天井を見る。事務所のソファに横になったまま、もう二時間。昼の光がブラインドの隙間から筋になって床に落ちている。


 影鬼を封じた。


 七年間追い続けた影が、地下の光の格子に囚われている。鬼切丸で核を砕き、晴輝の封印術と朱里の結界で顕現を凍結した。仮封印。完全封印には退魔局の正式な術式が要る。だが——仮であれ、あれは終わった。


 小春の名前を使ったことへの答え。七年分の刃を叩き込んだ。静かだった。叫ぶ必要はなかった。


 ——なのに、何も残っていない。


 右腕の痺れは薄れてきた。空転体の全出力を片腕に集中させた反動。昨夜よりは動く。だがそれだけだ。痺れの奥に空虚がある。復讐を果たした人間の内側に何が残るのか——答えは、天井の染みと煙草の匂いだった。


 晴輝の言葉がまだ耳に残っている。


 封印強化に使う術式は、依代の魂にも影響する——小春さんの。


 そこで止まった。俺の顔を見て止めた。


 あの先に何がある。小春の魂が影鬼と共に封じられているのか。封印強化は小春を消すのか。それとも——。


 煙草を唇に咥えた。火はつけない。天井の染みを数える。三つ。いや、四つ目がある。


 ドアが開いた。


「おはようございます」


 凛の声だった。靴音が近づいて、デスクの椅子が引かれる音。鞄を置く音。パソコンを開く音。


 ——何も聞かない。


 そのまま資料を開き始めた。キーボードを叩く音が、静かな事務所に一定のリズムを刻んでいく。


 五分。十分。


 ブラインドから差す光の角度が変わった。煙草を指から灰皿に移す。火をつけなかった煙草が、白いまま灰皿に横たわっている。


「……空虚ですか」


 凛の声だった。パソコンの画面を見たまま言った。


「そんな言葉知ってたのか」


「知ってます」


 キーボードの音が止まった。凛がこちらを見ている気配がする。見返さない。天井の染みは四つで確定だ。


 沈黙が戻る。凛がキーボードを叩き始める。


 ドアが開いた。今度は二人分の足音。


「飯食ったか」


 晴輝だった。ジャケットを脱ぎながら入ってくる。


「まだです」


 朱里が後ろから答えた。俺の代わりに。正確だった。


「お前に聞いたんじゃないけど」


「私も食べていませんが」


「……朱里さん、俺も食べてないです」


 凛が手を挙げた。晴輝が天井を仰ぐ。


「全員食ってないのか。昼過ぎだぞ」


「コンビニ行ってきます」


 朱里が踵を返しかけた。晴輝が財布を投げる。


「四人分頼む。弁当でいい」


「了解しました」


 朱里が出ていった。晴輝がデスクの角に腰を下ろし、事務所を見回す。俺がソファに横になっている。凛がパソコンに向かっている。どちらも普通だった。


「——迅」


 晴輝の声が変わった。


 ソファから体を起こす。天井を見るのにも飽きている。


「昨夜の続きがある」


「知ってる。小春の件だろ」


「それもある。だが今日話すのは別の件だ」


 晴輝がジャケットの内ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。退魔局の書式だ。


「禍古神の完全封印。仮封印の先に必要なプロセスがある。退魔局の正式術式だけじゃない」


「何が要る」


「禍古神の気配を直接読める人間だ」


 凛のキーボードが止まった。


「影鬼は禍古神の眷属——先兵だ。仮封印で影鬼の活動は停止した。だが禍古神本体の封印は別の層にある。完全封印を施すには、禍古神の気配の流れを読んで、封印の接合点を特定する必要がある」


 晴輝が凛を見た。


「凛の『ひびの知覚』が、その条件を満たす唯一の能力だ」


 事務所が静かになった。ブラインドの光が凛の横顔を照らしている。


「……分かりました」


 凛の声は揺れていなかった。パソコンの画面を閉じて、晴輝を真っ直ぐ見た。


「わたしの能力が必要なら、使います」


 ——迷いがない。


 あの地下で影鬼の核の位置を読んだとき、凛は一度も声を震わせなかった。左前方、高さ三メートル——的確な指示。あれが答えだったんだろう。自分の能力を引き受ける覚悟は、もう済んでいる。


「ありがとう。詳細はまた詰める。まだ退魔局との調整が残ってる」


「うん」


 晴輝が頷いた。俺は立ち上がった。右腕を回す。痺れがまだ残っている。


「最近、感応体質の患者が増えてるって話を退魔局の報告で見た」


 朱里が戻ってきた。コンビニの袋を四つ抱えている。


「封印弱体化の影響で、霊的に敏感な体質の人間が増加傾向にあるそうです。鳳凰院の蓮華さまから資料が回ってきました」


 弁当を配りながら、朱里が淡々と報告した。封印が弱まれば、感応体質が増える。当然の帰結だ。


「蓮華から?」


「はい。分派の件で鳳凰院内部にも動きがあったようです。蓮華さまは現在、情報整理の段階だと」


 朱里の声に感情は混じっていない。だが鳳凰院の名前を出すとき、箸を持つ指がわずかに力んだ。昨夜の分派の件。あれを抱えたまま、今日もここにいる。


「食え。冷める」


 晴輝が弁当を開けた。四人が事務所の狭いスペースに散らばって弁当を食べる。凛がデスクで。朱里が窓際で。晴輝がデスクの角で。俺がソファの端で。


 別に示し合わせたわけじゃない。ここに集まる理由を説明できる人間は誰もいない。


 ——いや、違う。理由ならある。


 影鬼を封じた。次がある。禍古神の完全封印。凛の能力。退魔局との調整。鳳凰院の内部事情。晴輝が切りかけた小春の件。


 やることは山積みだった。空虚に浸っている暇は、最初からなかったのかもしれない。


 弁当の白飯を口に運んだ。味がした。昨夜からの最初の食事だった。


◇◇◇


 夕方。事務所の前の路地に出た。


 五月の空気がまだ冷たい。日が傾いて、ビルの影が路地を覆い始めている。


 隣に凛がいた。事務所の中では晴輝と朱里がまだ資料を広げている。退魔局への報告書。仮封印の経緯を正式に記録する書類。面倒な仕事だ。


「終わったと思ったのに、続くもんだな」


 路地の向こうを見ながら言った。


「続くから面白いんじゃないですか」


 凛が答えた。即答だ。


 少し間があった。


「……面白いとは違うかもしれません」


 凛が自分の言葉を訂正した。視線を落として、路地の地面を見ている。


「面白いっていうのは、たぶん正確じゃないです。でも——続くこと自体は、悪くないと思います」


 凛らしい訂正だった。言葉を正確に使おうとする。感覚で口にしたことを、あとから考え直して修正する。


「どっちでもいいじゃないか」


 口の端が上がった。自分でも気づいた。


 笑っていた。小さく、短く。だが確かに。


 凛がこちらを見た。何か言いかけて、口を閉じる。代わりに前を向いた。


 夕陽がビルの隙間から差し込んで、路地を赤く染めている。影が二つ、並んで伸びている。


「迅さん」


「何だ」


「腕、まだ痛いですか」


「痺れてるだけだ。明日には治る」


「——そうですか」


 凛がわずかに頷く。それだけだった。


 路地の向こうを人が通り過ぎた。日常の風景。新宿の夕暮れ。地下であったことを、誰も知らない。


 事務所に戻ろうとした。ポケットの中のスマートフォンが振動した。通知。退魔ウォッチャーのスレッドが更新されている。


 画面をちらりと見た。


◇◇◇


【新宿地下】なんか昨夜すごい気配しなかった?【体感した人いる?】


87 名無しの退魔ウォッチャー

あれから一日経ったけど気配は落ち着いたっぽい

犬も寝てる


88 名無しの退魔ウォッチャー

>>87

新宿は落ち着いた

でも他所からも似たような報告上がってる


89 名無しの退魔ウォッチャー

>>88

他所ってどこ?


90 名無しの退魔ウォッチャー

>>89

新宿だけじゃなく、全国で変な気配が増えてるらしい

大阪、名古屋、福岡のスレにも似たような書き込みが出てる

何なんだこれ?


91 名無しの退魔ウォッチャー

>>90

大袈裟すぎ!

季節の変わり目だろ


 ——画面を消した。


 路地に風が吹いた。五月の風。冷たくも温かくもない。


 事務所のドアを開けた。晴輝が書類を広げている。朱里がファイルを整理している。凛が後ろからついてくる。


 明日も、たぶんここにいる。

Arc 2「地下に眠る神」、ここで一区切りです。

40話という長丁場にお付き合いいただきありがとうございました。

ブックマークや評価ポイントで応援いただけると、Arc 3を書く大きな励みになります。

物語はまだ続きます。

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