第7節 失恋
その日も、弓香と縁之丞は、夕方まで町を歩いていた。
昼を少し過ぎたころに会い、食事をした。通りに並ぶ店を眺め、武道の話をし、ときどき、どうでもよいことで笑った。
初めて会ったころにあった、かたい空気はもうなかった。
弓香は、縁之丞の前で言葉を一つずつ選ばなくてもよくなっていた。年上らしく見せなければならないとも、あまり思わなくなった。
話したいことを話す。
笑いたいときに笑う。
それだけのことが、弓香にはうれしかった。
けれど、胸の中に残った違和感は消えていなかった。
縁之丞は、ときどき遠くを見る。
珍しいものを見つけたとき。
料理をおいしいと思ったとき。
弓香に褒められ、うれしそうにしたとき。
ほんの一瞬だけ、その心が弓香の知らない場所へ向かう。
すぐに戻ってくる。
弓香を見て、いつもどおりに話を続ける。
だから、気づかないふりもできた。
家族かもしれない。
ただの友人かもしれない。
長く親しくしてきた人を思い出しただけかもしれない。
そう考えているあいだは、まだ何も失わずにすんだ。
けれど、弓香には分かっていた。
人の動きを見ることは、幼いころから身につけてきた。
目が動く前の呼吸。
言葉を出す前の、わずかな間。
無意識にやわらぐ口元。
そこに、嘘はなかった。
縁之丞の心の中には、すでに誰かがいる。
弓香よりも、ずっと前から。
あたりまえのように、その人はそこにいる。
認めたくなかった。
けれど、分かっていながら知らないふりをしたまま、縁談を続けることもできなかった。
夕方、二人は川沿いの道を歩いていた。
空には淡い朱色が残り、川の水も同じ色を映していた。風が吹くたび、弓香の髪が頬へかかった。
縁之丞は、そのたびに歩く速さを少し緩めた。
何も言わない。
ただ、弓香が髪を整えるのを待っている。
そういう小さなやさしさが、今日はつらかった。
いつもなら、うれしいだけだった。
もっと一緒にいたいと思った。
次はどこへ行こうかと考えた。
けれど今日は、そのやさしさが自分だけへ向けられたものではないと、もう知ってしまったような気がした。
縁之丞は、もともとやさしい人なのだ。
弓香を特別に思っているからではない。
そのことを考えると、胸の中が少し冷えた。
「縁之丞さん」
弓香は、前を向いたまま名前を呼んだ。
「はい」
「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何ですか」
聞いてはいけない。
答えを知れば、もう戻れない。
これまでのように会うことも。
次の約束を待つことも。
もしかしたら、と考えることもできなくなる。
弓香は、胸の中で何度もそう思った。
けれど、知りながら知らないふりをする方が、もっと自分らしくないように思えた。
「好きな方が、いらっしゃるのでしょう」
縁之丞の足が止まった。
弓香は二歩ほど進んでから立ち止まり、振り返った。
縁之丞は、驚いた顔でこちらを見ていた。
「どうして、そう思ったんですか」
弓香は笑った。
できるだけ、いつもと同じように。
「私とお過ごしになるあいだ、何度も、どなたかを思い浮かべておられましたから」
「顔に出ていましたか」
「いいえ」
弓香は首を横に振った。
「目の動きや、何かをご覧になったあとの、わずかな間で分かりました」
「そこまで分かるものなんですね」
縁之丞は、困ったように笑った。
「武道を続けておりますので、人を見る癖がついているのかもしれません」
「隠し事は、できそうにないですね」
「そのつもりで見ていたわけではありませんよ」
弓香も笑った。
けれど、笑顔を作るほど胸の奥が痛んだ。
「ただ」
次の言葉が、少しだけ遅れた。
「その方を思い浮かべるときだけ、縁之丞さんのお顔がやわらかくなっておりましたので」
縁之丞は、何も言わなかった。
川の流れる音が聞こえた。
遠くを走る車の音。
風に揺れる草の、乾いた音。
二人のあいだに、少し長い沈黙が落ちた。
弓香はその沈黙の中で、まだ最後の期待を捨てていなかった。
違います。
そのような人はいません。
弓香さんの思い過ごしです。
そう言ってほしかった。
もしかしたら、縁之丞が思い浮かべていたのは自分なのかもしれない。
そのような、ありえない期待さえ、胸のどこかには残っていた。
「まだ」
縁之丞が、ようやく口を開いた。
「好きかどうかは、分からないんです」
弓香の胸が小さく鳴った。
否定ではなかった。
やはり、誰かはいる。
「そうなのですか」
「はい」
縁之丞は、川の向こうへ目を向けた。
「小さいころから、ずっと近くにいた人で」
その人のことを話す声は、やさしかった。
縁之丞自身は、気づいていないのかもしれない。
けれど弓香には、はっきりと分かった。
「近すぎて」
縁之丞は、自分の中にあるものを探すように言った。
「ただの幼なじみなのか、それ以上なのか。考えても、よく分からなくて」
幼なじみ。
その言葉を聞いたとき、弓香は胸の中で何かが静かに落ちるのを感じた。
その人は、弓香よりもずっと長く縁之丞のそばにいる。
朝も。
帰り道も。
何でもない日も。
弓香の知らない時間を、いくつも一緒に過ごしてきた。
弓香がこれからどれほど縁之丞と会ったとしても、その時間へさかのぼることはできない。
けれど、まだ恋ではないのかもしれない。
縁之丞自身が、分からないと言っている。
弓香は、そのわずかなところへ心を残そうとした。
そして、自分でその逃げ道を塞ぐように、次の問いを口にした。
「では」
縁之丞を見る。
「その方が、別の男性を選ばれても平気ですか」
「嫌です」
縁之丞は、すぐに答えた。
考える時間はなかった。
迷いもなかった。
ただ、嫌だと。
そう言った。
その一言で、すべてが終わった。
弓香は、何も言えなかった。
川の向こうへ、夕日が沈んでいく。
少し前まで明るかった空が、ゆっくりと色を失っていた。
(ああ。終わったのですね)
その人が誰なのか。
顔も、声も、何一つ知らない。
けれど、もう十分だった。
縁之丞は、その人を失いたくない。
別の男性に選ばれることが、嫌なのだ。
それが恋でなくて、何なのだろう。
「その人が、いなくなるのも嫌です」
縁之丞は、自分の答えに驚いているようだった。
それでも、一度出た言葉を引き戻すことはしなかった。
「何かあったら、最初に話したいと思います。面白いものを見つけたら、見せたい。うれしいことがあったら、一緒によろこんでほしい」
弓香は黙って聞いた。
一つ聞くたび、胸の中で何かが少しずつ崩れていった。
猫の置物。
珍しい料理。
弓が的へ当たったときの、うれしそうな顔。
あのとき、縁之丞が思い浮かべていたのは、ずっと同じ人だったのだ。
何かを見つけるたび。
何かを感じるたび。
その人が、縁之丞の中へ自然に現れる。
呼び出す必要もない。
思い出そうとする必要もない。
その人はもう、縁之丞の一部のようになっている。
「隣にいることが」
縁之丞は、自分の心をたしかめるように言った。
「あたりまえになっているんです」
弓香は、ゆっくりとうなずいた。
「そうですか」
それしか言えなかった。
胸が痛かった。
けれど、その痛みの中で、弓香は自分の心にも気づいていた。
縁之丞に選んでほしかった。
また会いたかった。
弓道場へ来てほしかった。
自分の射を見てほしかった。
きれいだと言われて、うれしかった。
肩へ触れたとき、近いと思った。
胸の音を聞かれたくないと思った。
縁之丞の笑う顔を、もっと見たいと思った。
そのどれも、ただ好ましいからではなかった。
自分は、この人が好きだったのだ。
縁之丞の恋を知った、そのときに。
弓香は、ようやく自分の恋を知った。
気づくのが遅かったのではない。
認めることが、こわかったのだ。
強い女性は愛されない。
ずっと、そう思っていた。
だから、自分が誰かを好きになることも、その人に選ばれたいと願うことも、心のどこかで許していなかった。
けれど弓香はもう、縁之丞に選んでほしいと願っていた。
そのことを知ったときには、縁之丞の心は別の人へ向いていた。
恋を知った日が、そのまま失恋の日になった。
「その方が」
弓香は笑った。
声が揺れないよう、ゆっくりと言った。
「少し、うらやましいですわね」
少し。
それは嘘だった。
本当は、ひどくうらやましかった。
縁之丞に、何かあれば最初に話したいと思われていることが。
何かを見つければ、見せたいと思われることが。
いなくなるのは嫌だと、迷わず言ってもらえることが。
自分も、そのように思われたかった。
その人になりたかった。
けれど、顔も知らない誰かを憎むことはできなかった。
その人が悪いわけではない。
弓香が劣っていたわけでもない。
ただ、縁之丞の心の中には、初めからその人の居場所があった。
それだけだった。
「申し訳ありません」
縁之丞が、頭を下げた。
「謝らないでください」
弓香は、すぐに言った。
謝られれば、自分がかわいそうな人になってしまうような気がした。
縁之丞は何も悪くない。
自分も。
まだ会ったことのない、その人も。
誰も悪くなかった。
「ですが」
縁之丞は言葉に詰まった。
「弓香さんは、俺と会うために」
「私が、会いたかったのです」
弓香は静かに言った。
そのことだけは、嘘にしたくなかった。
家のためだけではなかった。
途中からは、弓香自身が縁之丞へ会いたいと思っていた。
「私も」
胸の奥が熱くなった。
好きです。
そう言ってしまいたかった。
私を選んでください。
その人ではなく、私を見てください。
もう少しだけ、一緒にいてください。
けれど、言葉にすれば縁之丞を困らせる。
縁之丞の心を知りながら、それでも自分を選んでほしいと求めることはできなかった。
「あなたを」
弓香は少しだけ息を吸った。
「好ましく思っております」
それが、弓香にできる告白だった。
好きだとは言わない。
けれど、何もなかったことにもしない。
縁之丞は顔を上げた。
驚いた目で、弓香を見ている。
弓香は、目をそらさなかった。
「武道へまっすぐ向き合っておられることも、力のある女性をこわがらなかったことも、思ったことを飾らずに伝えてくださるところも」
一つずつ、好きになった理由を口にした。
言葉にするたび、終わりへ近づいていく。
「もし」
弓香は、少し笑った。
「あなたのお心に、その方がいなければ」
もし、その人がいなければ。
自分は選ばれていたのだろうか。
そのことは、もう分からない。
「私は、このご縁を受けたいと思っておりました」
縁之丞は、何も言わなかった。
言えるはずがなかった。
その沈黙が、弓香にはやさしかった。
無責任な慰めを言わない。
もしかしたら、と期待させることも言わない。
縁之丞は、最後までまっすぐだった。
「だからこそ」
弓香は、胸元へ手を添えた。
そこには、まだ痛みがあった。
「中途半端なお気持ちで、私を選んでいただきたくはありません」
好きだから、そばにいたかった。
それでも、心が別の人へ向いたまま、形だけ選ばれることはできなかった。
妻という名前をもらっても、縁之丞が何かを見つけるたび、心の中で別の人を思い浮かべるのなら。
それはきっと、今ここで失うよりも、ずっとつらい。
そして、縁之丞にも自分の心へ嘘をついてほしくなかった。
「あなたが、本当に隣にいてほしいと願う方は」
弓香は、声をやわらかくした。
言葉が胸を切った。
「私ではありません」
縁之丞は、否定しなかった。
そのことが答えだった。
弓香は、少しだけ目を伏せた。
泣いてはいけない。
まだ。
縁之丞の前では。
「その方へ、きちんとお気持ちを伝えた方がよろしいですよ」
顔を上げて言うと、縁之丞は迷うように目を伏せた。
「でも、まだ自分でも分かっていないんです。好きなのかどうか。分からないまま、伝えていいんでしょうか」
「すべて分かってからでなければ、気持ちを伝えてはいけないのでしょうか」
縁之丞が、弓香を見る。
「少なくとも、その方を失いたくないというお気持ちは、もう分かっておられるのでしょう」
縁之丞は、しばらく黙っていた。
「はい」
小さく答えた。
「でしたら」
弓香は笑った。
「まずは、そのことだけでも、お伝えになればよいのではありませんか」
自分ではない人のもとへ、好きな人を送り出している。
ひどく、おかしなことのように思えた。
本当は、行かないでほしかった。
もう少し迷っていてほしかった。
縁之丞が自分の恋へ気づかなければ、もう少しだけ弓香と会ってくれたかもしれない。
けれど、そのような時間を、いつまでも借りることはできない。
縁之丞の心は、もう答えを持っていた。
ただ本人だけが、その思いへまだ名前をつけていなかった。
「弓香さん」
「はい」
縁之丞は、まっすぐ弓香を見た。
逃げることなく。
ごまかすことなく。
「この縁談を、お断りさせてください」
弓香は、その言葉を知っていた。
自分から、そこへ導いた。
それでも、聞きたくなかった。
胸の中で最後まで残っていた小さな希望が、静かに消えた。
弓香は目を伏せた。
ほんの一瞬だけ。
もう一度顔を上げるための時間が必要だった。
「はい」
ゆっくりと縁之丞を見る。
「承知いたしました」
「本当に、申し訳ありません」
「ですから」
弓香は、少し困ったように笑った。
「謝らないでください」
胸元へ、もう一度手を添える。
「私も、自分の心へ嘘をつきたくはありませんから」
好きだった。
選んでほしかった。
けれど、誰かを思ったまま自分を選んでほしくはなかった。
それが、弓香が最後まで守りたかったものだった。
武家の娘としての誇りではない。
天音家の令嬢としての役目でもない。
一人の女性として、好きな人に本当の心で選ばれたかった。
それが叶わないのなら、自分から手を離すしかなかった。
空は、もう暗くなり始めていた。
川に映っていた夕日の色も、ほとんど消えている。
二人は駅へ向かって歩いた。
来たときと同じ道だった。
けれど、何もかもが違って見えた。
隣には、縁之丞がいる。
手を伸ばせば届くほど近くに。
けれど、もう次の約束はない。
道場へ来てくださいとも。
また出かけましょうとも。
言うことはできない。
弓香は、歩く速さを変えなかった。
背筋も、呼吸も、いつもと同じように整えた。
最後まで、この人の前ではきれいに立っていたかった。
駅へ近づくにつれ、人の流れが少しずつ増えてきた。
ここで別れなければならない。
弓香は足を止めた。
「今日まで、ありがとうございました」
縁之丞へ、丁寧に頭を下げる。
「こちらこそ」
縁之丞も頭を下げた。
「弓香さんと出会えて、本当によかったです」
少しだけ言葉を探し、それからまっすぐに告げた。
その言葉が、うれしくて、つらかった。
「私もです」
弓香は笑った。
出会わなければよかったとは思わなかった。
たとえ叶わなくても、縁之丞と会えたことを後悔したくなかった。
この人は、強い自分をこわがらなかった。
武道をしていることを否定しなかった。
自分を守ろうとしてくれた。
力の使い方を、きれいだと言ってくれた。
自分が積み重ねてきたものを、すてきだと言ってくれた。
射を見て、きれいだと言った。
だから弓香は、この人を好きになった。
そして、この人に愛されたかった。
縁之丞が、もう一度頭を下げる。
「それでは」
「はい」
縁之丞は歩き出した。
弓香は、その背中を見送った。
人のあいだへ入っていく。
少しずつ遠くなる。
一度も、振り返らなかった。
それでよかった。
振り返られたら、きっと笑顔を保てなかった。
縁之丞の姿が、完全に見えなくなる。
その瞬間、弓香の笑顔は消えた。
胸が、ひどく痛んだ。
息をするだけで、何かがこぼれそうになった。
それでも、ここでは泣けなかった。
人の多い駅前で。
道の途中で。
泣くことはできない。
弓香は背筋を伸ばし、歩き出した。
いつもと同じ歩幅で。
いつもと同じ足取りで。
けれど胸の中では、何度も同じ言葉が繰り返されていた。
『嫌です』
縁之丞の、迷いのない声。
その一言が、弓香の中へ何度も落ちた。
あの人は、その方が別の男性を選ぶことを嫌だと言った。
弓香が、ほしかった言葉だった。
自分が誰かを選んだとき、その人にも、自分を失いたくないと言ってほしかった。
けれど、その言葉は弓香ではない人へ向けられた。
帰り道、弓香は初めて、自分が泣きそうなのだと気づいた。
まだ涙は落ちなかった。
ただ、胸の中には、もう隠すことのできないものがあった。
天音弓香は、その日に恋をしたのではない。
ずっと恋をしていたことを、その日、初めて知った。
そして知ったときにはもう、その恋を自分の手で送り出していた。




