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泪  作者: Atelier Lotus文庫


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7/8

第7節 失恋

 その日も、弓香と縁之丞は、夕方まで町を歩いていた。

 昼を少し過ぎたころに会い、食事をした。通りに並ぶ店を眺め、武道の話をし、ときどき、どうでもよいことで笑った。

 初めて会ったころにあった、かたい空気はもうなかった。

 弓香は、縁之丞の前で言葉を一つずつ選ばなくてもよくなっていた。年上らしく見せなければならないとも、あまり思わなくなった。

 話したいことを話す。

 笑いたいときに笑う。

 それだけのことが、弓香にはうれしかった。

 けれど、胸の中に残った違和感は消えていなかった。

 縁之丞は、ときどき遠くを見る。

 珍しいものを見つけたとき。

 料理をおいしいと思ったとき。

 弓香に褒められ、うれしそうにしたとき。

 ほんの一瞬だけ、その心が弓香の知らない場所へ向かう。

 すぐに戻ってくる。

 弓香を見て、いつもどおりに話を続ける。

 だから、気づかないふりもできた。

 家族かもしれない。

 ただの友人かもしれない。

 長く親しくしてきた人を思い出しただけかもしれない。

 そう考えているあいだは、まだ何も失わずにすんだ。

 けれど、弓香には分かっていた。

 人の動きを見ることは、幼いころから身につけてきた。

 目が動く前の呼吸。

 言葉を出す前の、わずかな間。

 無意識にやわらぐ口元。

 そこに、嘘はなかった。

 縁之丞の心の中には、すでに誰かがいる。

 弓香よりも、ずっと前から。

 あたりまえのように、その人はそこにいる。

 認めたくなかった。

 けれど、分かっていながら知らないふりをしたまま、縁談を続けることもできなかった。

 夕方、二人は川沿いの道を歩いていた。

 空には淡い朱色が残り、川の水も同じ色を映していた。風が吹くたび、弓香の髪が頬へかかった。

 縁之丞は、そのたびに歩く速さを少し緩めた。

 何も言わない。

 ただ、弓香が髪を整えるのを待っている。

 そういう小さなやさしさが、今日はつらかった。

 いつもなら、うれしいだけだった。

 もっと一緒にいたいと思った。

 次はどこへ行こうかと考えた。

 けれど今日は、そのやさしさが自分だけへ向けられたものではないと、もう知ってしまったような気がした。

 縁之丞は、もともとやさしい人なのだ。

 弓香を特別に思っているからではない。

 そのことを考えると、胸の中が少し冷えた。

「縁之丞さん」

 弓香は、前を向いたまま名前を呼んだ。

「はい」

「一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「何ですか」

 聞いてはいけない。

 答えを知れば、もう戻れない。

 これまでのように会うことも。

 次の約束を待つことも。

 もしかしたら、と考えることもできなくなる。

 弓香は、胸の中で何度もそう思った。

 けれど、知りながら知らないふりをする方が、もっと自分らしくないように思えた。

「好きな方が、いらっしゃるのでしょう」

 縁之丞の足が止まった。

 弓香は二歩ほど進んでから立ち止まり、振り返った。

 縁之丞は、驚いた顔でこちらを見ていた。

「どうして、そう思ったんですか」

 弓香は笑った。

 できるだけ、いつもと同じように。

「私とお過ごしになるあいだ、何度も、どなたかを思い浮かべておられましたから」

「顔に出ていましたか」

「いいえ」

 弓香は首を横に振った。

「目の動きや、何かをご覧になったあとの、わずかな間で分かりました」

「そこまで分かるものなんですね」

 縁之丞は、困ったように笑った。

「武道を続けておりますので、人を見る癖がついているのかもしれません」

「隠し事は、できそうにないですね」

「そのつもりで見ていたわけではありませんよ」

 弓香も笑った。

 けれど、笑顔を作るほど胸の奥が痛んだ。

「ただ」

 次の言葉が、少しだけ遅れた。

「その方を思い浮かべるときだけ、縁之丞さんのお顔がやわらかくなっておりましたので」

 縁之丞は、何も言わなかった。

 川の流れる音が聞こえた。

 遠くを走る車の音。

 風に揺れる草の、乾いた音。

 二人のあいだに、少し長い沈黙が落ちた。

 弓香はその沈黙の中で、まだ最後の期待を捨てていなかった。

 違います。

 そのような人はいません。

 弓香さんの思い過ごしです。

 そう言ってほしかった。

 もしかしたら、縁之丞が思い浮かべていたのは自分なのかもしれない。

 そのような、ありえない期待さえ、胸のどこかには残っていた。

「まだ」

 縁之丞が、ようやく口を開いた。

「好きかどうかは、分からないんです」

 弓香の胸が小さく鳴った。

 否定ではなかった。

 やはり、誰かはいる。

「そうなのですか」

「はい」

 縁之丞は、川の向こうへ目を向けた。

「小さいころから、ずっと近くにいた人で」

 その人のことを話す声は、やさしかった。

 縁之丞自身は、気づいていないのかもしれない。

 けれど弓香には、はっきりと分かった。

「近すぎて」

 縁之丞は、自分の中にあるものを探すように言った。

「ただの幼なじみなのか、それ以上なのか。考えても、よく分からなくて」

 幼なじみ。

 その言葉を聞いたとき、弓香は胸の中で何かが静かに落ちるのを感じた。

 その人は、弓香よりもずっと長く縁之丞のそばにいる。

 朝も。

 帰り道も。

 何でもない日も。

 弓香の知らない時間を、いくつも一緒に過ごしてきた。

 弓香がこれからどれほど縁之丞と会ったとしても、その時間へさかのぼることはできない。

 けれど、まだ恋ではないのかもしれない。

 縁之丞自身が、分からないと言っている。

 弓香は、そのわずかなところへ心を残そうとした。

 そして、自分でその逃げ道を塞ぐように、次の問いを口にした。

「では」

 縁之丞を見る。

「その方が、別の男性を選ばれても平気ですか」

「嫌です」

 縁之丞は、すぐに答えた。

 考える時間はなかった。

 迷いもなかった。

 ただ、嫌だと。

 そう言った。

 その一言で、すべてが終わった。

 弓香は、何も言えなかった。

 川の向こうへ、夕日が沈んでいく。

 少し前まで明るかった空が、ゆっくりと色を失っていた。

(ああ。終わったのですね)

 その人が誰なのか。

 顔も、声も、何一つ知らない。

 けれど、もう十分だった。

 縁之丞は、その人を失いたくない。

 別の男性に選ばれることが、嫌なのだ。

 それが恋でなくて、何なのだろう。

「その人が、いなくなるのも嫌です」

 縁之丞は、自分の答えに驚いているようだった。

 それでも、一度出た言葉を引き戻すことはしなかった。

「何かあったら、最初に話したいと思います。面白いものを見つけたら、見せたい。うれしいことがあったら、一緒によろこんでほしい」

 弓香は黙って聞いた。

 一つ聞くたび、胸の中で何かが少しずつ崩れていった。

 猫の置物。

 珍しい料理。

 弓が的へ当たったときの、うれしそうな顔。

 あのとき、縁之丞が思い浮かべていたのは、ずっと同じ人だったのだ。

 何かを見つけるたび。

 何かを感じるたび。

 その人が、縁之丞の中へ自然に現れる。

 呼び出す必要もない。

 思い出そうとする必要もない。

 その人はもう、縁之丞の一部のようになっている。

「隣にいることが」

 縁之丞は、自分の心をたしかめるように言った。

「あたりまえになっているんです」

 弓香は、ゆっくりとうなずいた。

「そうですか」

 それしか言えなかった。

 胸が痛かった。

 けれど、その痛みの中で、弓香は自分の心にも気づいていた。

 縁之丞に選んでほしかった。

 また会いたかった。

 弓道場へ来てほしかった。

 自分の射を見てほしかった。

 きれいだと言われて、うれしかった。

 肩へ触れたとき、近いと思った。

 胸の音を聞かれたくないと思った。

 縁之丞の笑う顔を、もっと見たいと思った。

 そのどれも、ただ好ましいからではなかった。

 自分は、この人が好きだったのだ。

 縁之丞の恋を知った、そのときに。

 弓香は、ようやく自分の恋を知った。

 気づくのが遅かったのではない。

 認めることが、こわかったのだ。

 強い女性は愛されない。

 ずっと、そう思っていた。

 だから、自分が誰かを好きになることも、その人に選ばれたいと願うことも、心のどこかで許していなかった。

 けれど弓香はもう、縁之丞に選んでほしいと願っていた。

 そのことを知ったときには、縁之丞の心は別の人へ向いていた。

 恋を知った日が、そのまま失恋の日になった。

「その方が」

 弓香は笑った。

 声が揺れないよう、ゆっくりと言った。

「少し、うらやましいですわね」

 少し。

 それは嘘だった。

 本当は、ひどくうらやましかった。

 縁之丞に、何かあれば最初に話したいと思われていることが。

 何かを見つければ、見せたいと思われることが。

 いなくなるのは嫌だと、迷わず言ってもらえることが。

 自分も、そのように思われたかった。

 その人になりたかった。

 けれど、顔も知らない誰かを憎むことはできなかった。

 その人が悪いわけではない。

 弓香が劣っていたわけでもない。

 ただ、縁之丞の心の中には、初めからその人の居場所があった。

 それだけだった。

「申し訳ありません」

 縁之丞が、頭を下げた。

「謝らないでください」

 弓香は、すぐに言った。

 謝られれば、自分がかわいそうな人になってしまうような気がした。

 縁之丞は何も悪くない。

 自分も。

 まだ会ったことのない、その人も。

 誰も悪くなかった。

「ですが」

 縁之丞は言葉に詰まった。

「弓香さんは、俺と会うために」

「私が、会いたかったのです」

 弓香は静かに言った。

 そのことだけは、嘘にしたくなかった。

 家のためだけではなかった。

 途中からは、弓香自身が縁之丞へ会いたいと思っていた。

「私も」

 胸の奥が熱くなった。

 好きです。

 そう言ってしまいたかった。

 私を選んでください。

 その人ではなく、私を見てください。

 もう少しだけ、一緒にいてください。

 けれど、言葉にすれば縁之丞を困らせる。

 縁之丞の心を知りながら、それでも自分を選んでほしいと求めることはできなかった。

「あなたを」

 弓香は少しだけ息を吸った。

「好ましく思っております」

 それが、弓香にできる告白だった。

 好きだとは言わない。

 けれど、何もなかったことにもしない。

 縁之丞は顔を上げた。

 驚いた目で、弓香を見ている。

 弓香は、目をそらさなかった。

「武道へまっすぐ向き合っておられることも、力のある女性をこわがらなかったことも、思ったことを飾らずに伝えてくださるところも」

 一つずつ、好きになった理由を口にした。

 言葉にするたび、終わりへ近づいていく。

「もし」

 弓香は、少し笑った。

「あなたのお心に、その方がいなければ」

 もし、その人がいなければ。

 自分は選ばれていたのだろうか。

 そのことは、もう分からない。

「私は、このご縁を受けたいと思っておりました」

 縁之丞は、何も言わなかった。

 言えるはずがなかった。

 その沈黙が、弓香にはやさしかった。

 無責任な慰めを言わない。

 もしかしたら、と期待させることも言わない。

 縁之丞は、最後までまっすぐだった。

「だからこそ」

 弓香は、胸元へ手を添えた。

 そこには、まだ痛みがあった。

「中途半端なお気持ちで、私を選んでいただきたくはありません」

 好きだから、そばにいたかった。

 それでも、心が別の人へ向いたまま、形だけ選ばれることはできなかった。

 妻という名前をもらっても、縁之丞が何かを見つけるたび、心の中で別の人を思い浮かべるのなら。

 それはきっと、今ここで失うよりも、ずっとつらい。

 そして、縁之丞にも自分の心へ嘘をついてほしくなかった。

「あなたが、本当に隣にいてほしいと願う方は」

 弓香は、声をやわらかくした。

 言葉が胸を切った。

「私ではありません」

 縁之丞は、否定しなかった。

 そのことが答えだった。

 弓香は、少しだけ目を伏せた。

 泣いてはいけない。

 まだ。

 縁之丞の前では。

「その方へ、きちんとお気持ちを伝えた方がよろしいですよ」

 顔を上げて言うと、縁之丞は迷うように目を伏せた。

「でも、まだ自分でも分かっていないんです。好きなのかどうか。分からないまま、伝えていいんでしょうか」

「すべて分かってからでなければ、気持ちを伝えてはいけないのでしょうか」

 縁之丞が、弓香を見る。

「少なくとも、その方を失いたくないというお気持ちは、もう分かっておられるのでしょう」

 縁之丞は、しばらく黙っていた。

「はい」

 小さく答えた。

「でしたら」

 弓香は笑った。

「まずは、そのことだけでも、お伝えになればよいのではありませんか」

 自分ではない人のもとへ、好きな人を送り出している。

 ひどく、おかしなことのように思えた。

 本当は、行かないでほしかった。

 もう少し迷っていてほしかった。

 縁之丞が自分の恋へ気づかなければ、もう少しだけ弓香と会ってくれたかもしれない。

 けれど、そのような時間を、いつまでも借りることはできない。

 縁之丞の心は、もう答えを持っていた。

 ただ本人だけが、その思いへまだ名前をつけていなかった。

「弓香さん」

「はい」

 縁之丞は、まっすぐ弓香を見た。

 逃げることなく。

 ごまかすことなく。

「この縁談を、お断りさせてください」

 弓香は、その言葉を知っていた。

 自分から、そこへ導いた。

 それでも、聞きたくなかった。

 胸の中で最後まで残っていた小さな希望が、静かに消えた。

 弓香は目を伏せた。

 ほんの一瞬だけ。

 もう一度顔を上げるための時間が必要だった。

「はい」

 ゆっくりと縁之丞を見る。

「承知いたしました」

「本当に、申し訳ありません」

「ですから」

 弓香は、少し困ったように笑った。

「謝らないでください」

 胸元へ、もう一度手を添える。

「私も、自分の心へ嘘をつきたくはありませんから」

 好きだった。

 選んでほしかった。

 けれど、誰かを思ったまま自分を選んでほしくはなかった。

 それが、弓香が最後まで守りたかったものだった。

 武家の娘としての誇りではない。

 天音家の令嬢としての役目でもない。

 一人の女性として、好きな人に本当の心で選ばれたかった。

 それが叶わないのなら、自分から手を離すしかなかった。

 空は、もう暗くなり始めていた。

 川に映っていた夕日の色も、ほとんど消えている。

 二人は駅へ向かって歩いた。

 来たときと同じ道だった。

 けれど、何もかもが違って見えた。

 隣には、縁之丞がいる。

 手を伸ばせば届くほど近くに。

 けれど、もう次の約束はない。

 道場へ来てくださいとも。

 また出かけましょうとも。

 言うことはできない。

 弓香は、歩く速さを変えなかった。

 背筋も、呼吸も、いつもと同じように整えた。

 最後まで、この人の前ではきれいに立っていたかった。

 駅へ近づくにつれ、人の流れが少しずつ増えてきた。

 ここで別れなければならない。

 弓香は足を止めた。

「今日まで、ありがとうございました」

 縁之丞へ、丁寧に頭を下げる。

「こちらこそ」

 縁之丞も頭を下げた。

「弓香さんと出会えて、本当によかったです」

 少しだけ言葉を探し、それからまっすぐに告げた。

 その言葉が、うれしくて、つらかった。

「私もです」

 弓香は笑った。

 出会わなければよかったとは思わなかった。

 たとえ叶わなくても、縁之丞と会えたことを後悔したくなかった。

 この人は、強い自分をこわがらなかった。

 武道をしていることを否定しなかった。

 自分を守ろうとしてくれた。

 力の使い方を、きれいだと言ってくれた。

 自分が積み重ねてきたものを、すてきだと言ってくれた。

 射を見て、きれいだと言った。

 だから弓香は、この人を好きになった。

 そして、この人に愛されたかった。

 縁之丞が、もう一度頭を下げる。

「それでは」

「はい」

 縁之丞は歩き出した。

 弓香は、その背中を見送った。

 人のあいだへ入っていく。

 少しずつ遠くなる。

 一度も、振り返らなかった。

 それでよかった。

 振り返られたら、きっと笑顔を保てなかった。

 縁之丞の姿が、完全に見えなくなる。

 その瞬間、弓香の笑顔は消えた。

 胸が、ひどく痛んだ。

 息をするだけで、何かがこぼれそうになった。

 それでも、ここでは泣けなかった。

 人の多い駅前で。

 道の途中で。

 泣くことはできない。

 弓香は背筋を伸ばし、歩き出した。

 いつもと同じ歩幅で。

 いつもと同じ足取りで。

 けれど胸の中では、何度も同じ言葉が繰り返されていた。

『嫌です』

 縁之丞の、迷いのない声。

 その一言が、弓香の中へ何度も落ちた。

 あの人は、その方が別の男性を選ぶことを嫌だと言った。

 弓香が、ほしかった言葉だった。

 自分が誰かを選んだとき、その人にも、自分を失いたくないと言ってほしかった。

 けれど、その言葉は弓香ではない人へ向けられた。

 帰り道、弓香は初めて、自分が泣きそうなのだと気づいた。

 まだ涙は落ちなかった。

 ただ、胸の中には、もう隠すことのできないものがあった。

 天音弓香は、その日に恋をしたのではない。

 ずっと恋をしていたことを、その日、初めて知った。

 そして知ったときにはもう、その恋を自分の手で送り出していた。

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