第6節 違和感
門を出ても、弓香はすぐに縁之丞と別れようとは思わなかった。
今日が終わることを、まだ少しだけ先へ延ばしていたかった。
屋敷のまわりには、古い町並みが残っている。低い軒の店が並び、通りには夕方の買い物をする人々の声があった。先ほどまでいた道場とは違い、菓子を焼く甘い匂いや、戸を開け閉めする音が、途切れず流れてくる。
縁之丞は、隣を歩いていた。
道場で自分の射を見てくれた人。
また教えてほしいと言ってくれた人。
三人の兄に囲まれ、物騒な挨拶を受けても逃げずにいてくれた人。
弓香の育った場所を見て、それを重たいとも、窮屈だとも言わなかった。
縁之丞が天音家の庭や廊下を歩いている姿は、不思議なほど自然だった。
この人なら、自分の暮らしの中へ入ってきても、何も壊さないのかもしれない。
ふと、そのようなことを思った。
まだ何も決まっていない。
縁之丞が、弓香と同じものを望んでいるとも限らない。
それでも、一度浮かんだ未来は、すぐには消えなかった。
「少し、寄っていきませんか」
弓香は、通りの先にある店を示した。
古い木造の、小さな土産物店だった。
「よいのですか」
「はい。せっかくこちらまでいらしたのですから」
縁之丞は店を見てから、弓香へうなずいた。
二人で戸を開ける。
軒先に下がっていた木札が、背後で小さく鳴った。
店の中には、和柄の小物や菓子、木で作られた置物が並んでいた。木と紙の匂いに、奥から漂う菓子の甘さが混じっている。
狭い店だった。
二人で並ぶと、肩の距離が自然と近くなった。
弓香はそのことを意識しないように、棚へ目を向けた。
「かわいらしいですね」
淡い花柄の巾着を手に取る。
細い紐の先には、小さな玉飾りがついていた。
「女性への贈り物にも、よさそうです」
「母さんなら、こういうの好きそうです」
「では、お土産になさっては」
「そうします」
縁之丞は、いくつかの巾着を見比べ始めた。
色合いをたしかめ、柄を見て、一度棚へ戻したものをまた手に取る。
「迷われるのですね」
「せっかくなら、喜ばれるものがいいので」
「お母様のお好きな色は?」
「明るい色が好きだと思います。でも、派手すぎると使わないかも」
縁之丞は、真剣な顔で考えていた。
その横顔を、弓香はそっと見つめた。
母親への土産を、これほど丁寧に選ぶ人なのだ。
縁之丞の家での姿を、少しだけ想像した。
土産を差し出す縁之丞。
それを受け取って笑う母親。
弓香の知らない暮らしが、縁之丞にもある。
当たり前のことだった。
それでも、もう少し知りたいと思った。
どのような家で育ったのか。
家族とは、どのような話をするのか。
何を見て笑い、何を大切にしているのか。
顔合わせの日には、相手の家柄や経歴を知れば十分だと思っていた。
けれど今は、縁之丞の毎日の中にある、小さなことを知りたかった。
縁之丞は、淡い黄色の巾着を選んだ。
「こちらになさるのですね」
「はい。たぶん、これがいちばん好きだと思います」
「きっと、お喜びになります」
それから、縁之丞は父親への土産を探し始めた。
「父さんには、食べ物の方がいいかな」
「甘いものは召し上がりますか」
「何でも食べます」
「では、選びやすいですね」
「選びやすいのかな」
二人で小さく笑った。
先ほどまで自分の家にいた人と、今は小さな店を並んで見ている。
何でもない時間だった。
けれど弓香には、その何でもなさが、どこか幸福なものに思えた。
道場で弓を引くことも。
家族と言葉を交わすことも。
こうして町の店を歩くことも。
縁之丞となら、すべてが一つの時間として自然につながっていく。
何か特別なことがなくてもよいのかもしれない。
何も起きない日々を、こうして隣で歩けるなら。
それだけで十分なのかもしれない。
店の奥へ進んだとき、縁之丞が足を止めた。
「……何これ」
棚の隅に、木でできた猫の置物があった。
左右で耳の大きさが違う。目は半分閉じ、口元には、笑っているのか困っているのか分からない線が彫られていた。
かわいいと言うには、少し変だった。
けれど見ていると、だんだん気になってくる顔だった。
「気になりますか」
弓香は、縁之丞の隣へ立った。
「ちょっと変な置物で」
「たしかに」
弓香も猫の顔を見た。
「不思議なお顔ですね」
「見ていると、だんだん面白くなりません?」
「はい」
「少しだけ、かわいくも見えてきました」
「そうですね」
二人で並び、しばらくその猫を見ていた。
縁之丞は笑っていた。
声を立てるほどではない、やわらかな笑い方だった。
けれど次の瞬間、その目がほんの少しだけ遠くなった。
猫を見ているはずなのに、視線はその向こうへ抜けている。
今ここにはいない誰かの顔を、思い浮かべたように見えた。
弓香は、その変化に気づいた。
武道を続けていると、人の小さな動きへ自然と目が向く。
呼吸。
視線。
重心。
言葉を出す前の、わずかな間。
縁之丞の身体は、弓香の隣にあった。
けれど心だけが一瞬、別の場所へ向いたようだった。
この猫を見たら、きっと笑う。
そのように思う相手がいるような目だった。
「どなたかへの、お土産ですか」
弓香は、できるだけ何でもないことのように尋ねた。
縁之丞は、すぐには答えなかった。
ほんの一息ぶんの間があった。
それから、猫の置物から目を離した。
「まだ、決めてません」
「そうですか」
弓香は、それ以上聞かなかった。
本当に決めていないのかもしれない。
家族の誰かを思い出しただけかもしれない。
友人かもしれない。
深く考えるようなことではない。
そう思った。
けれど、胸の中に小さなものが残った。
痛みと呼ぶほどではない。
不安と決めるには、まだ形がない。
ただ、指先へ刺さった細い棘のように、そこにあることだけは分かった。
縁之丞は、猫の置物を棚へ戻した。
少し名残惜しそうにも見えたが、買おうとはしなかった。
「お気に召したのでは?」
弓香が尋ねると、縁之丞は苦笑した。
「家に置く場所がないので」
「小さなものですけれど」
「こういうもの、一つ買うと増えていきそうじゃないですか」
「集めたくなるお顔ではございますね」
「弓香さんも、かわいいと思ってるじゃないですか」
「少しだけです」
いつもどおりのやり取りだった。
二人はまた笑った。
縁之丞は父親への菓子を選び、会計を済ませた。
店を出たあとも、いつもと変わらず弓香と話した。
兄たちの挨拶を思い出して笑い、弓の礼をもう一度言った。
だから、気にする必要はなかった。
あの短い沈黙など、すぐに忘れてしまえばよかった。
縁之丞にも、家族や友人がいる。
弓香の知らない思い出がある。
何かを見て誰かを思い出すことなど、少しも不自然ではない。
そのようなことは、弓香にもある。
分かっている。
それでも弓香は、猫の顔よりも、その猫を見つめていた縁之丞の目を覚えていた。
◇
その日から、弓香は縁之丞の小さな変化へ気づくようになった。
何度か会ううちに、二人のあいだには、以前よりも自然な時間が増えていった。
食事をした。
町を歩いた。
弓香が縁之丞へ弓を教え、縁之丞が剣の話をした。
ときどき、何も話さずに歩くこともあった。
弓香は、その静けささえ好きだった。
縁之丞といると、無理に話を作らなくてもよかった。
年上らしくしなければと、初めのころほど強く思わなくなった。
笑いたいときに笑い、分からないときには分からないと言えた。
少し疲れたときには、疲れたとも言えるようになった。
以前なら、顔合わせの相手の前で、そのような姿を見せようとは思わなかった。
頼りなく見えてはいけない。
欠点を見せてはいけない。
相手に失望されないよう、正しく振る舞わなければならない。
そう考えていた。
けれど縁之丞の前では、完璧でなくてもよいような気がした。
そのことが、弓香にはうれしかった。
会う日の朝には、少し早く目を覚ました。
着物を選ぶ時間も長くなった。
縁之丞から連絡が届けば、すぐに開きたい気持ちを抑え、自室へ戻ってから読んだ。
次に会う日が決まれば、その日までの日数を数えた。
弓香の暮らしの中へ、縁之丞を待つ時間が増えていった。
けれど、何かを見つけたとき。
縁之丞の目が、ときどき遠くなった。
珍しい料理を見たとき。
店先に変わった品が並んでいたとき。
何かがうまくできて、うれしそうにしたとき。
縁之丞は、ほんの一瞬だけ、弓香のいない場所へ心を向けた。
すぐに戻ってくる。
弓香へ話しかけ、いつもどおりに笑う。
だから、気にしなければよかった。
けれど、一度気づいてしまうと、その一瞬が目に入るようになった。
また。
今も。
誰かを思い出しましたね。
弓香は、心の中でそう思う。
けれど、口には出さなかった。
ある日、二人で食事をした。
縁之丞は、初めて食べる料理を前にして、少し驚いた顔をした。
「これ、おいしいですね」
「お気に召しましたか」
「はい」
そう答えたあと、縁之丞の目が、皿の向こうへわずかにずれた。
一瞬だけ、口元がやわらかくなる。
弓香ではない誰かと、同じ料理を食べるところを思い浮かべたように見えた。
「どなたかにも、召し上がっていただきたいのですか」
そう尋ねそうになり、弓香は紅茶へ手を伸ばした。
聞く必要はない。
ただ、おいしいと思っただけかもしれない。
家族への土産を考えただけかもしれない。
そう自分へ言い聞かせた。
また別の日には、町の店先で、変わった髪飾りを見つけた。
淡い色の布で作られた、小さな花の飾りだった。
縁之丞は足を止め、しばらくそれを眺めた。
「贈り物ですか」
弓香が尋ねると、縁之丞はすぐに笑った。
「いえ、何でもないです」
そう言って歩き出した。
けれど、何でもないものを見る目ではなかった。
誰かがそれを身につけた姿を、思い浮かべていたように見えた。
弓香は、それ以上聞かなかった。
聞かないことが、少しずつ増えていった。
誰を思い出しているのか。
どれほど長く知っている相手なのか。
自分と会っているときにも思い出すほど、その人は大切なのか。
質問は胸へ浮かんだ。
けれど、声にはならなかった。
聞けば、答えてくれるかもしれない。
縁之丞は、嘘をつくことが得意な人には見えなかった。
だからこそ、聞くことがこわかった。
答えを知りたいはずなのに、知ってしまえば、今の時間が変わってしまうような気がした。
誰なのですか。
大切な人なのですか。
その人を、お好きなのですか。
そこまで尋ねられるほど、弓香と縁之丞の関係はまだ深くなかった。
けれど、何も気にしないでいられるほど、弓香の思いは浅くもなくなっていた。
自分の思い過ごしかもしれない。
縁之丞に、特別な人などいないかもしれない。
ただの友人。
ただの家族。
長く付き合ってきた誰かなのかもしれない。
恋ではない。
そう思おうとした。
けれど、縁之丞がその誰かを思い出すときだけ、表情がほんの少しやわらかくなる。
弓香と話しているときにも、縁之丞はよく笑った。
その笑顔を見ることは、うれしかった。
けれど、それとは違った。
もっと自然で。
もっと慣れていて。
考えるよりも先に、その人が心の中へ現れているような顔だった。
何かを見つけたとき、伝えたいと思う相手。
面白いことがあれば、一緒に笑う姿を思い浮かべる相手。
そこには、弓香がまだ入れない場所がある。
弓香と出会うよりも前から、誰かがいる場所がある。
そのことを、弓香は少しずつ知っていった。
それでも、縁之丞に会うことはうれしかった。
連絡が届けば、胸が弾んだ。
次の約束が決まれば、その日を待った。
会っているあいだは、何度も笑った。
縁之丞の隣を歩くことにも、少しずつ慣れていった。
別れるときには、また、と言い合った。
だからこそ、縁之丞の目が一瞬だけ遠くなるたび、その短い時間が、以前よりもはっきりと分かるようになった。
ほんの一瞬だった。
縁之丞自身も、気づいていないほど短いのかもしれない。
けれど、弓香には見えた。
見えなければよかったと思うこともあった。
人の動きを見ることは、弓香の身を守ってきた。
相手の呼吸を読み、重心の変化を見て、次の動きを知る。
幼いころから身につけてきたものだった。
けれど今は、その目が、見たくないものまで見つけてしまう。
縁之丞の心が、どこへ向いたのか。
自分の前にいながら、誰を思い出したのか。
分からないままでも、そこに誰かがいることだけは見えてしまった。
初めは、ただの違和感だった。
猫の置物を見たときの、わずかな間。
それだけだった。
けれど、同じことが何度も重なる。
縁之丞の心の中には、自分ではない誰かがいる。
その考えは、しだいに消せなくなった。
◇
縁之丞と会った夜、弓香は自室の鏡の前へ座った。
髪飾りを外し、髪をほどく。
櫛を通すたび、昼間のことが一つずつよみがえった。
話した言葉。
歩いた道。
笑った顔。
いつもなら、それだけで胸の奥があたたかくなった。
縁之丞と会った日は、言われた言葉を何度も胸の中で繰り返した。
『すてきだと思います』
『きれいでした』
『また、教えてもらってもいいですか』
その一つひとつが、自分の中に希望を作ってくれた。
強いままでもよい。
武道を手放さなくても、誰かの隣へ立てるかもしれない。
縁之丞なら、そのような自分を見てくれるかもしれない。
そう思い始めていた。
けれどその夜は、縁之丞の笑った顔よりも、遠くなった目ばかりが浮かんだ。
あのとき、誰を思い出していたのだろう。
何を見せたいと思ったのだろう。
誰と一緒に笑うところを考えていたのだろう。
櫛を持つ手が止まった。
鏡の中には、いつもより少し暗い顔をした自分がいた。
弓香は、その顔を見つめた。
このような表情をする自分を、これまで知らなかった。
顔合わせの相手が別の女性を好きであったとしても、気にしたことはなかった。
自分も、相手へ心を求めていなかったから。
家同士が納得し、夫婦としての役目を果たせればよいと思っていた。
けれど、縁之丞には自分を見てほしいと思った。
自分のことを特別に思ってほしいと、いつの間にか願っていた。
だから、縁之丞の心に自分ではない誰かがいるかもしれないことが、こわかった。
弓香は、考えることをやめようとした。
まだ何も分からない。
縁之丞は、自分へまた会いたいと言った。
道場にも来た。
自分の射をきれいだと言った。
強い自分を、すてきだと言ってくれた。
それは、嘘ではない。
縁之丞が弓香といる時間を楽しんでくれていることも、きっと嘘ではない。
だから。
もしかしたら。
まだ。
そう思っていたかった。
自分の勘違いかもしれない。
ただの古い友人かもしれない。
縁之丞自身も、その人を特別だと思ってはいないかもしれない。
長くそばにいることと、恋をしていることは同じではない。
家族のように親しい人かもしれない。
弓香は、何度もそう考えた。
考えるたび、少しだけ安心した。
けれど、その安心は長く続かなかった。
もし、その誰かが、縁之丞にとって本当に大切な人だったなら。
自分は、どうすればよいのだろう。
それを知ってしまったとき、今のように笑っていられるのだろうか。
縁之丞と会うたび、うれしかった。
また会いたいと思った。
次の約束を待った。
強い自分のままでも、誰かの隣へ立てるかもしれないと、ほんの少し信じ始めていた。
だからこそ、自分ではない誰かの存在がこわかった。
まだ、名前も知らない。
顔も知らない。
本当にいるのかさえ、たしかではない。
それでも、その人は、すでに縁之丞の心の中にいるように思えた。
弓香よりも前から。
弓香の知らない時間の中で。
何かを見つけたとき、真っ先に思い出すことができるほど、当たり前の場所に。
そのことを考えると、胸が静かに痛んだ。
弓香は、鏡から目をそらした。
聞いてはいけない。
まだ。
答えを知るには早い。
縁之丞と自分は、まだ何も約束していない。
好意を告げられたわけでもない。
弓香が一人で期待し、勝手に不安になっているだけなのかもしれない。
問いただす権利などなかった。
それに、このまま知らないふりをしていれば、もう少しだけ縁之丞と会える。
もう少しだけ、希望を持っていられる。
弓香は、ほどいた髪へもう一度櫛を通した。
けれど、違和感はもう消えなかった。
見ないふりをしても、胸の奥に残っていた。
自分ではない、誰か。
まだ顔も見えないその人が、縁之丞の遠くなる目の中で、少しずつ形を持ち始めていた。




