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泪  作者: Atelier Lotus文庫


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6/8

第6節 違和感

 門を出ても、弓香はすぐに縁之丞と別れようとは思わなかった。

 今日が終わることを、まだ少しだけ先へ延ばしていたかった。

 屋敷のまわりには、古い町並みが残っている。低い軒の店が並び、通りには夕方の買い物をする人々の声があった。先ほどまでいた道場とは違い、菓子を焼く甘い匂いや、戸を開け閉めする音が、途切れず流れてくる。

 縁之丞は、隣を歩いていた。

 道場で自分の射を見てくれた人。

 また教えてほしいと言ってくれた人。

 三人の兄に囲まれ、物騒な挨拶を受けても逃げずにいてくれた人。

 弓香の育った場所を見て、それを重たいとも、窮屈だとも言わなかった。

 縁之丞が天音家の庭や廊下を歩いている姿は、不思議なほど自然だった。

 この人なら、自分の暮らしの中へ入ってきても、何も壊さないのかもしれない。

 ふと、そのようなことを思った。

 まだ何も決まっていない。

 縁之丞が、弓香と同じものを望んでいるとも限らない。

 それでも、一度浮かんだ未来は、すぐには消えなかった。

「少し、寄っていきませんか」

 弓香は、通りの先にある店を示した。

 古い木造の、小さな土産物店だった。

「よいのですか」

「はい。せっかくこちらまでいらしたのですから」

 縁之丞は店を見てから、弓香へうなずいた。

 二人で戸を開ける。

 軒先に下がっていた木札が、背後で小さく鳴った。

 店の中には、和柄の小物や菓子、木で作られた置物が並んでいた。木と紙の匂いに、奥から漂う菓子の甘さが混じっている。

 狭い店だった。

 二人で並ぶと、肩の距離が自然と近くなった。

 弓香はそのことを意識しないように、棚へ目を向けた。

「かわいらしいですね」

 淡い花柄の巾着を手に取る。

 細い紐の先には、小さな玉飾りがついていた。

「女性への贈り物にも、よさそうです」

「母さんなら、こういうの好きそうです」

「では、お土産になさっては」

「そうします」

 縁之丞は、いくつかの巾着を見比べ始めた。

 色合いをたしかめ、柄を見て、一度棚へ戻したものをまた手に取る。

「迷われるのですね」

「せっかくなら、喜ばれるものがいいので」

「お母様のお好きな色は?」

「明るい色が好きだと思います。でも、派手すぎると使わないかも」

 縁之丞は、真剣な顔で考えていた。

 その横顔を、弓香はそっと見つめた。

 母親への土産を、これほど丁寧に選ぶ人なのだ。

 縁之丞の家での姿を、少しだけ想像した。

 土産を差し出す縁之丞。

 それを受け取って笑う母親。

 弓香の知らない暮らしが、縁之丞にもある。

 当たり前のことだった。

 それでも、もう少し知りたいと思った。

 どのような家で育ったのか。

 家族とは、どのような話をするのか。

 何を見て笑い、何を大切にしているのか。

 顔合わせの日には、相手の家柄や経歴を知れば十分だと思っていた。

 けれど今は、縁之丞の毎日の中にある、小さなことを知りたかった。

 縁之丞は、淡い黄色の巾着を選んだ。

「こちらになさるのですね」

「はい。たぶん、これがいちばん好きだと思います」

「きっと、お喜びになります」

 それから、縁之丞は父親への土産を探し始めた。

「父さんには、食べ物の方がいいかな」

「甘いものは召し上がりますか」

「何でも食べます」

「では、選びやすいですね」

「選びやすいのかな」

 二人で小さく笑った。

 先ほどまで自分の家にいた人と、今は小さな店を並んで見ている。

 何でもない時間だった。

 けれど弓香には、その何でもなさが、どこか幸福なものに思えた。

 道場で弓を引くことも。

 家族と言葉を交わすことも。

 こうして町の店を歩くことも。

 縁之丞となら、すべてが一つの時間として自然につながっていく。

 何か特別なことがなくてもよいのかもしれない。

 何も起きない日々を、こうして隣で歩けるなら。

 それだけで十分なのかもしれない。

 店の奥へ進んだとき、縁之丞が足を止めた。

「……何これ」

 棚の隅に、木でできた猫の置物があった。

 左右で耳の大きさが違う。目は半分閉じ、口元には、笑っているのか困っているのか分からない線が彫られていた。

 かわいいと言うには、少し変だった。

 けれど見ていると、だんだん気になってくる顔だった。

「気になりますか」

 弓香は、縁之丞の隣へ立った。

「ちょっと変な置物で」

「たしかに」

 弓香も猫の顔を見た。

「不思議なお顔ですね」

「見ていると、だんだん面白くなりません?」

「はい」

「少しだけ、かわいくも見えてきました」

「そうですね」

 二人で並び、しばらくその猫を見ていた。

 縁之丞は笑っていた。

 声を立てるほどではない、やわらかな笑い方だった。

 けれど次の瞬間、その目がほんの少しだけ遠くなった。

 猫を見ているはずなのに、視線はその向こうへ抜けている。

 今ここにはいない誰かの顔を、思い浮かべたように見えた。

 弓香は、その変化に気づいた。

 武道を続けていると、人の小さな動きへ自然と目が向く。

 呼吸。

 視線。

 重心。

 言葉を出す前の、わずかな間。

 縁之丞の身体は、弓香の隣にあった。

 けれど心だけが一瞬、別の場所へ向いたようだった。

 この猫を見たら、きっと笑う。

 そのように思う相手がいるような目だった。

「どなたかへの、お土産ですか」

 弓香は、できるだけ何でもないことのように尋ねた。

 縁之丞は、すぐには答えなかった。

 ほんの一息ぶんの間があった。

 それから、猫の置物から目を離した。

「まだ、決めてません」

「そうですか」

 弓香は、それ以上聞かなかった。

 本当に決めていないのかもしれない。

 家族の誰かを思い出しただけかもしれない。

 友人かもしれない。

 深く考えるようなことではない。

 そう思った。

 けれど、胸の中に小さなものが残った。

 痛みと呼ぶほどではない。

 不安と決めるには、まだ形がない。

 ただ、指先へ刺さった細い棘のように、そこにあることだけは分かった。

 縁之丞は、猫の置物を棚へ戻した。

 少し名残惜しそうにも見えたが、買おうとはしなかった。

「お気に召したのでは?」

 弓香が尋ねると、縁之丞は苦笑した。

「家に置く場所がないので」

「小さなものですけれど」

「こういうもの、一つ買うと増えていきそうじゃないですか」

「集めたくなるお顔ではございますね」

「弓香さんも、かわいいと思ってるじゃないですか」

「少しだけです」

 いつもどおりのやり取りだった。

 二人はまた笑った。

 縁之丞は父親への菓子を選び、会計を済ませた。

 店を出たあとも、いつもと変わらず弓香と話した。

 兄たちの挨拶を思い出して笑い、弓の礼をもう一度言った。

 だから、気にする必要はなかった。

 あの短い沈黙など、すぐに忘れてしまえばよかった。

 縁之丞にも、家族や友人がいる。

 弓香の知らない思い出がある。

 何かを見て誰かを思い出すことなど、少しも不自然ではない。

 そのようなことは、弓香にもある。

 分かっている。

 それでも弓香は、猫の顔よりも、その猫を見つめていた縁之丞の目を覚えていた。


◇


 その日から、弓香は縁之丞の小さな変化へ気づくようになった。

 何度か会ううちに、二人のあいだには、以前よりも自然な時間が増えていった。

 食事をした。

 町を歩いた。

 弓香が縁之丞へ弓を教え、縁之丞が剣の話をした。

 ときどき、何も話さずに歩くこともあった。

 弓香は、その静けささえ好きだった。

 縁之丞といると、無理に話を作らなくてもよかった。

 年上らしくしなければと、初めのころほど強く思わなくなった。

 笑いたいときに笑い、分からないときには分からないと言えた。

 少し疲れたときには、疲れたとも言えるようになった。

 以前なら、顔合わせの相手の前で、そのような姿を見せようとは思わなかった。

 頼りなく見えてはいけない。

 欠点を見せてはいけない。

 相手に失望されないよう、正しく振る舞わなければならない。

 そう考えていた。

 けれど縁之丞の前では、完璧でなくてもよいような気がした。

 そのことが、弓香にはうれしかった。

 会う日の朝には、少し早く目を覚ました。

 着物を選ぶ時間も長くなった。

 縁之丞から連絡が届けば、すぐに開きたい気持ちを抑え、自室へ戻ってから読んだ。

 次に会う日が決まれば、その日までの日数を数えた。

 弓香の暮らしの中へ、縁之丞を待つ時間が増えていった。

 けれど、何かを見つけたとき。

 縁之丞の目が、ときどき遠くなった。

 珍しい料理を見たとき。

 店先に変わった品が並んでいたとき。

 何かがうまくできて、うれしそうにしたとき。

 縁之丞は、ほんの一瞬だけ、弓香のいない場所へ心を向けた。

 すぐに戻ってくる。

 弓香へ話しかけ、いつもどおりに笑う。

 だから、気にしなければよかった。

 けれど、一度気づいてしまうと、その一瞬が目に入るようになった。

 また。

 今も。

 誰かを思い出しましたね。

 弓香は、心の中でそう思う。

 けれど、口には出さなかった。

 ある日、二人で食事をした。

 縁之丞は、初めて食べる料理を前にして、少し驚いた顔をした。

「これ、おいしいですね」

「お気に召しましたか」

「はい」

 そう答えたあと、縁之丞の目が、皿の向こうへわずかにずれた。

 一瞬だけ、口元がやわらかくなる。

 弓香ではない誰かと、同じ料理を食べるところを思い浮かべたように見えた。

「どなたかにも、召し上がっていただきたいのですか」

 そう尋ねそうになり、弓香は紅茶へ手を伸ばした。

 聞く必要はない。

 ただ、おいしいと思っただけかもしれない。

 家族への土産を考えただけかもしれない。

 そう自分へ言い聞かせた。

 また別の日には、町の店先で、変わった髪飾りを見つけた。

 淡い色の布で作られた、小さな花の飾りだった。

 縁之丞は足を止め、しばらくそれを眺めた。

「贈り物ですか」

 弓香が尋ねると、縁之丞はすぐに笑った。

「いえ、何でもないです」

 そう言って歩き出した。

 けれど、何でもないものを見る目ではなかった。

 誰かがそれを身につけた姿を、思い浮かべていたように見えた。

 弓香は、それ以上聞かなかった。

 聞かないことが、少しずつ増えていった。

 誰を思い出しているのか。

 どれほど長く知っている相手なのか。

 自分と会っているときにも思い出すほど、その人は大切なのか。

 質問は胸へ浮かんだ。

 けれど、声にはならなかった。

 聞けば、答えてくれるかもしれない。

 縁之丞は、嘘をつくことが得意な人には見えなかった。

 だからこそ、聞くことがこわかった。

 答えを知りたいはずなのに、知ってしまえば、今の時間が変わってしまうような気がした。

 誰なのですか。

 大切な人なのですか。

 その人を、お好きなのですか。

 そこまで尋ねられるほど、弓香と縁之丞の関係はまだ深くなかった。

 けれど、何も気にしないでいられるほど、弓香の思いは浅くもなくなっていた。

 自分の思い過ごしかもしれない。

 縁之丞に、特別な人などいないかもしれない。

 ただの友人。

 ただの家族。

 長く付き合ってきた誰かなのかもしれない。

 恋ではない。

 そう思おうとした。

 けれど、縁之丞がその誰かを思い出すときだけ、表情がほんの少しやわらかくなる。

 弓香と話しているときにも、縁之丞はよく笑った。

 その笑顔を見ることは、うれしかった。

 けれど、それとは違った。

 もっと自然で。

 もっと慣れていて。

 考えるよりも先に、その人が心の中へ現れているような顔だった。

 何かを見つけたとき、伝えたいと思う相手。

 面白いことがあれば、一緒に笑う姿を思い浮かべる相手。

 そこには、弓香がまだ入れない場所がある。

 弓香と出会うよりも前から、誰かがいる場所がある。

 そのことを、弓香は少しずつ知っていった。

 それでも、縁之丞に会うことはうれしかった。

 連絡が届けば、胸が弾んだ。

 次の約束が決まれば、その日を待った。

 会っているあいだは、何度も笑った。

 縁之丞の隣を歩くことにも、少しずつ慣れていった。

 別れるときには、また、と言い合った。

 だからこそ、縁之丞の目が一瞬だけ遠くなるたび、その短い時間が、以前よりもはっきりと分かるようになった。

 ほんの一瞬だった。

 縁之丞自身も、気づいていないほど短いのかもしれない。

 けれど、弓香には見えた。

 見えなければよかったと思うこともあった。

 人の動きを見ることは、弓香の身を守ってきた。

 相手の呼吸を読み、重心の変化を見て、次の動きを知る。

 幼いころから身につけてきたものだった。

 けれど今は、その目が、見たくないものまで見つけてしまう。

 縁之丞の心が、どこへ向いたのか。

 自分の前にいながら、誰を思い出したのか。

 分からないままでも、そこに誰かがいることだけは見えてしまった。

 初めは、ただの違和感だった。

 猫の置物を見たときの、わずかな間。

 それだけだった。

 けれど、同じことが何度も重なる。

 縁之丞の心の中には、自分ではない誰かがいる。

 その考えは、しだいに消せなくなった。


◇


 縁之丞と会った夜、弓香は自室の鏡の前へ座った。

 髪飾りを外し、髪をほどく。

 櫛を通すたび、昼間のことが一つずつよみがえった。

 話した言葉。

 歩いた道。

 笑った顔。

 いつもなら、それだけで胸の奥があたたかくなった。

 縁之丞と会った日は、言われた言葉を何度も胸の中で繰り返した。

『すてきだと思います』

『きれいでした』

『また、教えてもらってもいいですか』

 その一つひとつが、自分の中に希望を作ってくれた。

 強いままでもよい。

 武道を手放さなくても、誰かの隣へ立てるかもしれない。

 縁之丞なら、そのような自分を見てくれるかもしれない。

 そう思い始めていた。

 けれどその夜は、縁之丞の笑った顔よりも、遠くなった目ばかりが浮かんだ。

 あのとき、誰を思い出していたのだろう。

 何を見せたいと思ったのだろう。

 誰と一緒に笑うところを考えていたのだろう。

 櫛を持つ手が止まった。

 鏡の中には、いつもより少し暗い顔をした自分がいた。

 弓香は、その顔を見つめた。

 このような表情をする自分を、これまで知らなかった。

 顔合わせの相手が別の女性を好きであったとしても、気にしたことはなかった。

 自分も、相手へ心を求めていなかったから。

 家同士が納得し、夫婦としての役目を果たせればよいと思っていた。

 けれど、縁之丞には自分を見てほしいと思った。

 自分のことを特別に思ってほしいと、いつの間にか願っていた。

 だから、縁之丞の心に自分ではない誰かがいるかもしれないことが、こわかった。

 弓香は、考えることをやめようとした。

 まだ何も分からない。

 縁之丞は、自分へまた会いたいと言った。

 道場にも来た。

 自分の射をきれいだと言った。

 強い自分を、すてきだと言ってくれた。

 それは、嘘ではない。

 縁之丞が弓香といる時間を楽しんでくれていることも、きっと嘘ではない。

 だから。

 もしかしたら。

 まだ。

 そう思っていたかった。

 自分の勘違いかもしれない。

 ただの古い友人かもしれない。

 縁之丞自身も、その人を特別だと思ってはいないかもしれない。

 長くそばにいることと、恋をしていることは同じではない。

 家族のように親しい人かもしれない。

 弓香は、何度もそう考えた。

 考えるたび、少しだけ安心した。

 けれど、その安心は長く続かなかった。

 もし、その誰かが、縁之丞にとって本当に大切な人だったなら。

 自分は、どうすればよいのだろう。

 それを知ってしまったとき、今のように笑っていられるのだろうか。

 縁之丞と会うたび、うれしかった。

 また会いたいと思った。

 次の約束を待った。

 強い自分のままでも、誰かの隣へ立てるかもしれないと、ほんの少し信じ始めていた。

 だからこそ、自分ではない誰かの存在がこわかった。

 まだ、名前も知らない。

 顔も知らない。

 本当にいるのかさえ、たしかではない。

 それでも、その人は、すでに縁之丞の心の中にいるように思えた。

 弓香よりも前から。

 弓香の知らない時間の中で。

 何かを見つけたとき、真っ先に思い出すことができるほど、当たり前の場所に。

 そのことを考えると、胸が静かに痛んだ。

 弓香は、鏡から目をそらした。

 聞いてはいけない。

 まだ。

 答えを知るには早い。

 縁之丞と自分は、まだ何も約束していない。

 好意を告げられたわけでもない。

 弓香が一人で期待し、勝手に不安になっているだけなのかもしれない。

 問いただす権利などなかった。

 それに、このまま知らないふりをしていれば、もう少しだけ縁之丞と会える。

 もう少しだけ、希望を持っていられる。

 弓香は、ほどいた髪へもう一度櫛を通した。

 けれど、違和感はもう消えなかった。

 見ないふりをしても、胸の奥に残っていた。

 自分ではない、誰か。

 まだ顔も見えないその人が、縁之丞の遠くなる目の中で、少しずつ形を持ち始めていた。

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