第5節 希望
約束の日までの数日、弓香はいつもと同じように過ごした。
朝に弓を引き、昼には家の用事をし、夕方には再び道場へ立った。
何も変わらない毎日のはずだった。
けれど、その中へ小さな楽しみが一つ加わっただけで、日々の見え方が少し変わった。
縁之丞が来る。
そう思うだけで、道場の床にある小さな傷が気になった。いつもなら見過ごすほどのものだったのに、自分で布をかけ、何度も磨いた。
弓の手入れにも、普段より長く時間をかけた。
弦をたしかめ、握り革を整え、使っていない弓まで一本ずつ見ていった。
縁之丞に貸すなら、どの弓がよいだろう。
重すぎてはいけない。けれど、軽すぎても引きにくい。
いくつか手に取り、張りをたしかめた。
門から道場までの道を歩きながら、どのように案内すればよいかも考えた。
見慣れた庭。
古い母屋。
長い廊下。
幼いころから何度も行き来してきた場所を、縁之丞の目ではどのように見えるのだろうと思った。
誰かが来るからといって、これほど家の中を見直したことはなかった。
客を迎えることには慣れている。
天音家には、人の出入りも多い。
けれど今度来るのは、家の客というだけではなかった。
弓香が、自分で招いた人だった。
その違いは小さなはずなのに、胸の中では思っていたよりも大きかった。
約束の日、弓香はいつもより少し早く目を覚ました。
まだ外は明るくなりきっていなかった。
布団の中で目を閉じたまま、今日なのだと思った。
それだけで、胸が一度大きく鳴った。
起き上がるにはまだ早かったが、もう一度眠ることはできそうになかった。
弓香は布団を抜け出し、身支度を整えると道場へ向かった。
朝の道場には、誰もいなかった。
磨かれた床には淡い光が差し、的場の土には夜の冷たさが残っていた。
弓香は、いつものように弓を取った。
足を開き、呼吸を整える。
けれど、いつものようには集中できなかった。
縁之丞は、どのような顔で自分の射を見るのだろう。
失敗したらどうしよう。
矢が外れることなど、めったにない。
それでも、今日に限って外れるような気がした。
きちんと射ようと思うほど、指先へ余計な力が入った。呼吸が浅くなり、肩がわずかに上がる。
放った矢は的へ当たったが、中心から少し離れた。
弓香は、しばらく的を見つめた。
当たってはいる。
けれど、自分の射ではなかった。
もう一本、矢をつがえる。
今度こそと思った瞬間、また縁之丞の顔が浮かんだ。
弓香は、弓を下ろした。
このようなことで乱れるのは、武人としてどうなのだろう。
自分へ少しだけ腹が立った。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
誰かに見てほしいと思うこと。
その人の前で、きれいに射たいと思うこと。
そういう気持ちを、自分の中へ持てたことが、どこかうれしかった。
これまでは、正しく射ることだけを考えてきた。
父や兄たちに認められたいと思ったことはある。
師に恥じない射をしたいと思ったこともある。
けれど、一人の男性に見てほしいと思ったことはなかった。
どう見られるのかが、これほど気になったこともなかった。
弓香は弓を置き、静かに息を吐いた。
今日のために、特別な射をする必要はない。
いつもの自分を見てもらえばよい。
そう思った。
そのはずなのに、胸の音はなかなか静まらなかった。
縁之丞が来る前に、弓香は道着へ着替えた。
白い道着。
濃紺の袴。
いつも身につけているものだった。
何百回も袖を通し、着方に迷うことなどない。
けれど、その日は着替えを終えてから鏡の前へ立った。
髪に乱れはないか。
袴のひだは整っているか。
帯の位置はおかしくないか。
何度もたしかめた。
いつもと同じでよい。
弓を引くのだから、華やかに見せる必要はない。
そう思った。
それでも心のどこかには、縁之丞にきれいだと思ってほしい気持ちがあった。
そのことへ気づくと、弓香は鏡から目をそらした。
自分でも、少し恥ずかしかった。
これまで、容姿を褒められることには慣れていた。
むしろ、顔や着物ばかりを見られることを、さびしいと思っていた。
それなのに、縁之丞には女性としても見てほしいと思っている。
強さを分かってほしい。
積み重ねてきたものを見てほしい。
それだけではなく、きれいだとも思ってほしい。
一つの思いの中に、いくつもの願いが重なっていた。
それをどう扱えばよいのか、弓香にはまだ分からなかった。
やがて、家の者から縁之丞が到着したと知らされた。
弓香は道場を出た。
歩く速さを変えないよう気をつけた。
急いでいると思われたくなかった。
けれど、門の近くで待つ縁之丞を見つけた瞬間、足がわずかに速くなった。
「お待たせいたしました」
「いえ」
縁之丞は、屋敷の方を見上げた。
「すごいですね」
「古いだけです」
「古いっていう広さじゃないと思います」
その言葉に、弓香は少し笑った。
縁之丞は、顔合わせの日に着ていたものとは違う、動きやすそうな服を着ていた。
弓を引くつもりで来てくれたのだと分かり、それだけでうれしかった。
「迷われませんでしたか」
「大丈夫でした。ただ、門の前で少し迷いました」
「門の前で、ですか」
「本当に入っていいのかと思って」
縁之丞は、門の向こうにある屋敷をもう一度見た。
「俺だけ、場違いじゃないですか」
「そのようなことはございません」
弓香は、すぐに答えた。
「私がお招きしたのですから」
言ってから、自分の言葉が思ったよりも強く響いたことに気づいた。
縁之丞も少し目を見開いた。
弓香は、照れを隠すように道場の方へ身体を向けた。
「こちらです」
「はい」
門から道場まで、二人で並んで歩いた。
縁之丞は、庭や建物を珍しそうに見ていた。古い木の幹や、道の脇に置かれた石まで、何かを見つけるたびに足を少し緩めた。
弓香は、一つずつ説明した。
あちらが母屋。
奥にあるのが剣術の道場。
さらに向こうには、兄たちがよく使う稽古場があること。
この道は、幼いころから毎朝通ってきたこと。
自分にとっては、見慣れた場所だった。
けれど、縁之丞が見ていると、いつもとは違う場所のように感じられた。
「弓香さんは、ここで育ったんですね」
「はい」
ただそれだけの言葉だった。
けれど、自分の生きてきた場所を見てもらっているのだと思うと、胸の中が少しあたたかくなった。
道場へ着き、扉を開いた。
「こちらです」
縁之丞は中へ入ると、足を止めた。
「広い」
磨かれた床。
長く使われてきた柱。
壁際へ並べられた弓。
開け放たれた先にある、静かな的場。
縁之丞は、ゆっくりと見回した。
「こちらで、毎日稽古をされているんですか」
「はい」
「小さいころから?」
「そうです」
弓香も、道場の中へ目を向けた。
「ほとんど毎日、ここへ来ております」
自分の声に、少しだけ誇らしさが混じった。
ここで何度も泣いた。
何度も転んだ。
指の皮がむけ、腕が上がらなくなっても、翌日にはまた立った。
できなかったことが、少しずつできるようになった。
兄たちに追いつきたいと思った日もあった。
女だからと手加減されたくなくて、黙って稽古を増やしたこともあった。
この場所には、弓香が生きてきた時間の多くが残っていた。
その場所へ、縁之丞を招いた。
改めて考えると、それは自分が思っていたよりも大きなことだった。
「少々、お待ちください」
弓香は、自分の弓を取りに道場の奥へ入った。
手にした弓は、一般に使われるものよりも少し太く、張りも強い。
長いあいだ使い続けてきた、自分だけの弓だった。
「その弓」
縁之丞が言った。
「ほかのものより、少し大きいですか」
弓香は、思わず顔を上げた。
「よくお気づきになりましたね」
「何となくですけど。ほかの弓より、少し重そうに見えました」
「私に合わせて、作っていただいたものです」
「専用なんですか」
「はい」
弓香は、手の中の弓を見た。
握り革には、長く使ってきた跡が残っていた。自分の手にだけなじむ形へ、少しずつ変わってきたものだった。
「初めは、まったく引くことができませんでした」
「そうなんですか」
「二年ほどかかりました」
「二年」
「指の皮がむけたり、腕が上がらなくなったりもしました」
「それでも、毎日?」
「はい」
「やめようとは思わなかったんですか」
弓香は、少しだけ考えた。
「つらいと思ったことはございます」
「はい」
「ですが、やめたいと思ったことは、あまりありませんでした」
弓を引けないことは悔しかった。
けれど、弓そのものを嫌いになったことはなかった。
できない日ほど、次の日もここへ来たいと思った。
「好きなんですね」
縁之丞が言った。
飾りのない、まっすぐな言葉だった。
「はい」
弓香も、迷わず答えた。
「好きです」
縁之丞は、弓を見る目を変えた。
珍しいものを見る目ではなかった。
弓そのものではなく、そこに重ねられた時間を想像しようとしているようだった。
その目を見て、弓香はうれしくなった。
「よろしければ、持ってみますか」
「いいんですか」
「はい」
縁之丞は、弓を両手で受け取った。
思っていたよりも重かったのか、手元がわずかに沈んだ。それでもすぐに姿勢を整え、弦へ指をかける。
力を入れる。
弦は少しだけ動いた。
けれど、途中で止まった。
「かたい」
縁之丞は、苦笑しながら力を緩めた。
「これは無理です」
「私も、初めはそれほど引けませんでした」
「今は、普通に引けるんですよね」
「普通かどうかは分かりません」
弓香は弓を受け取った。
「ですが、今は」
その言葉の先を告げず、射位へ向かった。
縁之丞に、自分の射を見てもらう。
そのために招いた。
けれど、いざそのときになると、足の裏が少しだけ冷たく感じられた。
いつも立っている場所だった。
何千回も立ってきた。
けれど今日は、縁之丞が見ている。
弓香は足を開き、姿勢を整えた。
息を吸う。
弓を持ち上げる。
いつもなら、ここから先は何も考えない。
身体が覚えているとおりに動く。
けれど今日は、背中へ縁之丞の視線を感じた。
きちんと見てほしい。
失敗したくない。
きれいだと思ってほしい。
その気持ちが、呼吸の中へ混じった。
弓香は、一度だけ目を閉じた。
息を吐く。
縁之丞に見せるためではない。
的へ当てるためだけでもない。
自分が積み重ねてきたとおりに射ればよい。
目を開く。
相手は的。
いつもどおりに。
弦を引く。
弓が、自分の身体へなじんでいく。
肩の力を抜く。
息を整える。
矢と、的と、自分だけになる。
指を放した。
弦の音が、道場へ響いた。
矢はまっすぐに飛び、的の中央へ刺さった。
遅れて、乾いた音が返ってくる。
弓香は、すぐには構えを解かなかった。
矢を放ったあとまでが、一つの射だった。
呼吸を整え、ゆっくりと弓を下ろす。
そのとき。
「きれいですね」
縁之丞の声がした。
弓香の胸が止まった。
ゆっくりと振り返る。
縁之丞は、まっすぐこちらを見ていた。
きれい。
その言葉を、自分へ向けられたのだと思った。
ほんの一瞬だけ。
道着姿の自分を。
弓を持つ自分を。
女性としてきれいだと思ってくれたのかもしれない。
そのように期待してしまった。
「射が、ですか」
弓香は、たしかめるように聞いた。
「はい」
縁之丞は、すぐにうなずいた。
胸の中に、小さな落胆が生まれた。
やはり、射のことだった。
自分でも驚くほど、女性として褒められたかったのだと、そのとき初めて気づいた。
けれど、縁之丞は続けた。
「弓を上げるところから、矢を放ったあとまで、何も無駄がなくて」
言葉を探すように、少し間を置く。
「すごく、きれいでした」
弓香は、何も言えなかった。
顔ではない。
着物でもない。
家柄でも、令嬢としての振る舞いでもない。
自分が何年もかけて、何度も失敗して、それでも積み重ねてきた射を見て、きれいだと言ってくれた。
女性として褒められなかった小さなさびしさよりも、そのことの方がずっとうれしかった。
きれいだと思われたかった自分も、射を見てほしかった自分も、どちらも本当だった。
けれど、縁之丞が見つけてくれたものは、弓香がもっとも大切にしてきたものだった。
「ありがとうございます」
弓香は、ようやく言った。
声が少しやわらかくなった。
胸の中が、あたたかかった。
縁之丞に見てほしいと思った。
そして、見てもらえた。
それだけで、今日という日が特別なものになった。
「今度は、縁之丞さんです」
弓香は、壁際にある弓の中から一本を選んだ。
「俺もですか」
「せっかくですから」
「当たらないと思いますよ」
「当てることだけが弓ではありません」
縁之丞にも扱える弓を手渡す。
縁之丞は少し緊張した顔で受け取り、射位へ立った。
足を開く。
姿勢を作る。
基礎は学んでいる。
けれど、久しぶりなのだろう。重心が少し前へずれていた。
「右足を、もう少し外へ」
「こうですか」
「はい」
弓香は足元を見た。
「重心を、ほんの少しだけ後ろへ」
「難しいですね」
「急がなくて大丈夫です」
縁之丞が弓を持ち上げる。
肩へ力が入っていた。
「肩の力を抜いてください」
「抜いているつもりなんですけど」
「まだ、少し」
弓香は縁之丞の隣へ立った。
肩へ手を添える。
「こちらです」
触れた瞬間、胸が大きく鳴った。
近い。
思っていたよりも、ずっと近かった。
縁之丞の肩の高さ。
衣服の下で動く呼吸。
かすかな汗と、外の風が混じった匂い。
そのようなものが、急にはっきりと分かった。
弓香は手を離しそうになった。
けれど、教えている途中だった。
落ち着かなければならない。
今は、自分が教える側なのだから。
「肘を、もう少し後ろへ」
声がいつもどおりに出ているか、自信がなかった。
縁之丞の腕へ、そっと触れる。
位置を直す。
指先から伝わる体温を意識するたび、胸の音が大きくなった。
聞こえてしまうのではないかと思った。
けれど、縁之丞は弓へ集中していた。弓香の胸の内には気づいていないようだった。
そのことに、少し安心した。
同時に、ほんの少しだけ、さびしくも思った。
縁之丞にも自分と同じように、この距離を意識してほしい。
そのように願っていることへ気づき、弓香は慌てて弓へ目を戻した。
「そのままです」
弓香は言った。
「では、放してください」
縁之丞が指を離す。
矢が飛ぶ。
中央からは離れていたけれど、的の端へ刺さった。
「当たった」
縁之丞の顔が、子どものように明るくなった。
弓香も、思わず笑った。
「お見事です」
「本当に?」
「はい。基礎を学ばれていたことが分かります」
「弓香さんに教えてもらったからですよ」
自分の名前を呼ばれた。
これまでは、天音さんと呼ばれていた。
たったそれだけの違いだった。
それなのに、胸がまた大きく鳴った。
弓香は、すぐには返事ができなかった。
「……少し、お伝えしただけです」
「でも、当たりました」
「筋がよいのだと思います」
平静を保とうとしながら答えた。
けれど、自分の名を呼ばれた余韻は、胸の中へ残り続けていた。
縁之丞は、うれしそうに的を見ていた。
その横顔を、弓香はそっと見つめた。
自分が教えたことで、縁之丞が喜んでいる。
そのことがうれしかった。
この人と、こうして何度も時間を重ねられたら。
また道場へ来てもらえたら。
次は、もう少しまっすぐ飛ばせるように教えられたら。
そんなことを思った。
それは、つい数日前までの弓香なら、考えもしなかったことだった。
顔合わせの相手との未来を思い描くことなどなかった。
けれど今は、次に同じ場所へ立つ二人の姿が、自然に思い浮かんだ。
稽古を終えるころには、外の光が橙色へ変わっていた。
道場の床にも、二人の長い影が伸びていた。
縁之丞は弓を元の場所へ戻し、弓香へ頭を下げた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「また、教えてもらってもいいですか」
弓香は、すぐに返事ができなかった。
また。
その言葉が、胸の中へ落ちた。
自分だけが、次の時間を望んでいたのではなかった。
「もちろんです」
できるだけ、いつもどおりに答えた。
けれど、笑顔までは隠せなかった。
二人で道場を出た。
屋敷へ続く長い廊下を、並んで歩く。
縁之丞は、弓を引いた右の肩をときどき動かしていた。
「明日は、少し筋肉痛になるかもしれませんね」
弓香が言うと、縁之丞は苦笑した。
「やっぱりですか」
「剣とは、使うところが違いますので」
「明日、竹刀を振れるかな」
「無理はなさらないでください」
「弓香さんに言われると、説得力がありますね」
「私も、何度も無理をしましたから」
「やっぱり、したんですね」
「はい」
弓香は少しだけ笑った。
いつもなら、それほど面白い話ではなかった。
けれど縁之丞と話していると、何でもない言葉まで、少しやわらかくなる。
廊下の外には、手入れの行き届いた庭が広がっていた。
木々のあいだから夕方の光が差し、磨かれた床へ細長く落ちている。
道場で過ごした時間の名残が、まだ二人のあいだに残っていた。
縁之丞は、弓香の射をきれいだと言った。
また教えてほしいとも言った。
その言葉を思い出すたび、胸の奥があたたかくなった。
次がある。
また会える。
そう思えることが、弓香にはうれしかった。
廊下の向こうから、三人の男が歩いてきた。
三人とも、よく似た足取りだった。
音が少なく、身体の中心が少しもぶれていない。歩いているだけなのに、いつでも動けるように見える。
「お兄様方」
弓香は足を止めた。
三人も、ほとんど同時に立ち止まった。
「これから、お稽古でございますか」
「ああ」
先頭にいた長兄の槍士が、短く答えた。
「三人で、少し身体を動かすところだ」
槍士は背が高く、立っているだけで一本の槍のように見える人だった。長い手足にも、無駄なところがない。
その隣にいる次兄の刀也は、静かな男だった。言葉は多くないが、目の動きには鋭さがあった。何も見ていないような顔をして、誰よりも細かなところを見ている。
三男の剣吾は、兄たちより少しだけ若い。感情を隠すことが、あまり上手ではなかった。
今も、縁之丞のことを遠慮なく見ていた。
三人とも、弓香へ向ける目だけはやわらかかった。
「今日の稽古は終わったのか」
槍士が尋ねた。
「はい。縁之丞さんに、弓をお教えしておりました」
「そうか」
槍士はうなずき、弓香の手元へ一度目を落とした。
「手を痛めてはいないか」
「大丈夫です」
「疲れてはいないか」
刀也が続けた。
「いつもの稽古よりは、軽いくらいです」
「水は飲んだか」
剣吾まで尋ねた。
「いただきました」
弓香は、一つずつ答えた。
昔から、兄たちはこのような人たちだった。
弓香が少し怪我をすれば、誰よりも早く気づいた。稽古でうまくいかない日には、何も聞かずにそばへいた。初めて強い弓を引けた日には、自分のことのようによろこんでくれた。
ありがたいと思っている。
けれど、ときどき、少しだけ心配しすぎではないかとも思う。
「こちらが」
弓香は、縁之丞の方へ手を向けた。
「先日お話しした、霧島縁之丞さんです」
「本日は、道場までお招きいただき、ありがとうございました」
縁之丞は丁寧に頭を下げた。
「ああ」
槍士が答えた。
「話は聞いている」
「弓香が、自分から道場へ招いたそうだな」
刀也が言う。
「はい」
縁之丞は、もう一度うなずいた。
剣吾だけは何も言わなかった。
ただ、縁之丞を上から下まで見ている。
顔。
肩。
立ち方。
足の位置。
手の置き方。
まるで、これから試合をする相手を見定めているようだった。
弓香は、その視線に気づいた。
「剣吾お兄様」
「なんだ」
「あまり見つめては、失礼です」
「見ていただけだ」
「それを申しております」
剣吾は、少しだけ目をそらした。
縁之丞は、困ったように笑っていた。
その笑顔を見て、弓香はほっとした。少なくとも、気分を害してはいないようだった。
何げない話を少し交わしたあと、弓香は道場へ弓を一本置いたままであることを思い出した。
「申し訳ありません」
足を止める。
「弓を一本、片づけ忘れてしまいました」
「手伝いましょうか」
縁之丞が言った。
「いいえ。すぐに戻りますので」
弓香は兄たちを見た。
「お兄様方」
「ああ」
槍士は、すぐにうなずいた。
「霧島殿とは、話をしておこう」
その言葉に、弓香は少しだけ不安を覚えた。
「普通に、お願いいたします」
「分かっている」
本当に分かっているのだろうか。
そう思ったけれど、言わなかった。
「すぐに戻ります」
弓香は、来た道を引き返した。
道場へ戻り、置いたままの弓を取り上げる。弦をたしかめ、元の場所へ片づけた。
ほんの短い時間だった。
けれど廊下へ戻るころには、先ほどまで聞こえていた話し声が消えていた。
角を曲がる。
三人の兄たちは、縁之丞から少し離れたところに立っていた。
槍士は腕を組み、刀也は庭を見ている。剣吾は、なぜか天井へ目を向けていた。
縁之丞だけが、少し疲れたような顔をしていた。
「お待たせいたしました」
弓香が声をかけると、四人が一斉にこちらを見た。
「どうかなさいましたか」
「いや」
槍士が答えた。
「霧島殿と、少し話をしていただけだ」
「そうでしたか」
「ああ」
槍士は縁之丞へ目を向けた。
「なかなか、見込みのある青年だ」
縁之丞が、わずかに眉を動かした。
何かあった。
弓香には、すぐに分かった。
けれど、兄たちは何も言わない。
「では、我々は道場へ行く」
刀也が言った。
「弓香」
「はい」
「無理はするな」
「分かっております」
「帰ったら、今日のことを聞かせてくれ」
剣吾が続けた。
「はい」
兄たちは、弓香へはやさしく笑った。
それから縁之丞へ、何かをたしかめるような目を向けた。
「頑張れよ」
槍士が言った。
「何をですか」
縁之丞が尋ねた。
「すべてだ」
「……はい」
三人は、そのまま道場の方へ歩いていった。
姿が見えなくなってから、縁之丞が小さく息をついた。
「あの」
「はい」
「弓香さん」
「どうかなさいましたか」
「さっき、お兄さんたちから」
縁之丞は、少し言いにくそうにした。
「殺すって言われたんですけど」
弓香は、まばたきをした。
「どなたにでしょう」
「三人ともです」
「まあ」
「まあ、で終わるんですか」
縁之丞の顔を見て、弓香は兄たちが何をしたのか、おおよそ分かった。
自分がいないあいだに縁之丞を囲み、きっと余計なことを言ったのだろう。
「申し訳ありません」
弓香は口元へ手を添えた。
「兄たちなりの、挨拶のようなものです」
「天音家の挨拶、こわすぎませんか」
「昔から、少しばかり心配性なのです」
「少しばかりですか」
「はい」
「俺には、かなりに見えました」
「本人たちは、普通だと思っております」
「それがいちばんこわいです」
弓香は、思わず笑った。
縁之丞は、兄たちをこわがりながらも、怒ってはいなかった。天音家のことを悪く言う様子もない。
そのことに、弓香は安心した。
「幼いころから」
弓香は、兄たちが去った方を見た。
「私が怪我をすると、すぐに来てくださいました。落ち込んでいるときも、何も聞かずにそばにいてくださいました」
「はい」
「初めて強い弓を引けた日も、自分のことのようによろこんでくださったのです」
「やさしいお兄さんたちなんですね」
「はい」
弓香は迷わず答えた。
「とても」
「殺すって言われましたけど」
「それを除けば」
「除けないと思います」
弓香は、また笑った。
縁之丞と話していると、家のことまで少しやわらかく見える。
この人が自分の家族と話し、自分の育った場所を歩き、それを嫌がらずに受け入れてくれている。
そのことが、弓香にはうれしかった。
「そういえば」
弓香は、思い出したように言った。
「兄たちは、昔から一つ条件を決めております」
「条件?」
「私と結婚する男性についてです」
縁之丞は、少しだけ身構えた。
その様子が、弓香にはおかしかった。
「自分たち三人よりも強い方でなければ」
「はい」
「私との結婚は認めないそうです」
縁之丞は、しばらく黙った。
「三人全員より?」
「はい」
「槍士さんと」
「はい」
「刀也さんと」
「はい」
「剣吾さんより?」
「はい」
「無理では?」
弓香は笑った。
「冗談です」
縁之丞は、目に見えてほっとした。
「ですよね」
「半分ほどは」
「半分は本気なんですね」
「ええ」
「やっぱり無理では」
「兄たちより強い方は、それほど多くないでしょうね」
「いないとは言わないんですね」
「世の中は広いですから」
縁之丞が笑った。
弓香も笑った。
結婚という言葉を、二人で話している。
ほんの少し前までなら、考えられないことだった。
その言葉は、いつも弓香にとって役目の名前だった。
家と家をつなぐもの。
自分が果たすべき務め。
そこへ心を求めてはいけないもの。
けれど今は、縁之丞の隣でその言葉を口にしても、以前ほど冷たいものには感じなかった。
「ですが」
弓香は、少しだけ照れくさくなりながら言った。
「私は、夫となる方へ、兄たちより強いことを求めてはおりません」
「そうなんですか」
「はい。力だけで、人の価値が決まるわけではありませんから」
縁之丞は、静かにうなずいた。
弓香は、その横顔を見た。
もし、そのような日が来るなら。
自分は、この人の隣へ立つことができるのだろうか。
その思いが、ほんの一瞬だけ胸へ浮かんだ。
弓香は、すぐに目をそらした。
まだ早い。
何も決まってはいない。
けれど、以前の自分なら、思うことさえしなかった未来だった。
二人は再び歩き出した。
長い廊下の先には、外へ続く玄関が見えていた。
今日が終われば、また日常へ戻る。
それでも、すべてが元どおりになるわけではなかった。
縁之丞は、弓香の射を見た。
きれいだと言った。
また教えてほしいと言った。
弓香の家族と会い、少し物騒な挨拶を受けても、隣で笑っていた。
その一つひとつが、胸の中へ残っていた。
もしかしたら。
この人となら。
強い自分のままで。
武道を手放さずに。
誰かの隣へ立つことができるのかもしれない。
まだ、縁之丞が自分をどのように思っているのかは分からない。
今日、楽しかったことも、弓をまた教えてほしいと言ったことも、恋とは限らない。
期待するには、早すぎる。
考えれば、思いを抑えるための理由はいくつもあった。
けれど、その日は、胸へ浮かんだものを完全には消せなかった。
これまで、結婚とは自分の一部を捨てることだと思っていた。
愛されるためには、強さを隠さなければならないのだと思っていた。
けれど、縁之丞は弓香の射を見て、きれいだと言った。
その言葉は、弓香が大切にしてきたものを、否定せずに受け取ってくれた。
玄関へ近づく。
外から入る夕方の光が、二人の足元へ落ちていた。
その先に何があるのかは、まだ分からない。
けれど、歩いてみたいと思った。
ほんの少しだけ。
まだ誰にも言えないほど小さく。
けれど、たしかな希望が、弓香の胸の中に生まれていた。




