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  作者: Atelier Lotus


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5/5

第5節 希望

 約束の日までの数日、弓香はいつもと同じように過ごした。

 朝に弓を引き、昼には家の用事をし、夕方には再び道場へ立った。

 何も変わらない毎日のはずだった。

 けれど、その中へ小さな楽しみが一つ加わっただけで、日々の見え方が少し変わった。

 縁之丞が来る。

 そう思うだけで、道場の床にある小さな傷が気になった。いつもなら見過ごすほどのものだったのに、自分で布をかけ、何度も磨いた。

 弓の手入れにも、普段より長く時間をかけた。

 弦をたしかめ、握り革を整え、使っていない弓まで一本ずつ見ていった。

 縁之丞に貸すなら、どの弓がよいだろう。

 重すぎてはいけない。けれど、軽すぎても引きにくい。

 いくつか手に取り、張りをたしかめた。

 門から道場までの道を歩きながら、どのように案内すればよいかも考えた。

 見慣れた庭。

 古い母屋。

 長い廊下。

 幼いころから何度も行き来してきた場所を、縁之丞の目ではどのように見えるのだろうと思った。

 誰かが来るからといって、これほど家の中を見直したことはなかった。

 客を迎えることには慣れている。

 天音家には、人の出入りも多い。

 けれど今度来るのは、家の客というだけではなかった。

 弓香が、自分で招いた人だった。

 その違いは小さなはずなのに、胸の中では思っていたよりも大きかった。

 約束の日、弓香はいつもより少し早く目を覚ました。

 まだ外は明るくなりきっていなかった。

 布団の中で目を閉じたまま、今日なのだと思った。

 それだけで、胸が一度大きく鳴った。

 起き上がるにはまだ早かったが、もう一度眠ることはできそうになかった。

 弓香は布団を抜け出し、身支度を整えると道場へ向かった。

 朝の道場には、誰もいなかった。

 磨かれた床には淡い光が差し、的場の土には夜の冷たさが残っていた。

 弓香は、いつものように弓を取った。

 足を開き、呼吸を整える。

 けれど、いつものようには集中できなかった。

 縁之丞は、どのような顔で自分の射を見るのだろう。

 失敗したらどうしよう。

 矢が外れることなど、めったにない。

 それでも、今日に限って外れるような気がした。

 きちんと射ようと思うほど、指先へ余計な力が入った。呼吸が浅くなり、肩がわずかに上がる。

 放った矢は的へ当たったが、中心から少し離れた。

 弓香は、しばらく的を見つめた。

 当たってはいる。

 けれど、自分の射ではなかった。

 もう一本、矢をつがえる。

 今度こそと思った瞬間、また縁之丞の顔が浮かんだ。

 弓香は、弓を下ろした。

 このようなことで乱れるのは、武人としてどうなのだろう。

 自分へ少しだけ腹が立った。

 けれど、不思議と嫌ではなかった。

 誰かに見てほしいと思うこと。

 その人の前で、きれいに射たいと思うこと。

 そういう気持ちを、自分の中へ持てたことが、どこかうれしかった。

 これまでは、正しく射ることだけを考えてきた。

 父や兄たちに認められたいと思ったことはある。

 師に恥じない射をしたいと思ったこともある。

 けれど、一人の男性に見てほしいと思ったことはなかった。

 どう見られるのかが、これほど気になったこともなかった。

 弓香は弓を置き、静かに息を吐いた。

 今日のために、特別な射をする必要はない。

 いつもの自分を見てもらえばよい。

 そう思った。

 そのはずなのに、胸の音はなかなか静まらなかった。

 縁之丞が来る前に、弓香は道着へ着替えた。

 白い道着。

 濃紺の袴。

 いつも身につけているものだった。

 何百回も袖を通し、着方に迷うことなどない。

 けれど、その日は着替えを終えてから鏡の前へ立った。

 髪に乱れはないか。

 袴のひだは整っているか。

 帯の位置はおかしくないか。

 何度もたしかめた。

 いつもと同じでよい。

 弓を引くのだから、華やかに見せる必要はない。

 そう思った。

 それでも心のどこかには、縁之丞にきれいだと思ってほしい気持ちがあった。

 そのことへ気づくと、弓香は鏡から目をそらした。

 自分でも、少し恥ずかしかった。

 これまで、容姿を褒められることには慣れていた。

 むしろ、顔や着物ばかりを見られることを、さびしいと思っていた。

 それなのに、縁之丞には女性としても見てほしいと思っている。

 強さを分かってほしい。

 積み重ねてきたものを見てほしい。

 それだけではなく、きれいだとも思ってほしい。

 一つの思いの中に、いくつもの願いが重なっていた。

 それをどう扱えばよいのか、弓香にはまだ分からなかった。

 やがて、家の者から縁之丞が到着したと知らされた。

 弓香は道場を出た。

 歩く速さを変えないよう気をつけた。

 急いでいると思われたくなかった。

 けれど、門の近くで待つ縁之丞を見つけた瞬間、足がわずかに速くなった。

「お待たせいたしました」

「いえ」

 縁之丞は、屋敷の方を見上げた。

「すごいですね」

「古いだけです」

「古いっていう広さじゃないと思います」

 その言葉に、弓香は少し笑った。

 縁之丞は、顔合わせの日に着ていたものとは違う、動きやすそうな服を着ていた。

 弓を引くつもりで来てくれたのだと分かり、それだけでうれしかった。

「迷われませんでしたか」

「大丈夫でした。ただ、門の前で少し迷いました」

「門の前で、ですか」

「本当に入っていいのかと思って」

 縁之丞は、門の向こうにある屋敷をもう一度見た。

「俺だけ、場違いじゃないですか」

「そのようなことはございません」

 弓香は、すぐに答えた。

「私がお招きしたのですから」

 言ってから、自分の言葉が思ったよりも強く響いたことに気づいた。

 縁之丞も少し目を見開いた。

 弓香は、照れを隠すように道場の方へ身体を向けた。

「こちらです」

「はい」

 門から道場まで、二人で並んで歩いた。

 縁之丞は、庭や建物を珍しそうに見ていた。古い木の幹や、道の脇に置かれた石まで、何かを見つけるたびに足を少し緩めた。

 弓香は、一つずつ説明した。

 あちらが母屋。

 奥にあるのが剣術の道場。

 さらに向こうには、兄たちがよく使う稽古場があること。

 この道は、幼いころから毎朝通ってきたこと。

 自分にとっては、見慣れた場所だった。

 けれど、縁之丞が見ていると、いつもとは違う場所のように感じられた。

「弓香さんは、ここで育ったんですね」

「はい」

 ただそれだけの言葉だった。

 けれど、自分の生きてきた場所を見てもらっているのだと思うと、胸の中が少しあたたかくなった。

 道場へ着き、扉を開いた。

「こちらです」

 縁之丞は中へ入ると、足を止めた。

「広い」

 磨かれた床。

 長く使われてきた柱。

 壁際へ並べられた弓。

 開け放たれた先にある、静かな的場。

 縁之丞は、ゆっくりと見回した。

「こちらで、毎日稽古をされているんですか」

「はい」

「小さいころから?」

「そうです」

 弓香も、道場の中へ目を向けた。

「ほとんど毎日、ここへ来ております」

 自分の声に、少しだけ誇らしさが混じった。

 ここで何度も泣いた。

 何度も転んだ。

 指の皮がむけ、腕が上がらなくなっても、翌日にはまた立った。

 できなかったことが、少しずつできるようになった。

 兄たちに追いつきたいと思った日もあった。

 女だからと手加減されたくなくて、黙って稽古を増やしたこともあった。

 この場所には、弓香が生きてきた時間の多くが残っていた。

 その場所へ、縁之丞を招いた。

 改めて考えると、それは自分が思っていたよりも大きなことだった。

「少々、お待ちください」

 弓香は、自分の弓を取りに道場の奥へ入った。

 手にした弓は、一般に使われるものよりも少し太く、張りも強い。

 長いあいだ使い続けてきた、自分だけの弓だった。

「その弓」

 縁之丞が言った。

「ほかのものより、少し大きいですか」

 弓香は、思わず顔を上げた。

「よくお気づきになりましたね」

「何となくですけど。ほかの弓より、少し重そうに見えました」

「私に合わせて、作っていただいたものです」

「専用なんですか」

「はい」

 弓香は、手の中の弓を見た。

 握り革には、長く使ってきた跡が残っていた。自分の手にだけなじむ形へ、少しずつ変わってきたものだった。

「初めは、まったく引くことができませんでした」

「そうなんですか」

「二年ほどかかりました」

「二年」

「指の皮がむけたり、腕が上がらなくなったりもしました」

「それでも、毎日?」

「はい」

「やめようとは思わなかったんですか」

 弓香は、少しだけ考えた。

「つらいと思ったことはございます」

「はい」

「ですが、やめたいと思ったことは、あまりありませんでした」

 弓を引けないことは悔しかった。

 けれど、弓そのものを嫌いになったことはなかった。

 できない日ほど、次の日もここへ来たいと思った。

「好きなんですね」

 縁之丞が言った。

 飾りのない、まっすぐな言葉だった。

「はい」

 弓香も、迷わず答えた。

「好きです」

 縁之丞は、弓を見る目を変えた。

 珍しいものを見る目ではなかった。

 弓そのものではなく、そこに重ねられた時間を想像しようとしているようだった。

 その目を見て、弓香はうれしくなった。

「よろしければ、持ってみますか」

「いいんですか」

「はい」

 縁之丞は、弓を両手で受け取った。

 思っていたよりも重かったのか、手元がわずかに沈んだ。それでもすぐに姿勢を整え、弦へ指をかける。

 力を入れる。

 弦は少しだけ動いた。

 けれど、途中で止まった。

「かたい」

 縁之丞は、苦笑しながら力を緩めた。

「これは無理です」

「私も、初めはそれほど引けませんでした」

「今は、普通に引けるんですよね」

「普通かどうかは分かりません」

 弓香は弓を受け取った。

「ですが、今は」

 その言葉の先を告げず、射位へ向かった。

 縁之丞に、自分の射を見てもらう。

 そのために招いた。

 けれど、いざそのときになると、足の裏が少しだけ冷たく感じられた。

 いつも立っている場所だった。

 何千回も立ってきた。

 けれど今日は、縁之丞が見ている。

 弓香は足を開き、姿勢を整えた。

 息を吸う。

 弓を持ち上げる。

 いつもなら、ここから先は何も考えない。

 身体が覚えているとおりに動く。

 けれど今日は、背中へ縁之丞の視線を感じた。

 きちんと見てほしい。

 失敗したくない。

 きれいだと思ってほしい。

 その気持ちが、呼吸の中へ混じった。

 弓香は、一度だけ目を閉じた。

 息を吐く。

 縁之丞に見せるためではない。

 的へ当てるためだけでもない。

 自分が積み重ねてきたとおりに射ればよい。

 目を開く。

 相手は的。

 いつもどおりに。

 弦を引く。

 弓が、自分の身体へなじんでいく。

 肩の力を抜く。

 息を整える。

 矢と、的と、自分だけになる。

 指を放した。

 弦の音が、道場へ響いた。

 矢はまっすぐに飛び、的の中央へ刺さった。

 遅れて、乾いた音が返ってくる。

 弓香は、すぐには構えを解かなかった。

 矢を放ったあとまでが、一つの射だった。

 呼吸を整え、ゆっくりと弓を下ろす。

 そのとき。

「きれいですね」

 縁之丞の声がした。

 弓香の胸が止まった。

 ゆっくりと振り返る。

 縁之丞は、まっすぐこちらを見ていた。

 きれい。

 その言葉を、自分へ向けられたのだと思った。

 ほんの一瞬だけ。

 道着姿の自分を。

 弓を持つ自分を。

 女性としてきれいだと思ってくれたのかもしれない。

 そのように期待してしまった。

「射が、ですか」

 弓香は、たしかめるように聞いた。

「はい」

 縁之丞は、すぐにうなずいた。

 胸の中に、小さな落胆が生まれた。

 やはり、射のことだった。

 自分でも驚くほど、女性として褒められたかったのだと、そのとき初めて気づいた。

 けれど、縁之丞は続けた。

「弓を上げるところから、矢を放ったあとまで、何も無駄がなくて」

 言葉を探すように、少し間を置く。

「すごく、きれいでした」

 弓香は、何も言えなかった。

 顔ではない。

 着物でもない。

 家柄でも、令嬢としての振る舞いでもない。

 自分が何年もかけて、何度も失敗して、それでも積み重ねてきた射を見て、きれいだと言ってくれた。

 女性として褒められなかった小さなさびしさよりも、そのことの方がずっとうれしかった。

 きれいだと思われたかった自分も、射を見てほしかった自分も、どちらも本当だった。

 けれど、縁之丞が見つけてくれたものは、弓香がもっとも大切にしてきたものだった。

「ありがとうございます」

 弓香は、ようやく言った。

 声が少しやわらかくなった。

 胸の中が、あたたかかった。

 縁之丞に見てほしいと思った。

 そして、見てもらえた。

 それだけで、今日という日が特別なものになった。

「今度は、縁之丞さんです」

 弓香は、壁際にある弓の中から一本を選んだ。

「俺もですか」

「せっかくですから」

「当たらないと思いますよ」

「当てることだけが弓ではありません」

 縁之丞にも扱える弓を手渡す。

 縁之丞は少し緊張した顔で受け取り、射位へ立った。

 足を開く。

 姿勢を作る。

 基礎は学んでいる。

 けれど、久しぶりなのだろう。重心が少し前へずれていた。

「右足を、もう少し外へ」

「こうですか」

「はい」

 弓香は足元を見た。

「重心を、ほんの少しだけ後ろへ」

「難しいですね」

「急がなくて大丈夫です」

 縁之丞が弓を持ち上げる。

 肩へ力が入っていた。

「肩の力を抜いてください」

「抜いているつもりなんですけど」

「まだ、少し」

 弓香は縁之丞の隣へ立った。

 肩へ手を添える。

「こちらです」

 触れた瞬間、胸が大きく鳴った。

 近い。

 思っていたよりも、ずっと近かった。

 縁之丞の肩の高さ。

 衣服の下で動く呼吸。

 かすかな汗と、外の風が混じった匂い。

 そのようなものが、急にはっきりと分かった。

 弓香は手を離しそうになった。

 けれど、教えている途中だった。

 落ち着かなければならない。

 今は、自分が教える側なのだから。

「肘を、もう少し後ろへ」

 声がいつもどおりに出ているか、自信がなかった。

 縁之丞の腕へ、そっと触れる。

 位置を直す。

 指先から伝わる体温を意識するたび、胸の音が大きくなった。

 聞こえてしまうのではないかと思った。

 けれど、縁之丞は弓へ集中していた。弓香の胸の内には気づいていないようだった。

 そのことに、少し安心した。

 同時に、ほんの少しだけ、さびしくも思った。

 縁之丞にも自分と同じように、この距離を意識してほしい。

 そのように願っていることへ気づき、弓香は慌てて弓へ目を戻した。

「そのままです」

 弓香は言った。

「では、放してください」

 縁之丞が指を離す。

 矢が飛ぶ。

 中央からは離れていたけれど、的の端へ刺さった。

「当たった」

 縁之丞の顔が、子どものように明るくなった。

 弓香も、思わず笑った。

「お見事です」

「本当に?」

「はい。基礎を学ばれていたことが分かります」

「弓香さんに教えてもらったからですよ」

 自分の名前を呼ばれた。

 これまでは、天音さんと呼ばれていた。

 たったそれだけの違いだった。

 それなのに、胸がまた大きく鳴った。

 弓香は、すぐには返事ができなかった。

「……少し、お伝えしただけです」

「でも、当たりました」

「筋がよいのだと思います」

 平静を保とうとしながら答えた。

 けれど、自分の名を呼ばれた余韻は、胸の中へ残り続けていた。

 縁之丞は、うれしそうに的を見ていた。

 その横顔を、弓香はそっと見つめた。

 自分が教えたことで、縁之丞が喜んでいる。

 そのことがうれしかった。

 この人と、こうして何度も時間を重ねられたら。

 また道場へ来てもらえたら。

 次は、もう少しまっすぐ飛ばせるように教えられたら。

 そんなことを思った。

 それは、つい数日前までの弓香なら、考えもしなかったことだった。

 顔合わせの相手との未来を思い描くことなどなかった。

 けれど今は、次に同じ場所へ立つ二人の姿が、自然に思い浮かんだ。

 稽古を終えるころには、外の光が橙色へ変わっていた。

 道場の床にも、二人の長い影が伸びていた。

 縁之丞は弓を元の場所へ戻し、弓香へ頭を下げた。

「今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ」

「また、教えてもらってもいいですか」

 弓香は、すぐに返事ができなかった。

 また。

 その言葉が、胸の中へ落ちた。

 自分だけが、次の時間を望んでいたのではなかった。

「もちろんです」

 できるだけ、いつもどおりに答えた。

 けれど、笑顔までは隠せなかった。

 二人で道場を出た。

 屋敷へ続く長い廊下を、並んで歩く。

 縁之丞は、弓を引いた右の肩をときどき動かしていた。

「明日は、少し筋肉痛になるかもしれませんね」

 弓香が言うと、縁之丞は苦笑した。

「やっぱりですか」

「剣とは、使うところが違いますので」

「明日、竹刀を振れるかな」

「無理はなさらないでください」

「弓香さんに言われると、説得力がありますね」

「私も、何度も無理をしましたから」

「やっぱり、したんですね」

「はい」

 弓香は少しだけ笑った。

 いつもなら、それほど面白い話ではなかった。

 けれど縁之丞と話していると、何でもない言葉まで、少しやわらかくなる。

 廊下の外には、手入れの行き届いた庭が広がっていた。

 木々のあいだから夕方の光が差し、磨かれた床へ細長く落ちている。

 道場で過ごした時間の名残が、まだ二人のあいだに残っていた。

 縁之丞は、弓香の射をきれいだと言った。

 また教えてほしいとも言った。

 その言葉を思い出すたび、胸の奥があたたかくなった。

 次がある。

 また会える。

 そう思えることが、弓香にはうれしかった。

 廊下の向こうから、三人の男が歩いてきた。

 三人とも、よく似た足取りだった。

 音が少なく、身体の中心が少しもぶれていない。歩いているだけなのに、いつでも動けるように見える。

「お兄様方」

 弓香は足を止めた。

 三人も、ほとんど同時に立ち止まった。

「これから、お稽古でございますか」

「ああ」

 先頭にいた長兄の槍士が、短く答えた。

「三人で、少し身体を動かすところだ」

 槍士は背が高く、立っているだけで一本の槍のように見える人だった。長い手足にも、無駄なところがない。

 その隣にいる次兄の刀也は、静かな男だった。言葉は多くないが、目の動きには鋭さがあった。何も見ていないような顔をして、誰よりも細かなところを見ている。

 三男の剣吾は、兄たちより少しだけ若い。感情を隠すことが、あまり上手ではなかった。

 今も、縁之丞のことを遠慮なく見ていた。

 三人とも、弓香へ向ける目だけはやわらかかった。

「今日の稽古は終わったのか」

 槍士が尋ねた。

「はい。縁之丞さんに、弓をお教えしておりました」

「そうか」

 槍士はうなずき、弓香の手元へ一度目を落とした。

「手を痛めてはいないか」

「大丈夫です」

「疲れてはいないか」

 刀也が続けた。

「いつもの稽古よりは、軽いくらいです」

「水は飲んだか」

 剣吾まで尋ねた。

「いただきました」

 弓香は、一つずつ答えた。

 昔から、兄たちはこのような人たちだった。

 弓香が少し怪我をすれば、誰よりも早く気づいた。稽古でうまくいかない日には、何も聞かずにそばへいた。初めて強い弓を引けた日には、自分のことのようによろこんでくれた。

 ありがたいと思っている。

 けれど、ときどき、少しだけ心配しすぎではないかとも思う。

「こちらが」

 弓香は、縁之丞の方へ手を向けた。

「先日お話しした、霧島縁之丞さんです」

「本日は、道場までお招きいただき、ありがとうございました」

 縁之丞は丁寧に頭を下げた。

「ああ」

 槍士が答えた。

「話は聞いている」

「弓香が、自分から道場へ招いたそうだな」

 刀也が言う。

「はい」

 縁之丞は、もう一度うなずいた。

 剣吾だけは何も言わなかった。

 ただ、縁之丞を上から下まで見ている。

 顔。

 肩。

 立ち方。

 足の位置。

 手の置き方。

 まるで、これから試合をする相手を見定めているようだった。

 弓香は、その視線に気づいた。

「剣吾お兄様」

「なんだ」

「あまり見つめては、失礼です」

「見ていただけだ」

「それを申しております」

 剣吾は、少しだけ目をそらした。

 縁之丞は、困ったように笑っていた。

 その笑顔を見て、弓香はほっとした。少なくとも、気分を害してはいないようだった。

 何げない話を少し交わしたあと、弓香は道場へ弓を一本置いたままであることを思い出した。

「申し訳ありません」

 足を止める。

「弓を一本、片づけ忘れてしまいました」

「手伝いましょうか」

 縁之丞が言った。

「いいえ。すぐに戻りますので」

 弓香は兄たちを見た。

「お兄様方」

「ああ」

 槍士は、すぐにうなずいた。

「霧島殿とは、話をしておこう」

 その言葉に、弓香は少しだけ不安を覚えた。

「普通に、お願いいたします」

「分かっている」

 本当に分かっているのだろうか。

 そう思ったけれど、言わなかった。

「すぐに戻ります」

 弓香は、来た道を引き返した。

 道場へ戻り、置いたままの弓を取り上げる。弦をたしかめ、元の場所へ片づけた。

 ほんの短い時間だった。

 けれど廊下へ戻るころには、先ほどまで聞こえていた話し声が消えていた。

 角を曲がる。

 三人の兄たちは、縁之丞から少し離れたところに立っていた。

 槍士は腕を組み、刀也は庭を見ている。剣吾は、なぜか天井へ目を向けていた。

 縁之丞だけが、少し疲れたような顔をしていた。

「お待たせいたしました」

 弓香が声をかけると、四人が一斉にこちらを見た。

「どうかなさいましたか」

「いや」

 槍士が答えた。

「霧島殿と、少し話をしていただけだ」

「そうでしたか」

「ああ」

 槍士は縁之丞へ目を向けた。

「なかなか、見込みのある青年だ」

 縁之丞が、わずかに眉を動かした。

 何かあった。

 弓香には、すぐに分かった。

 けれど、兄たちは何も言わない。

「では、我々は道場へ行く」

 刀也が言った。

「弓香」

「はい」

「無理はするな」

「分かっております」

「帰ったら、今日のことを聞かせてくれ」

 剣吾が続けた。

「はい」

 兄たちは、弓香へはやさしく笑った。

 それから縁之丞へ、何かをたしかめるような目を向けた。

「頑張れよ」

 槍士が言った。

「何をですか」

 縁之丞が尋ねた。

「すべてだ」

「……はい」

 三人は、そのまま道場の方へ歩いていった。

 姿が見えなくなってから、縁之丞が小さく息をついた。

「あの」

「はい」

「弓香さん」

「どうかなさいましたか」

「さっき、お兄さんたちから」

 縁之丞は、少し言いにくそうにした。

「殺すって言われたんですけど」

 弓香は、まばたきをした。

「どなたにでしょう」

「三人ともです」

「まあ」

「まあ、で終わるんですか」

 縁之丞の顔を見て、弓香は兄たちが何をしたのか、おおよそ分かった。

 自分がいないあいだに縁之丞を囲み、きっと余計なことを言ったのだろう。

「申し訳ありません」

 弓香は口元へ手を添えた。

「兄たちなりの、挨拶のようなものです」

「天音家の挨拶、こわすぎませんか」

「昔から、少しばかり心配性なのです」

「少しばかりですか」

「はい」

「俺には、かなりに見えました」

「本人たちは、普通だと思っております」

「それがいちばんこわいです」

 弓香は、思わず笑った。

 縁之丞は、兄たちをこわがりながらも、怒ってはいなかった。天音家のことを悪く言う様子もない。

 そのことに、弓香は安心した。

「幼いころから」

 弓香は、兄たちが去った方を見た。

「私が怪我をすると、すぐに来てくださいました。落ち込んでいるときも、何も聞かずにそばにいてくださいました」

「はい」

「初めて強い弓を引けた日も、自分のことのようによろこんでくださったのです」

「やさしいお兄さんたちなんですね」

「はい」

 弓香は迷わず答えた。

「とても」

「殺すって言われましたけど」

「それを除けば」

「除けないと思います」

 弓香は、また笑った。

 縁之丞と話していると、家のことまで少しやわらかく見える。

 この人が自分の家族と話し、自分の育った場所を歩き、それを嫌がらずに受け入れてくれている。

 そのことが、弓香にはうれしかった。

「そういえば」

 弓香は、思い出したように言った。

「兄たちは、昔から一つ条件を決めております」

「条件?」

「私と結婚する男性についてです」

 縁之丞は、少しだけ身構えた。

 その様子が、弓香にはおかしかった。

「自分たち三人よりも強い方でなければ」

「はい」

「私との結婚は認めないそうです」

 縁之丞は、しばらく黙った。

「三人全員より?」

「はい」

「槍士さんと」

「はい」

「刀也さんと」

「はい」

「剣吾さんより?」

「はい」

「無理では?」

 弓香は笑った。

「冗談です」

 縁之丞は、目に見えてほっとした。

「ですよね」

「半分ほどは」

「半分は本気なんですね」

「ええ」

「やっぱり無理では」

「兄たちより強い方は、それほど多くないでしょうね」

「いないとは言わないんですね」

「世の中は広いですから」

 縁之丞が笑った。

 弓香も笑った。

 結婚という言葉を、二人で話している。

 ほんの少し前までなら、考えられないことだった。

 その言葉は、いつも弓香にとって役目の名前だった。

 家と家をつなぐもの。

 自分が果たすべき務め。

 そこへ心を求めてはいけないもの。

 けれど今は、縁之丞の隣でその言葉を口にしても、以前ほど冷たいものには感じなかった。

「ですが」

 弓香は、少しだけ照れくさくなりながら言った。

「私は、夫となる方へ、兄たちより強いことを求めてはおりません」

「そうなんですか」

「はい。力だけで、人の価値が決まるわけではありませんから」

 縁之丞は、静かにうなずいた。

 弓香は、その横顔を見た。

 もし、そのような日が来るなら。

 自分は、この人の隣へ立つことができるのだろうか。

 その思いが、ほんの一瞬だけ胸へ浮かんだ。

 弓香は、すぐに目をそらした。

 まだ早い。

 何も決まってはいない。

 けれど、以前の自分なら、思うことさえしなかった未来だった。

 二人は再び歩き出した。

 長い廊下の先には、外へ続く玄関が見えていた。

 今日が終われば、また日常へ戻る。

 それでも、すべてが元どおりになるわけではなかった。

 縁之丞は、弓香の射を見た。

 きれいだと言った。

 また教えてほしいと言った。

 弓香の家族と会い、少し物騒な挨拶を受けても、隣で笑っていた。

 その一つひとつが、胸の中へ残っていた。

 もしかしたら。

 この人となら。

 強い自分のままで。

 武道を手放さずに。

 誰かの隣へ立つことができるのかもしれない。

 まだ、縁之丞が自分をどのように思っているのかは分からない。

 今日、楽しかったことも、弓をまた教えてほしいと言ったことも、恋とは限らない。

 期待するには、早すぎる。

 考えれば、思いを抑えるための理由はいくつもあった。

 けれど、その日は、胸へ浮かんだものを完全には消せなかった。

 これまで、結婚とは自分の一部を捨てることだと思っていた。

 愛されるためには、強さを隠さなければならないのだと思っていた。

 けれど、縁之丞は弓香の射を見て、きれいだと言った。

 その言葉は、弓香が大切にしてきたものを、否定せずに受け取ってくれた。

 玄関へ近づく。

 外から入る夕方の光が、二人の足元へ落ちていた。

 その先に何があるのかは、まだ分からない。

 けれど、歩いてみたいと思った。

 ほんの少しだけ。

 まだ誰にも言えないほど小さく。

 けれど、たしかな希望が、弓香の胸の中に生まれていた。

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