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  作者: Atelier Lotus


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4/5

第4節 恋

 顔合わせから数日がたった。

 弓香は、もう一度だけ縁之丞と話してみたいと思った。

 そう思っている自分に気づいたとき、少し驚いた。

 これまでの顔合わせでは、別れたあとに相手の顔を思い出すことなど、ほとんどなかった。名前や家柄は覚えていても、声や表情までは残らない。次に会いたいと思ったこともなかった。

 けれど、縁之丞の言葉は、いつまでも胸の中に残っていた。

『俺は、そうは思いません』

『勝手に触れようとした相手が悪いでしょう』

 朝、弓を引いているときにも思い出した。

 食事のあと、湯呑みを片づけているときにも思い出した。

 夜、眠る前にも、不意にあの声がよみがえった。

 思い返すたび、胸の奥が少しだけあたたかくなった。

 あの日、否定されなかったことがうれしかったのだろう。自分の強さを認めてもらえたから、もう一度話したいと思うだけなのだろう。

 弓香は、そのように考えた。

 それ以上の意味を与えてはいけないような気がした。

 それでも、何もしないまま次の連絡を待つことはできなかった。

 弓香は、自分から縁之丞へ連絡をした。

 もう少し話をしてみたい。

 よろしければ、今度は二人で食事でもどうだろうか。

 なるべくかたくならないように言葉を選び、何度も書き直した。書き直すほど、かえって他人行儀になっているようにも思えた。

 ようやく送ったあとも、文面を何度も読み返した。

 変ではなかっただろうか。

 急ぎすぎてはいないだろうか。

 年上の自分から声をかけることで、相手を困らせてはいないだろうか。

 送ったものは、もう取り戻せない。

 それなのに弓香は、言葉の順番を変えればよかったのではないかと、いつまでも考えていた。

 縁之丞から返事が届いたのは、それほど時間がたってからではなかった。

 ぜひ、と書かれていた。

 短い返事だった。

 けれど、それを読んだとき、弓香の肩から知らないうちに力が抜けた。

 うれしい、という言葉を使うのは、まだ少し早いような気がした。

 ただ、断られなかったことがよかった。

 それだけなのだと、自分へ言い聞かせた。

 当日、弓香は待ち合わせの時刻よりも、ずいぶん早く家を出た。

 初めて、年下の男性と二人で街を歩く。

 だから、自分がしっかりしなければならないと思った。

 店は前の日に調べた。道も一度歩き、迷わず着けることをたしかめた。

 人通りの多い場所。

 入りやすい店。

 食事のあとに、ゆっくり歩ける道。

 雨が降った場合に入れる喫茶店まで調べていた。

 年上なのだから、頼りなく見えてはいけない。

 縁之丞に、気をつかわせてもいけない。

 そう考えながら用意をしていると、顔合わせの日よりも落ち着かなかった。

 鏡の前では、髪をいつもより長く見た。

 着物を選ぶときにも迷った。

 華やかすぎるものは、相手を緊張させるかもしれない。けれど、あまり地味なものでは、会うことを楽しみにしていなかったように見えるかもしれない。

 そのようなことを考えている自分がおかしくなり、弓香は一度だけ小さく息をついた。

 これは縁談の続きである。

 失礼のない装いを考えるのは、当然のことだ。

 そうやって理由をつけながら、淡い色の着物を選んだ。

 待ち合わせの場所へ着くと、縁之丞はすでに来ていた。

 顔合わせの日と同じ、濃紺のスーツを着ている。首元が少し窮屈そうなところも、あの日と変わらなかった。

 人の流れから少し離れたところに立ち、落ち着かないように何度か時計を見ていた。

 弓香が近づく前に、縁之丞は顔を上げた。

 目が合う。

 その瞬間、縁之丞の表情が少しやわらかくなった。

「お待たせしました」

 弓香が声をかけると、縁之丞はすぐに頭を下げた。

「いえ。俺も、今来たところです」

 おそらく、少し前から待っていたのだろう。

 けれど、そのことには触れなかった。

「本日は、ありがとうございます」

「こちらこそ。誘っていただいて、ありがとうございます」

 縁之丞は、顔合わせの日よりも少しだけ自然に笑った。

 その笑顔を見て、弓香の胸もわずかにゆるんだ。

「年下の方と、こうして出かけるのは初めてです」

 歩き出してから、弓香は言った。

「俺も、年上の女性と二人で出かけるのは初めてです」

「では、お互いに初めてなのですね」

「そうですね」

 弓香は笑った。

 口にしてみると、思っていたほど気まずくはなかった。

 むしろ、縁之丞も同じなのだと思うと、少しだけ安心した。

 店までの道を、弓香が案内した。

 前の日に一度来たことは言わなかった。

「詳しいんですね」

 縁之丞に言われ、弓香は平静を装った。

「友人に教えていただきました」

 嘘ではなかった。

 けれど、そのあとに自分で道順をたしかめに来たことまでは、言わない方がよいように思った。

 もし知られたら、用意をしすぎだと思われるだろうか。

 そのようなことを気にしている時点で、いつもの自分とは少し違っている。

 弓香は、その違いを見ないようにした。

 店では、食事をしながら話をした。

 武道のこと。

 家のこと。

 縁之丞の学校のこと。

 弓香が幼いころ、兄たちと競うように稽古をしていたこと。

 顔合わせの日よりも、言葉は自然に続いた。

 縁之丞は、学校で剣道部の助っ人を頼まれることがあると話した。部へ戻るつもりはないのに、頼まれると断りきれないのだという。

「おやさしいのですね」

「押しに弱いだけです」

「同じことではありませんか」

「たぶん、違います」

 真面目に否定する顔がおかしくて、弓香は笑った。

 会話が途切れても、前ほど気にならなかった。

 静かな時間が流れても、急いで何かを話そうとは思わない。縁之丞も、無理に話題を探しているようには見えなかった。

 二人で同じ料理を味わい、ふとしたときに窓の外を見る。

 その沈黙には、気まずさがなかった。

 弓香は、そのことが心地よかった。

 年下だから、自分が引っぱらなければならないと思っていた。

 けれど、実際にはそれほど力を入れなくてもよかった。

 縁之丞は不器用ではあっても、自分の言葉で話した。知らないことを知っているふりもしなかった。弓香が話しているときには、言葉の途中で口を挟まず、最後まで聞いた。

 何か特別なことをしているわけではない。

 それでも、その一つひとつが弓香には好ましく思えた。

 食事を終え、二人は店を出た。

 午後の街には、多くの人が行き交っていた。風はやわらかく、歩くにはちょうどよい日だった。

 弓香は縁之丞と並んで歩いた。

 顔合わせのときよりも、店へ入る前よりも、二人のあいだの距離が少しだけ近くなったように思えた。

 そのことを意識した途端、歩き方まで気になった。

 速すぎないだろうか。

 着物の裾は乱れていないだろうか。

 自分ばかり前へ出てはいないだろうか。

 普段なら考えもしないことだった。

 相手の歩調に合わせることも、まわりへ目を配ることも、弓香には難しくない。けれど、縁之丞の隣では、自分がどう見えているのかを何度も考えてしまう。

「疲れていませんか」

 縁之丞が言った。

「いいえ」

 弓香はすぐに答えた。

「私は大丈夫です。霧島さんこそ」

「俺も平気です」

「そうですか」

 何でもないやり取りだった。

 けれど、自分のことを気にかけてもらえたことが、少しだけうれしかった。

 強いから。

 歩き慣れているから。

 大丈夫に決まっているから。

 そう思われなかったことが、うれしかった。

 自分の身は自分で守れる。

 誰かに支えてもらわなくても、困ることはほとんどない。

 そのことと、気にかけてもらいたいと思うことは、同じではないのかもしれなかった。

 人通りの少ない道へ入ったときだった。

「ねえ、お姉さん」

 背後から声をかけられた。

 二人の若い男が、こちらへ近づいてきた。

「すごくきれいだね」

「そんな男より、俺たちと遊ばない?」

 弓香は足を止めた。

 男たちの動きを見る。

 二人。

 武器は持っていない。足元は安定しておらず、身体の使い方に慣れている様子もない。ひどく酔っているわけではないが、声が大きく、まわりを見る余裕もなさそうだった。

 追い払うだけなら、難しくはない。

 弓香がそう考えたとき、縁之丞が一歩、前へ出た。

「やめておいた方がいいですよ」

 弓香は、その背中を見た。

 一瞬、何が起きたのか分からなかった。

 縁之丞は、自分よりも四つ年下だった。武道をしているとはいえ、弓香の方が強い。男が二人いても、助けなど必要ない。

 縁之丞も、そのことは分かっているはずだった。

 それなのに、考えるよりも先に前へ出た。

 弓香をかばうように。

 胸の奥が、強く鳴った。

 これまで、弓香が強いと知った男性は、決まって同じようなことを言った。

『あなたなら、守る必要はありませんね』

『むしろ、こちらが守ってもらうことになりそうだ』

 冗談のように笑いながら、そう言った。

 弓香も、そのたびに笑っていた。

 実際、そのとおりだったから。

 自分の身は、自分で守れる。

 誰かに助けてもらう必要などない。

 そのことに、不満を持ったこともなかった。

 持ってはいけないとも思っていた。

 けれど、必要があるかどうかと、守ろうと思ってもらえるかどうかは、同じではなかった。

 そのとき、初めて知った。

 自分もまた、誰かが前へ出てくれることを、うれしいと思う人間だった。

 強いこととは関係なく。

 守られる必要がないこととも関係なく。

 自分を大切にしようとしてくれる、その心がうれしかった。

 胸が高鳴った。

 どうしてよいのか分からないほど。

 弓香は、そっと縁之丞の腕へ手を伸ばした。上着の袖へ指先が触れる。

「ありがとうございます」

 本心だった。

 その一歩だけで、もう十分だった。

 けれど、縁之丞を巻き込むわけにはいかなかった。

 弓香は縁之丞の隣へ出ると、そのまま一歩だけ前へ進んだ。

「ですが」

 男たちへ向き直る。

「自分の身は、自分で守れます」

 男の一人が笑った。

「なに、それ」

 そして、弓香の腕へ手を伸ばした。

 その手が触れる前に、弓香の身体は動いていた。

 手首を取る。

 肘の向きを変える。

 相手が踏み込んだ力を、そのまま下へ落とす。

 男の膝が地面についた。

「痛っ」

 もう一人が、弓香の肩をつかもうとした。

 弓香は半歩だけ身を開いた。伸びてきた腕を避け、相手の力を流し、そのまま足を払う。

 男の身体が地面へ落ちた。

 すべて、ほんの数秒のことだった。

 弓香は、倒れた男の手首を取ったまま、静かに言った。

「このまま腕を折っても、よろしくて」

 声に怒りは入れなかった。

 脅すために大きな声を出す必要もない。相手が、自分の置かれた状況を理解すれば、それでよかった。

「すみません」

「もうしません」

 二人は、逃げるように去っていった。

 弓香は手を放した。着物の袖を整え、帯に乱れがないことをたしかめる。

 呼吸も乱れていなかった。

 いつものことだった。

 それほど大きな出来事ではない。

 けれど、歩き出す前に、弓香は縁之丞の顔を見ることができなかった。

 先ほどまでは、守ろうとしてくれたことがうれしかった。

 その直後に、自分の強さを見せてしまった。

 男を倒すところを。

 関節をきめるところを。

 腕を折ると言うところまで。

 すべて見られてしまった。

 胸の高鳴りは、いつの間にか別のものへ変わっていた。

 こわがられたかもしれない。

 やはり、女らしくないと思われたかもしれない。

 顔合わせの日には、自衛だから仕方がないと言ってくれた。

 けれど、話で聞くことと、目の前で見ることは違う。

 弓香の話を聞いたとき、縁之丞は折られたくはないと笑っていた。

 実際の動きを見れば、考えが変わるかもしれない。

 弓香は、何もなかったように歩き出した。

 足取りは乱さない。

 背筋も曲げない。

 縁之丞が何かを言うまで、自分からは顔を向けなかった。

「俺、必要なかったですね」

 やがて、縁之丞が言った。

 その声は、いつもと変わらなかった。

 弓香は足を止めそうになった。

 縁之丞は笑っている。

 こわがってはいない。

 距離を取ろうともしていない。

「いいえ」

 弓香は、ようやく縁之丞を見た。

「前へ出てくださったこと、とてもうれしかったですよ」

 言葉にすると、胸の奥がまた少し熱くなった。

 縁之丞が男たちを倒せるかどうかは、関係なかった。

 自分を守ろうとした。

 そのことだけでよかった。

「止めるひまもありませんでしたけど」

「申し訳ありません」

「謝ることではないです」

「少し、強くしすぎたでしょうか」

「折っていないなら、大丈夫じゃないですか」

 弓香は、思わず縁之丞の顔を見た。

「以前よりは、加減できました」

「以前は折ったんですよね」

「はい」

「成長の基準が、少しこわいですね」

 縁之丞が苦笑した。

 弓香も、つられるように口元をゆるめた。

 冗談として受け取ってもらえた。

 まだ、いつもと同じように話してくれている。

 そのことに、胸の奥で小さく息をついた。

 けれど、本当にこわくなかったのか。

 見苦しいと思わなかったのか。

 そのことまでは、まだ分からなかった。

 弓香は、自分から喫茶店へ入ることをすすめた。

 少し休みませんか、と言った。

 気持ちを落ち着けたかった。

 何より、もう少しだけ縁之丞のそばにいて、自分をどう思ったのかをたしかめたかった。

 二人は、窓際の席へ座った。

 弓香の前には紅茶が置かれ、縁之丞の前にはコーヒーが運ばれてきた。店の中には静かな音楽が流れ、食器の触れ合う小さな音が、ときおり聞こえた。

 先ほどの出来事が、もうずいぶん遠くに感じられた。

 弓香は紅茶へ手を伸ばした。

 けれど、指が取っ手へ触れる前に止めた。

「先ほどは」

 言葉を選ぶ。

「お見苦しいところをお見せしました」

 礼儀としての謝罪だった。

 けれど、それだけではなかった。

 こわくなかったですか。

 もう会いたくないとは思いませんでしたか。

 あの姿を見ても、まだ私と話してくださいますか。

 本当に聞きたかったのは、そのようなことだった。

 縁之丞は、すぐに首を横へ振った。

「見苦しくはなかったです」

「そうでしょうか」

「はい」

 縁之丞は少し考えてから続けた。

「必要なぶんだけ動いていましたから」

 弓香は黙って聞いた。

「無駄に殴ったりもしなかったし」

「はい」

「怒っているようにも見えませんでした」

 縁之丞は、先ほどの出来事を思い返しているようだった。

「全部、ちゃんと制御されていて」

 そこで、少し言葉を止めた。

「きれいでした」

 弓香の指が止まった。

 紅茶へ伸ばしかけたまま、動かなかった。

 きれい。

 その言葉を聞くことには慣れているはずだった。

 顔合わせのたびに、何度も言われてきた。

 顔がきれいだと。

 着物がよく似合うと。

 天音家の娘らしく、美しいと。

 けれど今、縁之丞が見ていたのは、顔でも着物でもなかった。

 弓香の動きを見ていた。

 男たちを倒したことではなく、倒し方を。

 力があることではなく、その力をどのように使ったのかを見ていた。

「きれい、ですか」

 弓香は、たしかめるように言った。

「はい」

 縁之丞は迷わなかった。

「その気になれば、もっと傷つけられたと思います」

 弓香は、かすかにうなずいた。

「でも、しなかった」

「必要がありませんでしたので」

「だからです」

 縁之丞は言った。

「力があるのに、必要なぶんしか使わない。相手を止めるためだけに使っている」

 言葉を飾らず、そのまま続けた。

「そういうところが、きれいだと思いました」

 弓香は、何も言えなかった。

 これまで、強さについて向けられた言葉は、みなよく似ていた。

 こわい。

 女らしくない。

 かわいげがない。

 結婚するなら、隠した方がよい。

 力があることを受け入れてくれた人でさえ、それを仕方のないものとして扱った。

 武道をしていること以外は申し分がない。

 結婚すれば、少しずつ変わればよい。

 そのように言われてきた。

 けれど縁之丞は、きれいだと言った。

 強くてもよい、ではない。

 強くても気にしない、でもない。

 弓香が長いあいだ磨いてきたものを、そのまま見てくれた。

 力を持つことだけではない。

 その力をどう使うか。

 何を傷つけずに済ませるか。

 そのために重ねてきた年月まで、見つけてもらえたような気がした。

「そのように言われたのは、初めてです」

 やっと、それだけを言った。

 自分の声が、いつもより少し遠く聞こえた。

「これまで」

 弓香は紅茶の表面へ目を落とした。

「強い女は、あまり好まれないものだと思っておりました」

「どうしてですか」

「そのように言われてきましたので」

 弓香は、少しだけ笑った。

「男より強い女は、かわいげがない。結婚したら、武道をやめてほしい。夫を立てるために、力は隠した方がよい。そのようなことを、何度も」

 縁之丞は黙って聞いていた。

 弓香は、話しすぎていると思った。

 顔合わせの日にも、過去のことを話した。

 今日もまた、自分の傷を見せようとしている。

 このようなことを聞かされても、困るだけかもしれない。

 重い女だと思われるかもしれない。

 それでも、言葉は止まらなかった。

 縁之丞がどう思うのか知りたかった。

 この人も、最後には同じなのか。

 それとも、本当に違うのか。

「霧島さんは」

 弓香は顔を上げた。

「力のある女性には、引いてしまいますか」

 静かな問いだった。

 けれど、胸の中では、違う言葉が鳴っていた。

 お願いです。

 こわいと言わないでください。

 あなたまで、私を否定しないでください。

 顔合わせの日よりも。

 腕を折った話をしたときよりも。

 ずっと強く、そう願っていた。

 いつから、縁之丞の言葉がこれほど大切になったのかは、分からなかった。

 縁之丞は、すぐに首を横へ振った。

「俺は、そうは思いません」

 弓香は息を止めた。

 顔合わせの日と、同じ言葉だった。

 けれど今は、あの日よりも深く胸へ届いた。

「むしろ」

 縁之丞は、まっすぐに弓香を見た。

「すてきだと思います」

 まわりの音が、ほんの少し遠くなった。

 すてき。

 その言葉の意味を、すぐには受け取れなかった。

「私が、ですか」

 思わず聞き返した。

「はい」

 縁之丞は、当たり前のことのように答えた。

「強いから、というだけじゃありません」

 少し考えながら、一つずつ言葉を選んでいた。

「力があっても、必要以上には使わない。相手を傷つけないように、ちゃんと自分で制御している」

 縁之丞は、弓香から目をそらさなかった。

「そういうところが、すてきだと思いました」

 胸の奥が、強く痛んだ。

 嫌な痛みではなかった。

 うれしいはずなのに、息が苦しくなるような痛みだった。

 弓香は、何も言えなかった。

 強い女でもかまわないと言われたのではない。

 強さを我慢して受け入れてもらったのでもない。

 強いままの自分を。

 その強さを大切にし、傷つけるためではなく守るために使おうとしてきた自分を。

 すてきだと言ってもらえた。

 ずっと、自分が愛されない理由だと思っていたものを、縁之丞は好ましいものとして見ていた。

 そのことが、信じられなかった。

 けれど、信じたいと思った。

 もっと、この人と話したい。

 もう少し、この人のことを知りたい。

 自分のことも、もっと見てほしい。

 顔や家柄ではなく。

 天音家の娘としてでもなく。

 自分が選び、積み重ねてきたものを見てほしい。

 そのような思いが、胸の中へ次々と浮かんだ。

 弓香は、それに名前をつけなかった。

 つけてはいけないような気がした。

 少しうれしいだけ。

 初めて認めてもらえたから、心が動いただけ。

 この人が特別なのではない。

 誰に同じことを言われても、きっと同じようにうれしかったはずだ。

 そう思おうとした。

 けれど、縁之丞の顔を見るだけで、先ほど自分の前へ出てくれた背中を思い出すだけで、胸がまた大きく鳴った。

 誰に言われても同じではないことを、身体の方はもう知っているようだった。

「ありがとうございます」

 弓香は、ようやく言った。

 いつもと同じように笑おうとした。

 けれど、うまくできなかった。

 口元がわずかに震えた。

 それでも縁之丞は、何も言わなかった。

 ただ、弓香が言葉を見つけるのを待つように、静かに見ていた。

 その目にも、値踏みするようなものはなかった。

 女として正しいかをたしかめる目でもない。

 ただ、天音弓香という一人の人間を見ていた。

 弓香は、そっと紅茶を口へ運んだ。

 少し冷めていた。

 けれど、味はよく分からなかった。

 胸の奥が、まだ落ち着かなかった。

 縁之丞は、そのあとも何事もなかったように話を続けた。

 コーヒーが思ったより苦かったこと。

 学校の友人に、今日の服について相談したこと。

 顔合わせの日と同じスーツなのは、ほかに何を着ればよいのか分からなかったからだということ。

「同じものだと思っておりました」

 弓香が言うと、縁之丞は少し恥ずかしそうに笑った。

「気づいていたんですか」

「はい」

「何も言わないでください」

「もう、言ってしまいました」

 そんなやり取りをしながら、弓香も笑った。

 けれど心の中では、先ほどの言葉を何度も繰り返していた。

『すてきだと思います』

 その言葉は、縁之丞が話すたびに、声の奥からもう一度聞こえてくるようだった。

 やがて、窓から差し込む光の向きが変わった。

 店へ入ったときよりも、通りを歩く人の影が長くなっている。

 帰る時間が近づいていた。

 そのことに気づいたとき、弓香の胸の中に、小さなさびしさが生まれた。

 これまでの顔合わせでは、終わりの時刻を待っていた。

 相手に失礼のないよう話しながら、あとどれほどで席を立てるのかを考えていた。

 今日も、帰る時刻はあらかじめ決めていた。

 その時刻を、自分で選んだ。

 けれど今は、もう少し遅くしておけばよかったと思った。

 もう少しだけ、この人と一緒にいたい。

 もう少しだけ、この人の声を聞いていたい。

 そんなことを思う自分に、弓香は戸惑った。

 それが何なのか、まだ認めなかった。

 ただ楽しかったから。

 話し足りないから。

 自分を肯定してくれる人と別れるのが惜しいだけ。

 理由なら、いくつも考えられた。

 けれど、どの理由も、胸の中にあるものすべてを説明してはいなかった。

 このまま別れてしまえば、次に会える日が決まらないままになる。

 縁之丞は、また話せますかと尋ねてくれるかもしれない。

 けれど、それを待っているだけではいられなかった。

 顔合わせの日、縁之丞は弓の基礎も学んだことがあると言っていた。

 ならば、道場へ招くのは不自然ではない。

 武道の話の続きとして。

 共通するものを、もう少し知るために。

 そう考えることができる。

 けれど、本当は。

 自分の射を見てほしかった。

 長いあいだ積み重ねてきたものを。

 弓香がもっとも大切にしているものを。

 縁之丞に見てほしいと思った。

 その気持ちへ気づいた途端、胸の音が大きくなった。

「霧島さん」

 弓香は、紅茶のカップを置いた。

「はい」

 縁之丞がこちらを見る。

 その目を見た途端、先ほどまで考えていた言葉が、どこかへ消えてしまった。

「以前、弓の基礎も学ばれたと、おっしゃっていましたね」

「はい。家で少しだけ」

「今も、引かれるのですか」

「最近は、ほとんど」

 縁之丞は少し考えた。

「剣道の方が中心なので」

「そうでしたか」

 ここで話を終えることもできた。

 弓香は、膝の上で重ねた指へ、わずかに力を入れた。

「よろしければ」

「はい」

「今度」

 言葉が、思っていたよりも出てこなかった。

 自分の家へ招く。

 それだけのことだった。

 けれど、胸は先ほど男たちを前にしたときよりも強く鳴っていた。

「天音家の弓道場へ、いらっしゃいませんか」

 縁之丞が、少し目を見開いた。

「俺が行ってもいいんですか」

「もちろんです」

 弓香は、いつものように落ち着いた声を作った。

「他家の方をお招きすることは、あまり多くありませんが」

 そこまで言ってから、続きまで口にするか迷った。

 ただ道場を見せたいだけなら、言う必要はなかった。

 けれど、弓香が本当に伝えたかったのは、その先にあるものだった。

「あなたになら」

 縁之丞を見る。

「私の射を、見ていただきたいです」

 言ってしまった。

 その瞬間、胸の中が熱くなった。

 自分は何を言っているのだろう。

 家へ招いて。

 しかも、自分の射を見てほしいなどと。

 あまりに気持ちが出すぎてはいないだろうか。

 縁之丞に、変に思われてはいないだろうか。

 弓香は表情だけは崩さなかった。

 けれど、返事を待つ時間はひどく長く感じられた。

「ぜひ、お願いします」

 縁之丞は答えた。

 迷いのない声だった。

 弓香は、胸の奥で小さく息をついた。

「ありがとうございます」

 それだけを言った。

 二人は都合のよい日をたしかめ、数日後に会うことを決めた。

 帰る時間が近づいていることは変わらなかった。

 けれど、先ほどまでとは少し違った。

 今日が終わっても、すべてが終わるわけではない。

 また会える。

 次に会う日が、もう決まっている。

 それだけで、胸の中のさびしさに、わずかなあたたかさが混じった。

 店を出ると、外の空気は少し冷たくなっていた。

 縁之丞は駅まで送ると言った。

「道は分かりますので、大丈夫ですよ」

「分かっていても、送らせてください」

 強く言ったわけではない。

 けれど、断るための言葉が弓香には浮かばなかった。

「では、お願いいたします」

 二人は、来たときよりもゆっくりと歩いた。

 どちらが歩調を遅くしたのかは、分からなかった。

 道の途中で、ときおり言葉を交わした。

 それ以外の時間も、静かなまま並んで歩いた。

 駅が見えてくる。

 あそこまで行けば、今日は終わる。

 弓香は、駅へ近づくほど、自分の足が少し重くなるのを感じた。

 次に会える日が決まっていても、別れが惜しいことは変わらなかった。

 そのことが、弓香には不思議だった。

 また会えるのだから、さびしがる必要などない。

 けれど、今ここにいる縁之丞と別れることが、やはり名残惜しかった。

 駅の前で、二人は足を止めた。

「今日は、ありがとうございました」

 弓香は頭を下げた。

「俺の方こそ。楽しかったです」

 縁之丞は、そう言った。

 その一言だけで、胸の中に残っていた不安が少しほどけた。

「私も、楽しかったです」

 弓香は顔を上げた。

 今度は、礼儀のためではなく、そのままの気持ちを言えた。

 縁之丞は、少しうれしそうに笑った。

「道場、楽しみにしています」

「はい」

 弓香の返事は、考えるよりも早く出た。

「私も、楽しみにしております」

 縁之丞と別れたあとも、弓香はすぐには歩き出せなかった。

 人の流れの中へ消えていく背中を、しばらく見ていた。

 もう振り返らないだろうと思ったころ、縁之丞が一度だけこちらを見た。

 弓香は、とっさに小さく頭を下げた。

 縁之丞も同じように頭を下げ、それからまた歩き出した。

 その姿が見えなくなっても、弓香の胸は静まらなかった。

 帰りの道で、何度も今日のことを思い出した。

 前へ出てくれた背中。

 いつもと変わらず笑ってくれたこと。

 きれいだと言った声。

 そして。

『すてきだと思います』

 思い返すたび、胸の奥があたたかくなり、同じところが少し苦しくなった。

 さらに、そのあとへ新しい言葉が続いた。

『ぜひ、お願いします』

 自分の射を見てもらえる。

 また会える。

 次に会う日を、待つことができる。

 弓香はまだ、胸の中にあるものを恋とは呼ばなかった。

 ただ、別れたばかりなのに、もう一度会いたいと思っていた。

 次に会える日を、すでに待ち始めていた。

 これまで弓香の中で育ったことのないものが、知らないうちに根を伸ばしていた。

 本人だけが、まだその名前を口にしていなかった。

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