第4節 恋
顔合わせから数日がたった。
弓香は、もう一度だけ縁之丞と話してみたいと思った。
そう思っている自分に気づいたとき、少し驚いた。
これまでの顔合わせでは、別れたあとに相手の顔を思い出すことなど、ほとんどなかった。名前や家柄は覚えていても、声や表情までは残らない。次に会いたいと思ったこともなかった。
けれど、縁之丞の言葉は、いつまでも胸の中に残っていた。
『俺は、そうは思いません』
『勝手に触れようとした相手が悪いでしょう』
朝、弓を引いているときにも思い出した。
食事のあと、湯呑みを片づけているときにも思い出した。
夜、眠る前にも、不意にあの声がよみがえった。
思い返すたび、胸の奥が少しだけあたたかくなった。
あの日、否定されなかったことがうれしかったのだろう。自分の強さを認めてもらえたから、もう一度話したいと思うだけなのだろう。
弓香は、そのように考えた。
それ以上の意味を与えてはいけないような気がした。
それでも、何もしないまま次の連絡を待つことはできなかった。
弓香は、自分から縁之丞へ連絡をした。
もう少し話をしてみたい。
よろしければ、今度は二人で食事でもどうだろうか。
なるべくかたくならないように言葉を選び、何度も書き直した。書き直すほど、かえって他人行儀になっているようにも思えた。
ようやく送ったあとも、文面を何度も読み返した。
変ではなかっただろうか。
急ぎすぎてはいないだろうか。
年上の自分から声をかけることで、相手を困らせてはいないだろうか。
送ったものは、もう取り戻せない。
それなのに弓香は、言葉の順番を変えればよかったのではないかと、いつまでも考えていた。
縁之丞から返事が届いたのは、それほど時間がたってからではなかった。
ぜひ、と書かれていた。
短い返事だった。
けれど、それを読んだとき、弓香の肩から知らないうちに力が抜けた。
うれしい、という言葉を使うのは、まだ少し早いような気がした。
ただ、断られなかったことがよかった。
それだけなのだと、自分へ言い聞かせた。
当日、弓香は待ち合わせの時刻よりも、ずいぶん早く家を出た。
初めて、年下の男性と二人で街を歩く。
だから、自分がしっかりしなければならないと思った。
店は前の日に調べた。道も一度歩き、迷わず着けることをたしかめた。
人通りの多い場所。
入りやすい店。
食事のあとに、ゆっくり歩ける道。
雨が降った場合に入れる喫茶店まで調べていた。
年上なのだから、頼りなく見えてはいけない。
縁之丞に、気をつかわせてもいけない。
そう考えながら用意をしていると、顔合わせの日よりも落ち着かなかった。
鏡の前では、髪をいつもより長く見た。
着物を選ぶときにも迷った。
華やかすぎるものは、相手を緊張させるかもしれない。けれど、あまり地味なものでは、会うことを楽しみにしていなかったように見えるかもしれない。
そのようなことを考えている自分がおかしくなり、弓香は一度だけ小さく息をついた。
これは縁談の続きである。
失礼のない装いを考えるのは、当然のことだ。
そうやって理由をつけながら、淡い色の着物を選んだ。
待ち合わせの場所へ着くと、縁之丞はすでに来ていた。
顔合わせの日と同じ、濃紺のスーツを着ている。首元が少し窮屈そうなところも、あの日と変わらなかった。
人の流れから少し離れたところに立ち、落ち着かないように何度か時計を見ていた。
弓香が近づく前に、縁之丞は顔を上げた。
目が合う。
その瞬間、縁之丞の表情が少しやわらかくなった。
「お待たせしました」
弓香が声をかけると、縁之丞はすぐに頭を下げた。
「いえ。俺も、今来たところです」
おそらく、少し前から待っていたのだろう。
けれど、そのことには触れなかった。
「本日は、ありがとうございます」
「こちらこそ。誘っていただいて、ありがとうございます」
縁之丞は、顔合わせの日よりも少しだけ自然に笑った。
その笑顔を見て、弓香の胸もわずかにゆるんだ。
「年下の方と、こうして出かけるのは初めてです」
歩き出してから、弓香は言った。
「俺も、年上の女性と二人で出かけるのは初めてです」
「では、お互いに初めてなのですね」
「そうですね」
弓香は笑った。
口にしてみると、思っていたほど気まずくはなかった。
むしろ、縁之丞も同じなのだと思うと、少しだけ安心した。
店までの道を、弓香が案内した。
前の日に一度来たことは言わなかった。
「詳しいんですね」
縁之丞に言われ、弓香は平静を装った。
「友人に教えていただきました」
嘘ではなかった。
けれど、そのあとに自分で道順をたしかめに来たことまでは、言わない方がよいように思った。
もし知られたら、用意をしすぎだと思われるだろうか。
そのようなことを気にしている時点で、いつもの自分とは少し違っている。
弓香は、その違いを見ないようにした。
店では、食事をしながら話をした。
武道のこと。
家のこと。
縁之丞の学校のこと。
弓香が幼いころ、兄たちと競うように稽古をしていたこと。
顔合わせの日よりも、言葉は自然に続いた。
縁之丞は、学校で剣道部の助っ人を頼まれることがあると話した。部へ戻るつもりはないのに、頼まれると断りきれないのだという。
「おやさしいのですね」
「押しに弱いだけです」
「同じことではありませんか」
「たぶん、違います」
真面目に否定する顔がおかしくて、弓香は笑った。
会話が途切れても、前ほど気にならなかった。
静かな時間が流れても、急いで何かを話そうとは思わない。縁之丞も、無理に話題を探しているようには見えなかった。
二人で同じ料理を味わい、ふとしたときに窓の外を見る。
その沈黙には、気まずさがなかった。
弓香は、そのことが心地よかった。
年下だから、自分が引っぱらなければならないと思っていた。
けれど、実際にはそれほど力を入れなくてもよかった。
縁之丞は不器用ではあっても、自分の言葉で話した。知らないことを知っているふりもしなかった。弓香が話しているときには、言葉の途中で口を挟まず、最後まで聞いた。
何か特別なことをしているわけではない。
それでも、その一つひとつが弓香には好ましく思えた。
食事を終え、二人は店を出た。
午後の街には、多くの人が行き交っていた。風はやわらかく、歩くにはちょうどよい日だった。
弓香は縁之丞と並んで歩いた。
顔合わせのときよりも、店へ入る前よりも、二人のあいだの距離が少しだけ近くなったように思えた。
そのことを意識した途端、歩き方まで気になった。
速すぎないだろうか。
着物の裾は乱れていないだろうか。
自分ばかり前へ出てはいないだろうか。
普段なら考えもしないことだった。
相手の歩調に合わせることも、まわりへ目を配ることも、弓香には難しくない。けれど、縁之丞の隣では、自分がどう見えているのかを何度も考えてしまう。
「疲れていませんか」
縁之丞が言った。
「いいえ」
弓香はすぐに答えた。
「私は大丈夫です。霧島さんこそ」
「俺も平気です」
「そうですか」
何でもないやり取りだった。
けれど、自分のことを気にかけてもらえたことが、少しだけうれしかった。
強いから。
歩き慣れているから。
大丈夫に決まっているから。
そう思われなかったことが、うれしかった。
自分の身は自分で守れる。
誰かに支えてもらわなくても、困ることはほとんどない。
そのことと、気にかけてもらいたいと思うことは、同じではないのかもしれなかった。
人通りの少ない道へ入ったときだった。
「ねえ、お姉さん」
背後から声をかけられた。
二人の若い男が、こちらへ近づいてきた。
「すごくきれいだね」
「そんな男より、俺たちと遊ばない?」
弓香は足を止めた。
男たちの動きを見る。
二人。
武器は持っていない。足元は安定しておらず、身体の使い方に慣れている様子もない。ひどく酔っているわけではないが、声が大きく、まわりを見る余裕もなさそうだった。
追い払うだけなら、難しくはない。
弓香がそう考えたとき、縁之丞が一歩、前へ出た。
「やめておいた方がいいですよ」
弓香は、その背中を見た。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
縁之丞は、自分よりも四つ年下だった。武道をしているとはいえ、弓香の方が強い。男が二人いても、助けなど必要ない。
縁之丞も、そのことは分かっているはずだった。
それなのに、考えるよりも先に前へ出た。
弓香をかばうように。
胸の奥が、強く鳴った。
これまで、弓香が強いと知った男性は、決まって同じようなことを言った。
『あなたなら、守る必要はありませんね』
『むしろ、こちらが守ってもらうことになりそうだ』
冗談のように笑いながら、そう言った。
弓香も、そのたびに笑っていた。
実際、そのとおりだったから。
自分の身は、自分で守れる。
誰かに助けてもらう必要などない。
そのことに、不満を持ったこともなかった。
持ってはいけないとも思っていた。
けれど、必要があるかどうかと、守ろうと思ってもらえるかどうかは、同じではなかった。
そのとき、初めて知った。
自分もまた、誰かが前へ出てくれることを、うれしいと思う人間だった。
強いこととは関係なく。
守られる必要がないこととも関係なく。
自分を大切にしようとしてくれる、その心がうれしかった。
胸が高鳴った。
どうしてよいのか分からないほど。
弓香は、そっと縁之丞の腕へ手を伸ばした。上着の袖へ指先が触れる。
「ありがとうございます」
本心だった。
その一歩だけで、もう十分だった。
けれど、縁之丞を巻き込むわけにはいかなかった。
弓香は縁之丞の隣へ出ると、そのまま一歩だけ前へ進んだ。
「ですが」
男たちへ向き直る。
「自分の身は、自分で守れます」
男の一人が笑った。
「なに、それ」
そして、弓香の腕へ手を伸ばした。
その手が触れる前に、弓香の身体は動いていた。
手首を取る。
肘の向きを変える。
相手が踏み込んだ力を、そのまま下へ落とす。
男の膝が地面についた。
「痛っ」
もう一人が、弓香の肩をつかもうとした。
弓香は半歩だけ身を開いた。伸びてきた腕を避け、相手の力を流し、そのまま足を払う。
男の身体が地面へ落ちた。
すべて、ほんの数秒のことだった。
弓香は、倒れた男の手首を取ったまま、静かに言った。
「このまま腕を折っても、よろしくて」
声に怒りは入れなかった。
脅すために大きな声を出す必要もない。相手が、自分の置かれた状況を理解すれば、それでよかった。
「すみません」
「もうしません」
二人は、逃げるように去っていった。
弓香は手を放した。着物の袖を整え、帯に乱れがないことをたしかめる。
呼吸も乱れていなかった。
いつものことだった。
それほど大きな出来事ではない。
けれど、歩き出す前に、弓香は縁之丞の顔を見ることができなかった。
先ほどまでは、守ろうとしてくれたことがうれしかった。
その直後に、自分の強さを見せてしまった。
男を倒すところを。
関節をきめるところを。
腕を折ると言うところまで。
すべて見られてしまった。
胸の高鳴りは、いつの間にか別のものへ変わっていた。
こわがられたかもしれない。
やはり、女らしくないと思われたかもしれない。
顔合わせの日には、自衛だから仕方がないと言ってくれた。
けれど、話で聞くことと、目の前で見ることは違う。
弓香の話を聞いたとき、縁之丞は折られたくはないと笑っていた。
実際の動きを見れば、考えが変わるかもしれない。
弓香は、何もなかったように歩き出した。
足取りは乱さない。
背筋も曲げない。
縁之丞が何かを言うまで、自分からは顔を向けなかった。
「俺、必要なかったですね」
やがて、縁之丞が言った。
その声は、いつもと変わらなかった。
弓香は足を止めそうになった。
縁之丞は笑っている。
こわがってはいない。
距離を取ろうともしていない。
「いいえ」
弓香は、ようやく縁之丞を見た。
「前へ出てくださったこと、とてもうれしかったですよ」
言葉にすると、胸の奥がまた少し熱くなった。
縁之丞が男たちを倒せるかどうかは、関係なかった。
自分を守ろうとした。
そのことだけでよかった。
「止めるひまもありませんでしたけど」
「申し訳ありません」
「謝ることではないです」
「少し、強くしすぎたでしょうか」
「折っていないなら、大丈夫じゃないですか」
弓香は、思わず縁之丞の顔を見た。
「以前よりは、加減できました」
「以前は折ったんですよね」
「はい」
「成長の基準が、少しこわいですね」
縁之丞が苦笑した。
弓香も、つられるように口元をゆるめた。
冗談として受け取ってもらえた。
まだ、いつもと同じように話してくれている。
そのことに、胸の奥で小さく息をついた。
けれど、本当にこわくなかったのか。
見苦しいと思わなかったのか。
そのことまでは、まだ分からなかった。
弓香は、自分から喫茶店へ入ることをすすめた。
少し休みませんか、と言った。
気持ちを落ち着けたかった。
何より、もう少しだけ縁之丞のそばにいて、自分をどう思ったのかをたしかめたかった。
二人は、窓際の席へ座った。
弓香の前には紅茶が置かれ、縁之丞の前にはコーヒーが運ばれてきた。店の中には静かな音楽が流れ、食器の触れ合う小さな音が、ときおり聞こえた。
先ほどの出来事が、もうずいぶん遠くに感じられた。
弓香は紅茶へ手を伸ばした。
けれど、指が取っ手へ触れる前に止めた。
「先ほどは」
言葉を選ぶ。
「お見苦しいところをお見せしました」
礼儀としての謝罪だった。
けれど、それだけではなかった。
こわくなかったですか。
もう会いたくないとは思いませんでしたか。
あの姿を見ても、まだ私と話してくださいますか。
本当に聞きたかったのは、そのようなことだった。
縁之丞は、すぐに首を横へ振った。
「見苦しくはなかったです」
「そうでしょうか」
「はい」
縁之丞は少し考えてから続けた。
「必要なぶんだけ動いていましたから」
弓香は黙って聞いた。
「無駄に殴ったりもしなかったし」
「はい」
「怒っているようにも見えませんでした」
縁之丞は、先ほどの出来事を思い返しているようだった。
「全部、ちゃんと制御されていて」
そこで、少し言葉を止めた。
「きれいでした」
弓香の指が止まった。
紅茶へ伸ばしかけたまま、動かなかった。
きれい。
その言葉を聞くことには慣れているはずだった。
顔合わせのたびに、何度も言われてきた。
顔がきれいだと。
着物がよく似合うと。
天音家の娘らしく、美しいと。
けれど今、縁之丞が見ていたのは、顔でも着物でもなかった。
弓香の動きを見ていた。
男たちを倒したことではなく、倒し方を。
力があることではなく、その力をどのように使ったのかを見ていた。
「きれい、ですか」
弓香は、たしかめるように言った。
「はい」
縁之丞は迷わなかった。
「その気になれば、もっと傷つけられたと思います」
弓香は、かすかにうなずいた。
「でも、しなかった」
「必要がありませんでしたので」
「だからです」
縁之丞は言った。
「力があるのに、必要なぶんしか使わない。相手を止めるためだけに使っている」
言葉を飾らず、そのまま続けた。
「そういうところが、きれいだと思いました」
弓香は、何も言えなかった。
これまで、強さについて向けられた言葉は、みなよく似ていた。
こわい。
女らしくない。
かわいげがない。
結婚するなら、隠した方がよい。
力があることを受け入れてくれた人でさえ、それを仕方のないものとして扱った。
武道をしていること以外は申し分がない。
結婚すれば、少しずつ変わればよい。
そのように言われてきた。
けれど縁之丞は、きれいだと言った。
強くてもよい、ではない。
強くても気にしない、でもない。
弓香が長いあいだ磨いてきたものを、そのまま見てくれた。
力を持つことだけではない。
その力をどう使うか。
何を傷つけずに済ませるか。
そのために重ねてきた年月まで、見つけてもらえたような気がした。
「そのように言われたのは、初めてです」
やっと、それだけを言った。
自分の声が、いつもより少し遠く聞こえた。
「これまで」
弓香は紅茶の表面へ目を落とした。
「強い女は、あまり好まれないものだと思っておりました」
「どうしてですか」
「そのように言われてきましたので」
弓香は、少しだけ笑った。
「男より強い女は、かわいげがない。結婚したら、武道をやめてほしい。夫を立てるために、力は隠した方がよい。そのようなことを、何度も」
縁之丞は黙って聞いていた。
弓香は、話しすぎていると思った。
顔合わせの日にも、過去のことを話した。
今日もまた、自分の傷を見せようとしている。
このようなことを聞かされても、困るだけかもしれない。
重い女だと思われるかもしれない。
それでも、言葉は止まらなかった。
縁之丞がどう思うのか知りたかった。
この人も、最後には同じなのか。
それとも、本当に違うのか。
「霧島さんは」
弓香は顔を上げた。
「力のある女性には、引いてしまいますか」
静かな問いだった。
けれど、胸の中では、違う言葉が鳴っていた。
お願いです。
こわいと言わないでください。
あなたまで、私を否定しないでください。
顔合わせの日よりも。
腕を折った話をしたときよりも。
ずっと強く、そう願っていた。
いつから、縁之丞の言葉がこれほど大切になったのかは、分からなかった。
縁之丞は、すぐに首を横へ振った。
「俺は、そうは思いません」
弓香は息を止めた。
顔合わせの日と、同じ言葉だった。
けれど今は、あの日よりも深く胸へ届いた。
「むしろ」
縁之丞は、まっすぐに弓香を見た。
「すてきだと思います」
まわりの音が、ほんの少し遠くなった。
すてき。
その言葉の意味を、すぐには受け取れなかった。
「私が、ですか」
思わず聞き返した。
「はい」
縁之丞は、当たり前のことのように答えた。
「強いから、というだけじゃありません」
少し考えながら、一つずつ言葉を選んでいた。
「力があっても、必要以上には使わない。相手を傷つけないように、ちゃんと自分で制御している」
縁之丞は、弓香から目をそらさなかった。
「そういうところが、すてきだと思いました」
胸の奥が、強く痛んだ。
嫌な痛みではなかった。
うれしいはずなのに、息が苦しくなるような痛みだった。
弓香は、何も言えなかった。
強い女でもかまわないと言われたのではない。
強さを我慢して受け入れてもらったのでもない。
強いままの自分を。
その強さを大切にし、傷つけるためではなく守るために使おうとしてきた自分を。
すてきだと言ってもらえた。
ずっと、自分が愛されない理由だと思っていたものを、縁之丞は好ましいものとして見ていた。
そのことが、信じられなかった。
けれど、信じたいと思った。
もっと、この人と話したい。
もう少し、この人のことを知りたい。
自分のことも、もっと見てほしい。
顔や家柄ではなく。
天音家の娘としてでもなく。
自分が選び、積み重ねてきたものを見てほしい。
そのような思いが、胸の中へ次々と浮かんだ。
弓香は、それに名前をつけなかった。
つけてはいけないような気がした。
少しうれしいだけ。
初めて認めてもらえたから、心が動いただけ。
この人が特別なのではない。
誰に同じことを言われても、きっと同じようにうれしかったはずだ。
そう思おうとした。
けれど、縁之丞の顔を見るだけで、先ほど自分の前へ出てくれた背中を思い出すだけで、胸がまた大きく鳴った。
誰に言われても同じではないことを、身体の方はもう知っているようだった。
「ありがとうございます」
弓香は、ようやく言った。
いつもと同じように笑おうとした。
けれど、うまくできなかった。
口元がわずかに震えた。
それでも縁之丞は、何も言わなかった。
ただ、弓香が言葉を見つけるのを待つように、静かに見ていた。
その目にも、値踏みするようなものはなかった。
女として正しいかをたしかめる目でもない。
ただ、天音弓香という一人の人間を見ていた。
弓香は、そっと紅茶を口へ運んだ。
少し冷めていた。
けれど、味はよく分からなかった。
胸の奥が、まだ落ち着かなかった。
縁之丞は、そのあとも何事もなかったように話を続けた。
コーヒーが思ったより苦かったこと。
学校の友人に、今日の服について相談したこと。
顔合わせの日と同じスーツなのは、ほかに何を着ればよいのか分からなかったからだということ。
「同じものだと思っておりました」
弓香が言うと、縁之丞は少し恥ずかしそうに笑った。
「気づいていたんですか」
「はい」
「何も言わないでください」
「もう、言ってしまいました」
そんなやり取りをしながら、弓香も笑った。
けれど心の中では、先ほどの言葉を何度も繰り返していた。
『すてきだと思います』
その言葉は、縁之丞が話すたびに、声の奥からもう一度聞こえてくるようだった。
やがて、窓から差し込む光の向きが変わった。
店へ入ったときよりも、通りを歩く人の影が長くなっている。
帰る時間が近づいていた。
そのことに気づいたとき、弓香の胸の中に、小さなさびしさが生まれた。
これまでの顔合わせでは、終わりの時刻を待っていた。
相手に失礼のないよう話しながら、あとどれほどで席を立てるのかを考えていた。
今日も、帰る時刻はあらかじめ決めていた。
その時刻を、自分で選んだ。
けれど今は、もう少し遅くしておけばよかったと思った。
もう少しだけ、この人と一緒にいたい。
もう少しだけ、この人の声を聞いていたい。
そんなことを思う自分に、弓香は戸惑った。
それが何なのか、まだ認めなかった。
ただ楽しかったから。
話し足りないから。
自分を肯定してくれる人と別れるのが惜しいだけ。
理由なら、いくつも考えられた。
けれど、どの理由も、胸の中にあるものすべてを説明してはいなかった。
このまま別れてしまえば、次に会える日が決まらないままになる。
縁之丞は、また話せますかと尋ねてくれるかもしれない。
けれど、それを待っているだけではいられなかった。
顔合わせの日、縁之丞は弓の基礎も学んだことがあると言っていた。
ならば、道場へ招くのは不自然ではない。
武道の話の続きとして。
共通するものを、もう少し知るために。
そう考えることができる。
けれど、本当は。
自分の射を見てほしかった。
長いあいだ積み重ねてきたものを。
弓香がもっとも大切にしているものを。
縁之丞に見てほしいと思った。
その気持ちへ気づいた途端、胸の音が大きくなった。
「霧島さん」
弓香は、紅茶のカップを置いた。
「はい」
縁之丞がこちらを見る。
その目を見た途端、先ほどまで考えていた言葉が、どこかへ消えてしまった。
「以前、弓の基礎も学ばれたと、おっしゃっていましたね」
「はい。家で少しだけ」
「今も、引かれるのですか」
「最近は、ほとんど」
縁之丞は少し考えた。
「剣道の方が中心なので」
「そうでしたか」
ここで話を終えることもできた。
弓香は、膝の上で重ねた指へ、わずかに力を入れた。
「よろしければ」
「はい」
「今度」
言葉が、思っていたよりも出てこなかった。
自分の家へ招く。
それだけのことだった。
けれど、胸は先ほど男たちを前にしたときよりも強く鳴っていた。
「天音家の弓道場へ、いらっしゃいませんか」
縁之丞が、少し目を見開いた。
「俺が行ってもいいんですか」
「もちろんです」
弓香は、いつものように落ち着いた声を作った。
「他家の方をお招きすることは、あまり多くありませんが」
そこまで言ってから、続きまで口にするか迷った。
ただ道場を見せたいだけなら、言う必要はなかった。
けれど、弓香が本当に伝えたかったのは、その先にあるものだった。
「あなたになら」
縁之丞を見る。
「私の射を、見ていただきたいです」
言ってしまった。
その瞬間、胸の中が熱くなった。
自分は何を言っているのだろう。
家へ招いて。
しかも、自分の射を見てほしいなどと。
あまりに気持ちが出すぎてはいないだろうか。
縁之丞に、変に思われてはいないだろうか。
弓香は表情だけは崩さなかった。
けれど、返事を待つ時間はひどく長く感じられた。
「ぜひ、お願いします」
縁之丞は答えた。
迷いのない声だった。
弓香は、胸の奥で小さく息をついた。
「ありがとうございます」
それだけを言った。
二人は都合のよい日をたしかめ、数日後に会うことを決めた。
帰る時間が近づいていることは変わらなかった。
けれど、先ほどまでとは少し違った。
今日が終わっても、すべてが終わるわけではない。
また会える。
次に会う日が、もう決まっている。
それだけで、胸の中のさびしさに、わずかなあたたかさが混じった。
店を出ると、外の空気は少し冷たくなっていた。
縁之丞は駅まで送ると言った。
「道は分かりますので、大丈夫ですよ」
「分かっていても、送らせてください」
強く言ったわけではない。
けれど、断るための言葉が弓香には浮かばなかった。
「では、お願いいたします」
二人は、来たときよりもゆっくりと歩いた。
どちらが歩調を遅くしたのかは、分からなかった。
道の途中で、ときおり言葉を交わした。
それ以外の時間も、静かなまま並んで歩いた。
駅が見えてくる。
あそこまで行けば、今日は終わる。
弓香は、駅へ近づくほど、自分の足が少し重くなるのを感じた。
次に会える日が決まっていても、別れが惜しいことは変わらなかった。
そのことが、弓香には不思議だった。
また会えるのだから、さびしがる必要などない。
けれど、今ここにいる縁之丞と別れることが、やはり名残惜しかった。
駅の前で、二人は足を止めた。
「今日は、ありがとうございました」
弓香は頭を下げた。
「俺の方こそ。楽しかったです」
縁之丞は、そう言った。
その一言だけで、胸の中に残っていた不安が少しほどけた。
「私も、楽しかったです」
弓香は顔を上げた。
今度は、礼儀のためではなく、そのままの気持ちを言えた。
縁之丞は、少しうれしそうに笑った。
「道場、楽しみにしています」
「はい」
弓香の返事は、考えるよりも早く出た。
「私も、楽しみにしております」
縁之丞と別れたあとも、弓香はすぐには歩き出せなかった。
人の流れの中へ消えていく背中を、しばらく見ていた。
もう振り返らないだろうと思ったころ、縁之丞が一度だけこちらを見た。
弓香は、とっさに小さく頭を下げた。
縁之丞も同じように頭を下げ、それからまた歩き出した。
その姿が見えなくなっても、弓香の胸は静まらなかった。
帰りの道で、何度も今日のことを思い出した。
前へ出てくれた背中。
いつもと変わらず笑ってくれたこと。
きれいだと言った声。
そして。
『すてきだと思います』
思い返すたび、胸の奥があたたかくなり、同じところが少し苦しくなった。
さらに、そのあとへ新しい言葉が続いた。
『ぜひ、お願いします』
自分の射を見てもらえる。
また会える。
次に会う日を、待つことができる。
弓香はまだ、胸の中にあるものを恋とは呼ばなかった。
ただ、別れたばかりなのに、もう一度会いたいと思っていた。
次に会える日を、すでに待ち始めていた。
これまで弓香の中で育ったことのないものが、知らないうちに根を伸ばしていた。
本人だけが、まだその名前を口にしていなかった。




