第3節 肯定
武道の話は、思っていたよりも長く続いた。
剣を握るときの手の形。弓を引くときの呼吸。冬の朝の道場が、どれほど冷たいか。何度やってもうまくいかない日に、それでも稽古をやめられなかったこと。
顔合わせの席で、そのような話をしたことは一度もなかった。
これまでの男性たちは、弓香が武道をしていると知ると、すぐに別の話題へ移った。あるいは、結婚したあとも続けるつもりなのかと尋ねた。
その問いにはいつも、やめてほしいという思いが、うすく混じっていた。
けれど、縁之丞は武道そのものについて話した。
強いかどうかではなく。
女がすることかどうかでもなく。
同じように稽古をしてきた者として、弓香の話を聞いていた。
そのことが、弓香にはまだ少し不思議だった。
「弓は、どのくらい引かれるのですか」
縁之丞が聞いた。
「毎朝です」
「毎朝?」
「はい。雨の日以外は」
「冬もですか」
「冬もです」
「寒くないですか」
「寒いですよ」
弓香が答えると、縁之丞は少し笑った。
「寒いんですね」
「もちろんです」
「天音さんなら、寒さも気にしないのかと思いました」
「そのようなことはありません」
弓香も、ほんの少しだけ口元をゆるめた。
「手がかじかむこともありますし、足の感覚がなくなることもあります」
「それでもやるんですね」
「霧島さんも、そうなのではありませんか」
「まあ、そうですけど」
縁之丞は、少し困ったように笑った。
その顔を見ながら、弓香は思った。
この人は、自分を特別なものとして見ていない。
強い女。
近寄りがたい女。
こわい女。
そのような言葉の中へ、弓香を押し込めようとしていない。
ただ、自分と同じように、寒い朝にも稽古をしてきた人間として見ている。
それが、うれしかった。
けれど、うれしいと思ってしまったことが、少しこわくもあった。
期待をすれば、そのぶんだけ傷つく。
もう、何度も分かっていたはずだった。
弓香は湯呑みへ手を伸ばした。中の茶は、いつの間にか少しぬるくなっていた。
「以前にも、何度か顔合わせをされたのですか」
縁之丞が、ためらうように聞いた。
「はい」
弓香は湯呑みを置いた。
「何度か」
「そうなんですね」
「霧島さんは、今日が初めてですか」
「はい。たぶん、これが最初です」
「たぶん?」
「小さいころの話まで入れたら、よく分からないので」
縁之丞はそう言って、また少し笑った。
弓香は、その言葉の意味を深く尋ねなかった。
この人にも、家の事情があるのだろう。名のある家に生まれれば、自分の知らないところで話が進んでいることもある。
それは、弓香にもよく分かっていた。
「顔合わせは、慣れるものですか」
縁之丞が聞いた。
弓香は少し考えた。
「席につくことには、慣れました」
「人と会うことには?」
「それも、ある程度は」
「では、緊張しないんですか」
「いいえ」
弓香は静かに首を振った。
「緊張はいたします」
「そうなんですか」
「そうは見えませんか」
「見えません」
縁之丞はすぐに答えた。
「ずっと落ち着いているように見えます」
「そう見えるようにしておりますので」
「やっぱり、隙がないですね」
その言葉に、弓香は一瞬だけ身をかたくした。
けれど、先ほどとは違った。
今度は、その言葉が何を指しているのか、もう知っていた。
「それは、褒め言葉でしょうか」
弓香が尋ねると、縁之丞は少しあわてた。
「たぶん」
「たぶん、ですか」
「俺は、褒めているつもりです」
「では、そのように受け取っておきます」
弓香は、わずかに笑った。
こんなやり取りも、顔合わせの席では初めてだった。
相手の言葉の裏を読み、失礼のない返事を選び、家と家とのつり合いを考える。これまでの顔合わせでは、いつもそうしていた。
けれど今は、ただ話をしている。
相手が言ったことを聞き、自分が思ったことを返している。
何かを試されているのでもなく、正しい答えを求められているのでもない。
そのことが、弓香には新しかった。
そして、少しだけ楽しかった。
だからこそ、胸の奥に生まれた小さな安心を、すぐに信じることができなかった。
楽しい時間ほど、終わるときは早い。
縁之丞も、武道のことをもう少し知れば、やがてほかの男性と同じことを言うかもしれない。
今は話が合うだけ。
今は珍しく思っているだけ。
結婚という話になれば、やはり女にはやめてほしいと思うかもしれない。
期待してはいけない。
この人のことも、まだ何も分からない。
弓香は、そう自分へ言い聞かせた。
そのとき、縁之丞が言った。
「さっき、以前の顔合わせは、あまりよくなかったように聞こえました」
弓香は顔を上げた。
「そう聞こえましたか」
「はい。違ったら、すみません」
「いいえ」
弓香は少しだけ目を伏せた。
話す必要はなかった。
過去の顔合わせで、何を言われたのか。どのような目で見られたのか。そのようなことを、今日会ったばかりの人へ話す理由はない。
話せば、重いと思われるかもしれない。
困らせるかもしれない。
何より、腕を折った話までしてしまえば、きっとこの時間は終わる。
弓香には、その先が見えていた。
それでも、言葉は胸のところまで上がってきていた。
どうしてなのか、自分でもよく分からなかった。
縁之丞がどう思うのか、知りたかったのかもしれない。
この人も、やはり同じなのか。
それとも、ほんの少しだけ違うのか。
たしかめたいと思ってしまった。
「以前、お会いした方々は」
弓香は、ゆっくりと話し始めた。
「私の顔や、家のことを、よく褒めてくださいました」
「はい」
「けれど、武道をしていると知ると、少しだけ態度が変わるのです」
縁之丞は口を挟まなかった。
ただ、弓香の言葉を待っていた。
「女がそこまで強いのは、こわいと」
弓香は膝の上へ置いた手を見た。
「結婚をしたら、やめてほしいと。夫となる方を立てるためにも、力は隠した方がよいと」
声は、いつものように穏やかだった。
何度も聞いた言葉だった。
もう、一つずつ思い出すこともないと思っていた。
けれど、口にしてみると、そのときの顔まで、思いがけないほどはっきりと浮かんだ。
笑いながら言った人。
やさしい声で言った人。
弓香のためを思っているように言った人。
どの人も、自分が弓香を傷つけているとは思っていなかった。
だから弓香も、その場では傷ついていないように笑った。
そうすることが、いつの間にか身についていた。
「それは、嫌ですね」
縁之丞が言った。
弓香は、思わず目を上げた。
「嫌、というのは」
縁之丞は少し考えながら続けた。
「天音さんが、ずっとやってきたものですよね」
「はい」
「それを、結婚するからやめろって言われるのは、嫌だと思います」
弓香は、すぐに返事ができなかった。
これまでにも、かわいそうだと言われたことはある。
大変だったでしょうと、形だけ気づかわれたこともある。
けれど、嫌ですねと言われたのは初めてだった。
それは同情ではなかった。
弓香の代わりに、少しだけ腹を立ててくれたような言葉だった。
「ですが」
弓香は、思わず言った。
「結婚をするのであれば、相手へ合わせることも必要なのだと思います」
「全部ですか」
「え」
「天音さんが大事にしてきたものを、全部なくしてまで?」
縁之丞の声に、強いものはなかった。
責めるような言い方でもない。
ただ、本当に分からないという顔をしていた。
弓香は、自分の手元を見た。
弓を引く指。
剣を握る手。
何度も皮がむけ、何度も血がにじみ、それでも使い続けてきた手だった。
「それは」
弓香は、言葉を選んだ。
「まだ、分かりません」
本当は、分かっていた。
やめたくない。
武道を捨ててまで、誰かの妻になりたいとは思わない。
けれど、それを口にすれば、やはり結婚には向かない女だと思われるような気がした。
これまで何度も、自分の本心よりも、相手が受け入れやすい答えを選んできた。
家の務めだから続けている。
結婚すれば考える。
夫となる方の意向に従う。
そう答えれば、その場は穏やかに進んだ。
けれど、縁之丞の前で同じことを言うのは、なぜかためらわれた。
縁之丞は、それ以上尋ねなかった。
無理に答えを求めることもしなかった。
弓香が言葉を見つけられないままでも、急かすことなく待っていた。
そのことに、弓香は少しだけ救われた。
話は、そこで終わってもよかった。
むしろ、終わらせるべきだったのかもしれない。
それ以上話せば、自分でも見ないようにしてきたものまで、外へ出てしまいそうだった。
けれど、弓香は続けた。
「一度だけ」
声が、ほんの少し小さくなった。
「顔合わせの席で、勝手に身体へ触れようとされたことがございます」
縁之丞の眉が、わずかに動いた。
「許しもなく?」
「はい」
「それは……」
縁之丞は、何かを言いかけてやめた。
弓香は、自分から先を話した。
「反射で、その方の手を取りました」
「はい」
「そのまま関節をきめたところ」
弓香は一度、息をついた。
「腕が折れてしまいまして」
部屋の中が静かになった。
庭の水音だけが聞こえた。
縁之丞は、何も言わなかった。
弓香は、その沈黙を知っていた。
これまでにも、何度か見てきた。
驚き。
ためらい。
どう返事をすればよいのか分からない時間。
そして、そのあとに来る言葉も知っていた。
こわいですね。
やりすぎではありませんか。
女の人が、そこまでしなくても。
その言葉を聞く前から、弓香の胸は静かにかたくなった。
話さなければよかった。
そう思った。
せっかく、楽しく話せていたのに。
もう少しだけ、この人と話してみたいと思っていたのに。
自分から、その時間を終わらせてしまった。
弓香は、いつもの笑顔を作った。
「思わず、力が入りすぎてしまいました」
「腕を折ったんですか」
縁之丞が、ようやく聞いた。
「はい」
「思わずで?」
「はい」
「どんな取り方をしたんですか」
弓香は、一瞬だけ返事に詰まった。
「少し、関節をきめただけです」
「少しで折れたんですか」
「加減が、間に合いませんでした」
縁之丞は、何とも言えない顔をした。
驚いている。
それは、当然だった。
弓香はもう、次の言葉を待つだけだった。
やはり、こわいですね。
そう言われたなら、笑って受け入れよう。席を立つときには、きちんと礼を言おう。
父や母には、今回はご縁がなかったようですと伝えればよい。
いつものことだった。
もう慣れている。
そう思っていた。
「そのあと」
弓香は静かに言った。
「ずいぶんと、こわがられてしまいました」
自分の声が、思っていたよりも遠く聞こえた。
「当然ですよね」
その言葉は、縁之丞へ向けたものではなかった。
自分へ言い聞かせるためのものだった。
当然なのだ。
腕を折るような女を、男の人がこわがるのは。
強い女を、妻にしたくないと思うのは。
それはもう、何度も分かったことだった。
弓香は、縁之丞の返事を待った。
胸の奥が、かすかに痛んでいた。
どうしてなのか、自分でも分からなかった。
ほかの人に否定されたときは、もう少しうまく笑えた。
この人にも、同じことを言われるだけなのに。
なぜか、聞きたくないと思った。
どうか。
こわいと言わないでほしい。
その思いが浮かんだことに、弓香自身がいちばん驚いた。
いつから、この人の言葉だけは、ほかの人と同じであってほしくないと思うようになったのだろう。
「俺は、そうは思いません」
縁之丞が言った。
弓香は顔を上げた。
「え」
小さな声が出た。
聞き間違いかもしれないと思った。
けれど、縁之丞はまっすぐに弓香を見ていた。
「勝手に触れようとした相手が悪いでしょう」
「ですが」
「天音さんは、自分の身を守っただけですよね」
「腕を、折ってしまいました」
「折られた人は、自分が何をしたのか分かっていたんですか」
「それは……」
弓香は言葉を失った。
これまで問われてきたのは、いつも弓香のしたことだった。
なぜ、そこまで力を使ったのか。
なぜ、もっと加減できなかったのか。
なぜ、女らしく受け流せなかったのか。
相手が何をしたのかを、先に問う人はいなかった。
「許しもなく触れたんですよね」
「はい」
「じゃあ、その人が悪いです」
縁之丞は、あっさりと言った。
迷う様子はなかった。
「でも」
弓香は、もう一度だけ言った。
「腕を折るほどではなかったと、皆さまは」
「俺は、そうは思いません」
同じ言葉が、今度はもっと静かに返ってきた。
「自分の身を守った結果なら、仕方ないと思います」
弓香は、縁之丞を見つめた。
力を使ったことを責められなかった。
こわいと言われなかった。
女だから我慢するべきだとも言われなかった。
自分のしたことを、正しかったのだと言われた。
そんなことは、初めてだった。
自分は悪くなかったのだろうか。
あのとき、謝らなくてもよかったのだろうか。
その考えは、弓香の中へすぐには入ってこなかった。
長いあいだ閉めていた戸を、外から静かに押されたようだった。
開いてよいのか分からない。
けれど、向こう側に誰かがいることだけは分かった。
「こわくは、ありませんか」
気づけば、そう尋ねていた。
声は静かだった。
けれど、それは礼儀のための問いではなかった。
本当に知りたかった。
この人は、自分をこわいと思わないのか。
強い自分を見ても、まだ同じように話してくれるのか。
縁之丞は少し考えた。
「折られたくはないですけど」
その答えに、弓香の胸が一瞬だけ止まった。
けれど、縁之丞はすぐに続けた。
「俺は、勝手に触れたりしませんから」
あまりにも当たり前のことのように言った。
弓香は、何も返せなかった。
部屋の中には、庭の水音が流れていた。
先ほどから、ずっと同じ音だった。
けれど今は、どこか遠く聞こえた。
胸の奥にあったかたいものが、ゆっくりとほどけていく。
安心したのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
自分は、縁之丞に否定されたくなかった。
そして、否定されなかった。
ただ、それだけのことだった。
けれど、弓香にとっては、ただのことではなかった。
長いあいだ、自分の強さは、女として欠けているものだと思っていた。
武道を続けることは、誰かに愛されることと引き換えになるのだと思っていた。
自分の身を守るために力を使っても、責められるのは自分なのだと受け入れていた。
それを、目の前の年下の男性は、違うと言った。
弓香のしてきたことを、変だとも、こわいとも、女らしくないとも言わなかった。
弓香は、自分の口元がゆるむのを感じた。
笑おうと思ったわけではない。
相手へ礼を尽くすためでもない。
きれいに見せるためでもなかった。
ただ、胸の中が少しあたたかくなって、気づいたときには笑っていた。
「……ありがとうございます」
自分の声まで、いつもよりやわらかく聞こえた。
縁之丞は、少し目を見開いた。
弓香には、その理由が分からなかった。
自分では、ただ笑っただけのつもりだった。
けれど、それまでの笑顔とは違っていた。
天音家の娘としての笑顔でも、縁談の相手へ向ける笑顔でもない。
誰かに見せるために作ったものではなかった。
縁之丞は、しばらく弓香を見ていた。
弓香は、また見られていることに気づいた。
けれど、今度は嫌ではなかった。
値踏みされているようにも思わなかった。
顔だけを見られているとも感じなかった。
「どうかなさいましたか」
弓香が尋ねると、縁之丞は少しだけ目をそらした。
「いえ」
「そうですか」
「ただ」
縁之丞は、言葉を選ぶように少し間を置いた。
「さっきより、話しやすそうに見えました」
弓香は一度だけまばたきをした。
「先ほどまでは、話しにくそうでしたか」
「隙がなかったので」
「また、それですか」
弓香が言うと、縁之丞は困ったように笑った。
その顔を見て、弓香ももう一度笑った。
今度は、先ほどよりも自然に。
胸の中にあった壁が、すべてなくなったわけではない。
この人なら大丈夫だと、信じきったわけでもない。
まだ、今日会ったばかりだった。
先のことなど、何も分からない。
それでも、強い自分を見せても、この人は席を立たなかった。
こわいと言わず、やめろとも言わず、弓香のしたことを責めなかった。
そのことだけで、胸の中に小さな場所ができた。
もう少しだけ、この人のことを知ってみたい。
もう少しだけ、この人と話してみたい。
そんな思いが、静かに生まれていた。
弓香は、まだそれを期待とは呼ばなかった。
ただ、縁之丞の前では、いつものように、すべてを諦めなくてもよいのかもしれない。
ほんの少しだけ、そう思った。




