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  作者: Atelier Lotus


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3/5

第3節 肯定

 武道の話は、思っていたよりも長く続いた。

 剣を握るときの手の形。弓を引くときの呼吸。冬の朝の道場が、どれほど冷たいか。何度やってもうまくいかない日に、それでも稽古をやめられなかったこと。

 顔合わせの席で、そのような話をしたことは一度もなかった。

 これまでの男性たちは、弓香が武道をしていると知ると、すぐに別の話題へ移った。あるいは、結婚したあとも続けるつもりなのかと尋ねた。

 その問いにはいつも、やめてほしいという思いが、うすく混じっていた。

 けれど、縁之丞は武道そのものについて話した。

 強いかどうかではなく。

 女がすることかどうかでもなく。

 同じように稽古をしてきた者として、弓香の話を聞いていた。

 そのことが、弓香にはまだ少し不思議だった。

「弓は、どのくらい引かれるのですか」

 縁之丞が聞いた。

「毎朝です」

「毎朝?」

「はい。雨の日以外は」

「冬もですか」

「冬もです」

「寒くないですか」

「寒いですよ」

 弓香が答えると、縁之丞は少し笑った。

「寒いんですね」

「もちろんです」

「天音さんなら、寒さも気にしないのかと思いました」

「そのようなことはありません」

 弓香も、ほんの少しだけ口元をゆるめた。

「手がかじかむこともありますし、足の感覚がなくなることもあります」

「それでもやるんですね」

「霧島さんも、そうなのではありませんか」

「まあ、そうですけど」

 縁之丞は、少し困ったように笑った。

 その顔を見ながら、弓香は思った。

 この人は、自分を特別なものとして見ていない。

 強い女。

 近寄りがたい女。

 こわい女。

 そのような言葉の中へ、弓香を押し込めようとしていない。

 ただ、自分と同じように、寒い朝にも稽古をしてきた人間として見ている。

 それが、うれしかった。

 けれど、うれしいと思ってしまったことが、少しこわくもあった。

 期待をすれば、そのぶんだけ傷つく。

 もう、何度も分かっていたはずだった。

 弓香は湯呑みへ手を伸ばした。中の茶は、いつの間にか少しぬるくなっていた。

「以前にも、何度か顔合わせをされたのですか」

 縁之丞が、ためらうように聞いた。

「はい」

 弓香は湯呑みを置いた。

「何度か」

「そうなんですね」

「霧島さんは、今日が初めてですか」

「はい。たぶん、これが最初です」

「たぶん?」

「小さいころの話まで入れたら、よく分からないので」

 縁之丞はそう言って、また少し笑った。

 弓香は、その言葉の意味を深く尋ねなかった。

 この人にも、家の事情があるのだろう。名のある家に生まれれば、自分の知らないところで話が進んでいることもある。

 それは、弓香にもよく分かっていた。

「顔合わせは、慣れるものですか」

 縁之丞が聞いた。

 弓香は少し考えた。

「席につくことには、慣れました」

「人と会うことには?」

「それも、ある程度は」

「では、緊張しないんですか」

「いいえ」

 弓香は静かに首を振った。

「緊張はいたします」

「そうなんですか」

「そうは見えませんか」

「見えません」

 縁之丞はすぐに答えた。

「ずっと落ち着いているように見えます」

「そう見えるようにしておりますので」

「やっぱり、隙がないですね」

 その言葉に、弓香は一瞬だけ身をかたくした。

 けれど、先ほどとは違った。

 今度は、その言葉が何を指しているのか、もう知っていた。

「それは、褒め言葉でしょうか」

 弓香が尋ねると、縁之丞は少しあわてた。

「たぶん」

「たぶん、ですか」

「俺は、褒めているつもりです」

「では、そのように受け取っておきます」

 弓香は、わずかに笑った。

 こんなやり取りも、顔合わせの席では初めてだった。

 相手の言葉の裏を読み、失礼のない返事を選び、家と家とのつり合いを考える。これまでの顔合わせでは、いつもそうしていた。

 けれど今は、ただ話をしている。

 相手が言ったことを聞き、自分が思ったことを返している。

 何かを試されているのでもなく、正しい答えを求められているのでもない。

 そのことが、弓香には新しかった。

 そして、少しだけ楽しかった。

 だからこそ、胸の奥に生まれた小さな安心を、すぐに信じることができなかった。

 楽しい時間ほど、終わるときは早い。

 縁之丞も、武道のことをもう少し知れば、やがてほかの男性と同じことを言うかもしれない。

 今は話が合うだけ。

 今は珍しく思っているだけ。

 結婚という話になれば、やはり女にはやめてほしいと思うかもしれない。

 期待してはいけない。

 この人のことも、まだ何も分からない。

 弓香は、そう自分へ言い聞かせた。

 そのとき、縁之丞が言った。

「さっき、以前の顔合わせは、あまりよくなかったように聞こえました」

 弓香は顔を上げた。

「そう聞こえましたか」

「はい。違ったら、すみません」

「いいえ」

 弓香は少しだけ目を伏せた。

 話す必要はなかった。

 過去の顔合わせで、何を言われたのか。どのような目で見られたのか。そのようなことを、今日会ったばかりの人へ話す理由はない。

 話せば、重いと思われるかもしれない。

 困らせるかもしれない。

 何より、腕を折った話までしてしまえば、きっとこの時間は終わる。

 弓香には、その先が見えていた。

 それでも、言葉は胸のところまで上がってきていた。

 どうしてなのか、自分でもよく分からなかった。

 縁之丞がどう思うのか、知りたかったのかもしれない。

 この人も、やはり同じなのか。

 それとも、ほんの少しだけ違うのか。

 たしかめたいと思ってしまった。

「以前、お会いした方々は」

 弓香は、ゆっくりと話し始めた。

「私の顔や、家のことを、よく褒めてくださいました」

「はい」

「けれど、武道をしていると知ると、少しだけ態度が変わるのです」

 縁之丞は口を挟まなかった。

 ただ、弓香の言葉を待っていた。

「女がそこまで強いのは、こわいと」

 弓香は膝の上へ置いた手を見た。

「結婚をしたら、やめてほしいと。夫となる方を立てるためにも、力は隠した方がよいと」

 声は、いつものように穏やかだった。

 何度も聞いた言葉だった。

 もう、一つずつ思い出すこともないと思っていた。

 けれど、口にしてみると、そのときの顔まで、思いがけないほどはっきりと浮かんだ。

 笑いながら言った人。

 やさしい声で言った人。

 弓香のためを思っているように言った人。

 どの人も、自分が弓香を傷つけているとは思っていなかった。

 だから弓香も、その場では傷ついていないように笑った。

 そうすることが、いつの間にか身についていた。

「それは、嫌ですね」

 縁之丞が言った。

 弓香は、思わず目を上げた。

「嫌、というのは」

 縁之丞は少し考えながら続けた。

「天音さんが、ずっとやってきたものですよね」

「はい」

「それを、結婚するからやめろって言われるのは、嫌だと思います」

 弓香は、すぐに返事ができなかった。

 これまでにも、かわいそうだと言われたことはある。

 大変だったでしょうと、形だけ気づかわれたこともある。

 けれど、嫌ですねと言われたのは初めてだった。

 それは同情ではなかった。

 弓香の代わりに、少しだけ腹を立ててくれたような言葉だった。

「ですが」

 弓香は、思わず言った。

「結婚をするのであれば、相手へ合わせることも必要なのだと思います」

「全部ですか」

「え」

「天音さんが大事にしてきたものを、全部なくしてまで?」

 縁之丞の声に、強いものはなかった。

 責めるような言い方でもない。

 ただ、本当に分からないという顔をしていた。

 弓香は、自分の手元を見た。

 弓を引く指。

 剣を握る手。

 何度も皮がむけ、何度も血がにじみ、それでも使い続けてきた手だった。

「それは」

 弓香は、言葉を選んだ。

「まだ、分かりません」

 本当は、分かっていた。

 やめたくない。

 武道を捨ててまで、誰かの妻になりたいとは思わない。

 けれど、それを口にすれば、やはり結婚には向かない女だと思われるような気がした。

 これまで何度も、自分の本心よりも、相手が受け入れやすい答えを選んできた。

 家の務めだから続けている。

 結婚すれば考える。

 夫となる方の意向に従う。

 そう答えれば、その場は穏やかに進んだ。

 けれど、縁之丞の前で同じことを言うのは、なぜかためらわれた。

 縁之丞は、それ以上尋ねなかった。

 無理に答えを求めることもしなかった。

 弓香が言葉を見つけられないままでも、急かすことなく待っていた。

 そのことに、弓香は少しだけ救われた。

 話は、そこで終わってもよかった。

 むしろ、終わらせるべきだったのかもしれない。

 それ以上話せば、自分でも見ないようにしてきたものまで、外へ出てしまいそうだった。

 けれど、弓香は続けた。

「一度だけ」

 声が、ほんの少し小さくなった。

「顔合わせの席で、勝手に身体へ触れようとされたことがございます」

 縁之丞の眉が、わずかに動いた。

「許しもなく?」

「はい」

「それは……」

 縁之丞は、何かを言いかけてやめた。

 弓香は、自分から先を話した。

「反射で、その方の手を取りました」

「はい」

「そのまま関節をきめたところ」

 弓香は一度、息をついた。

「腕が折れてしまいまして」

 部屋の中が静かになった。

 庭の水音だけが聞こえた。

 縁之丞は、何も言わなかった。

 弓香は、その沈黙を知っていた。

 これまでにも、何度か見てきた。

 驚き。

 ためらい。

 どう返事をすればよいのか分からない時間。

 そして、そのあとに来る言葉も知っていた。

 こわいですね。

 やりすぎではありませんか。

 女の人が、そこまでしなくても。

 その言葉を聞く前から、弓香の胸は静かにかたくなった。

 話さなければよかった。

 そう思った。

 せっかく、楽しく話せていたのに。

 もう少しだけ、この人と話してみたいと思っていたのに。

 自分から、その時間を終わらせてしまった。

 弓香は、いつもの笑顔を作った。

「思わず、力が入りすぎてしまいました」

「腕を折ったんですか」

 縁之丞が、ようやく聞いた。

「はい」

「思わずで?」

「はい」

「どんな取り方をしたんですか」

 弓香は、一瞬だけ返事に詰まった。

「少し、関節をきめただけです」

「少しで折れたんですか」

「加減が、間に合いませんでした」

 縁之丞は、何とも言えない顔をした。

 驚いている。

 それは、当然だった。

 弓香はもう、次の言葉を待つだけだった。

 やはり、こわいですね。

 そう言われたなら、笑って受け入れよう。席を立つときには、きちんと礼を言おう。

 父や母には、今回はご縁がなかったようですと伝えればよい。

 いつものことだった。

 もう慣れている。

 そう思っていた。

「そのあと」

 弓香は静かに言った。

「ずいぶんと、こわがられてしまいました」

 自分の声が、思っていたよりも遠く聞こえた。

「当然ですよね」

 その言葉は、縁之丞へ向けたものではなかった。

 自分へ言い聞かせるためのものだった。

 当然なのだ。

 腕を折るような女を、男の人がこわがるのは。

 強い女を、妻にしたくないと思うのは。

 それはもう、何度も分かったことだった。

 弓香は、縁之丞の返事を待った。

 胸の奥が、かすかに痛んでいた。

 どうしてなのか、自分でも分からなかった。

 ほかの人に否定されたときは、もう少しうまく笑えた。

 この人にも、同じことを言われるだけなのに。

 なぜか、聞きたくないと思った。

 どうか。

 こわいと言わないでほしい。

 その思いが浮かんだことに、弓香自身がいちばん驚いた。

 いつから、この人の言葉だけは、ほかの人と同じであってほしくないと思うようになったのだろう。

「俺は、そうは思いません」

 縁之丞が言った。

 弓香は顔を上げた。

「え」

 小さな声が出た。

 聞き間違いかもしれないと思った。

 けれど、縁之丞はまっすぐに弓香を見ていた。

「勝手に触れようとした相手が悪いでしょう」

「ですが」

「天音さんは、自分の身を守っただけですよね」

「腕を、折ってしまいました」

「折られた人は、自分が何をしたのか分かっていたんですか」

「それは……」

 弓香は言葉を失った。

 これまで問われてきたのは、いつも弓香のしたことだった。

 なぜ、そこまで力を使ったのか。

 なぜ、もっと加減できなかったのか。

 なぜ、女らしく受け流せなかったのか。

 相手が何をしたのかを、先に問う人はいなかった。

「許しもなく触れたんですよね」

「はい」

「じゃあ、その人が悪いです」

 縁之丞は、あっさりと言った。

 迷う様子はなかった。

「でも」

 弓香は、もう一度だけ言った。

「腕を折るほどではなかったと、皆さまは」

「俺は、そうは思いません」

 同じ言葉が、今度はもっと静かに返ってきた。

「自分の身を守った結果なら、仕方ないと思います」

 弓香は、縁之丞を見つめた。

 力を使ったことを責められなかった。

 こわいと言われなかった。

 女だから我慢するべきだとも言われなかった。

 自分のしたことを、正しかったのだと言われた。

 そんなことは、初めてだった。

 自分は悪くなかったのだろうか。

 あのとき、謝らなくてもよかったのだろうか。

 その考えは、弓香の中へすぐには入ってこなかった。

 長いあいだ閉めていた戸を、外から静かに押されたようだった。

 開いてよいのか分からない。

 けれど、向こう側に誰かがいることだけは分かった。

「こわくは、ありませんか」

 気づけば、そう尋ねていた。

 声は静かだった。

 けれど、それは礼儀のための問いではなかった。

 本当に知りたかった。

 この人は、自分をこわいと思わないのか。

 強い自分を見ても、まだ同じように話してくれるのか。

 縁之丞は少し考えた。

「折られたくはないですけど」

 その答えに、弓香の胸が一瞬だけ止まった。

 けれど、縁之丞はすぐに続けた。

「俺は、勝手に触れたりしませんから」

 あまりにも当たり前のことのように言った。

 弓香は、何も返せなかった。

 部屋の中には、庭の水音が流れていた。

 先ほどから、ずっと同じ音だった。

 けれど今は、どこか遠く聞こえた。

 胸の奥にあったかたいものが、ゆっくりとほどけていく。

 安心したのだと気づくまでに、少し時間がかかった。

 自分は、縁之丞に否定されたくなかった。

 そして、否定されなかった。

 ただ、それだけのことだった。

 けれど、弓香にとっては、ただのことではなかった。

 長いあいだ、自分の強さは、女として欠けているものだと思っていた。

 武道を続けることは、誰かに愛されることと引き換えになるのだと思っていた。

 自分の身を守るために力を使っても、責められるのは自分なのだと受け入れていた。

 それを、目の前の年下の男性は、違うと言った。

 弓香のしてきたことを、変だとも、こわいとも、女らしくないとも言わなかった。

 弓香は、自分の口元がゆるむのを感じた。

 笑おうと思ったわけではない。

 相手へ礼を尽くすためでもない。

 きれいに見せるためでもなかった。

 ただ、胸の中が少しあたたかくなって、気づいたときには笑っていた。

「……ありがとうございます」

 自分の声まで、いつもよりやわらかく聞こえた。

 縁之丞は、少し目を見開いた。

 弓香には、その理由が分からなかった。

 自分では、ただ笑っただけのつもりだった。

 けれど、それまでの笑顔とは違っていた。

 天音家の娘としての笑顔でも、縁談の相手へ向ける笑顔でもない。

 誰かに見せるために作ったものではなかった。

 縁之丞は、しばらく弓香を見ていた。

 弓香は、また見られていることに気づいた。

 けれど、今度は嫌ではなかった。

 値踏みされているようにも思わなかった。

 顔だけを見られているとも感じなかった。

「どうかなさいましたか」

 弓香が尋ねると、縁之丞は少しだけ目をそらした。

「いえ」

「そうですか」

「ただ」

 縁之丞は、言葉を選ぶように少し間を置いた。

「さっきより、話しやすそうに見えました」

 弓香は一度だけまばたきをした。

「先ほどまでは、話しにくそうでしたか」

「隙がなかったので」

「また、それですか」

 弓香が言うと、縁之丞は困ったように笑った。

 その顔を見て、弓香ももう一度笑った。

 今度は、先ほどよりも自然に。

 胸の中にあった壁が、すべてなくなったわけではない。

 この人なら大丈夫だと、信じきったわけでもない。

 まだ、今日会ったばかりだった。

 先のことなど、何も分からない。

 それでも、強い自分を見せても、この人は席を立たなかった。

 こわいと言わず、やめろとも言わず、弓香のしたことを責めなかった。

 そのことだけで、胸の中に小さな場所ができた。

 もう少しだけ、この人のことを知ってみたい。

 もう少しだけ、この人と話してみたい。

 そんな思いが、静かに生まれていた。

 弓香は、まだそれを期待とは呼ばなかった。

 ただ、縁之丞の前では、いつものように、すべてを諦めなくてもよいのかもしれない。

 ほんの少しだけ、そう思った。

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