第2節 出会い
襖の向こうから聞こえた声は、思っていたよりも若かった。
「本日は、よろしくお願いいたします」
低くはあるけれど、まだ少年らしさの残る声だった。
弓香は一度だけ、鏡の中の自分を見た。
髪に乱れはない。着物にも、くずれはない。鏡の中には、いつもと変わらない静かな顔があった。
それをたしかめてから、ゆっくりと立ち上がった。
今日の相手は、霧島家の息子だと聞いていた。
霧島家も天音家と同じように、古くから武道を受け継いできた家だった。家同士の付き合いもあり、父たちにとっては、以前から考えていた縁談なのかもしれなかった。
年は十六。
弓香よりも四つ若い。
これまで顔を合わせてきた男性は、みな自分よりも年上だった。年下の男性と縁談の席につくのは、初めてだった。
だからといって、何かが変わるとは思っていなかった。
年が上でも、年が下でも、男性が弓香を見る目は、きっと同じなのだろう。
顔を見て、家柄を見て、妻としてふさわしいかを考える。武道のことを知れば、わずかに表情を曇らせる。
もう何度も繰り返してきたことだった。
それでも、相手が年下である以上、自分がしっかりしなければならないと思った。
気まずい思いをさせないように。話が途切れたなら、自分から声をかけられるように。少なくとも、落ち着いた年上の女性でいよう。
縁談に期待をしなくなっても、相手へ礼を尽くすことまでやめたわけではなかった。
弓香は襖へ手をかけた。開く前に、小さく息を吸う。
期待はしていない。
だから、緊張する理由もないはずだった。
それでも、知らない人の前へ出るときには、胸の奥がわずかにかたくなる。何度繰り返しても、それだけは変わらなかった。
襖を静かに開いた。
「遅くなり、申し訳ございません」
部屋の中には、両家の親たちがそろっていた。
その中に、一人だけ洋装の若い男性がいた。
濃紺のスーツを着ている。背筋はまっすぐに伸びていたが、首元のネクタイだけが、少し窮屈そうに見えた。
弓香が部屋へ入ると、その人はすぐに立ち上がった。
目が合った。
まっすぐな目だった。
弓香の顔を見ている。髪も、着物も、おそらく見ているのだろう。
けれど、その視線には、これまで向けられてきたものとは少し違うところがあった。
きれいかどうかをたしかめる目でもない。妻としてふさわしいかを、ひとつずつ見定める目でもない。
ただ、驚いているようだった。
弓香は、そのわずかな違いに気づいた。
けれど、すぐに気のせいだと思い直した。
期待をすれば、見たいものが見える。
以前の自分なら、相手の目にある小さなやさしさを探し、それを特別なものだと思おうとしたかもしれない。
もう、そのようなことはしないと決めていた。
「娘の弓香です」
父に紹介され、弓香は両手をそろえた。
「天音弓香と申します。本日はよろしくお願いいたします」
「霧島縁之丞です。こちらこそ、よろしくお願いします」
縁之丞は、少し深すぎるほど頭を下げた。
顔合わせの席に、まだ慣れていないのだろう。その不器用な礼が、整いすぎた挨拶よりも、かえって素直なものに見えた。
弓香は、ほんの少しだけ好ましく思った。
ただし、それを顔へ出すことはしなかった。
最初の挨拶を終えると、食事が運ばれてきた。
はじめのうちは、父親同士が話をしていた。古くからの家のこと。共通の知り合いのこと。それぞれの家に残る習わしのこと。
母たちも、ときおり言葉を添えた。
弓香は聞かれたことに答え、必要なときには笑った。縁之丞も、同じようにしていた。
けれど、二人だけで言葉を交わすことは、ほとんどなかった。
何度か目が合った。
そのたびに、縁之丞はわずかに視線をそらした。
やはり緊張しているのだろうと、弓香は思った。
年下の相手を気まずくさせてはいけない。何か話しかけた方がよいのかもしれない。
けれど、親たちの会話を遮ってまで口にするような話題は見つからなかった。
弓香は静かに箸を動かした。
食事のあいだも、縁之丞の視線を何度か感じた。
顔へ向けられているときもあった。けれど、それだけではなかった。
箸を置く手。椀を持つ指。立ち上がるときの足の位置。座り直すときの腰の動き。
そのようなところを見られているような気がした。
見られることには慣れている。
顔合わせの席では、顔も髪も着物も、指先まで見られる。
けれど、何を見られているのか分からない目には、少し落ち着かなかった。
着物の着方に、おかしなところがあるのだろうか。所作がかたすぎるのかもしれない。
あるいは、自分のどこかに、また女性らしくないものが出ているのだろうか。
そう考えかけて、弓香はやめた。
考えても仕方がない。
どう思われたとしても、いつものことだった。
食事が終わるころ、父が言った。
「せっかくですから、あとは若いお二人でお話しされてはいかがでしょう」
霧島家の父親も、穏やかにうなずいた。
「そうですね」
親たちは、はじめからそうするつもりだったのだろう。ためらう様子もなく、すぐに席を立った。
母は部屋を出る前に、一度だけ弓香を見た。
いつもと変わらない、静かな目だった。
無理に話をまとめる必要はない。
そう言っているようにも見えた。
襖が閉まる。
部屋の中に、弓香と縁之丞だけが残された。
急に静かになった。
庭から水の音が聞こえた。どこかで鳥が鳴き、すぐに声が遠ざかっていった。
縁之丞は背筋を伸ばしたまま、何かを言おうとしているようだった。けれど、言葉が見つからないらしい。
目が合う。
縁之丞は、また少しだけ目をそらした。
弓香は思った。
やはり、自分は近寄りがたく見えるのだろう。
これまでにも、そう言われたことがある。
隙がない。
こわい。
笑っていても、気を許しているように見えない。
自分では、普通にしているつもりだった。
けれど、長いあいだ武道を続けてきたからだろうか。知らない人の前では、身体が勝手に備えてしまう。
肩へ余計な力を入れているつもりはない。それでも、相手が手を伸ばせばすぐに動ける位置へ腕を置き、立ち上がるときにも足を崩しすぎない。
考えてしていることではなかった。
身体の方が、そうすることを覚えていた。
このまま黙っていては、年下の縁之丞を困らせてしまう。
弓香は先に口を開いた。
「私を、こわいと思われましたか」
「え?」
縁之丞は、思いがけないことを聞かれたような顔をした。
弓香はほほえんだ。
「先ほどから、ずいぶん緊張されているようでしたので」
「ああ……」
縁之丞は、自分の手元を見た。
すぐには答えず、少し考えている。
その間を、弓香は嫌いではないと思った。
こわくないと、反射のように否定されるよりもよかった。相手を喜ばせるためだけの言葉ではなく、自分の中にあるものを、きちんと探しているように見えた。
こわくないと言ってもらいたいわけではない。
もう、そういう言葉を求めることはやめていた。
ただ、相手が話しやすくなれば、それでよかった。
「こわいというより」
縁之丞は、ようやく弓香を見た。
「はい」
「隙がない人だと思いました」
弓香は、すぐには返事ができなかった。
「隙がない、ですか」
口では静かに聞き返した。
けれど、胸の中では、先ほどよりも少しだけ身をかたくしていた。
隙がない。
それは、褒め言葉ではないのだろう。
女性らしくない。近寄りがたい。かわいげがない。
これまで言われてきた言葉が、ひとつずつ静かに浮かんだ。
やはり、この人も同じなのかもしれない。
顔合わせが始まって、まだそれほど時間はたっていない。それでも、もう終わりが見えたような気がした。
弓香は、いつもの笑顔を崩さなかった。
「よく、そのように言われます」
「いや、そういう意味じゃなくて」
縁之丞は、少しあわてた。
弓香は目を上げた。
「立ち方とか、歩き方とか」
縁之丞は、言葉を探しながら続けた。
「重心が、ずっとぶれないんです」
「重心……」
「座るときも、立つときもです。足の置き方も、目の動かし方も、普通の人とは違うように見えました」
弓香は、縁之丞の顔を見た。
冗談を言っている様子はなかった。
女性として隙がないと言ったのではない。
近寄りがたいと責めたかったのでもない。
縁之丞は、弓香の身体の使い方を見ていた。
顔ではなく。
髪でもなく。
着物でもなく。
立ち方を見ていた。
顔合わせの席で、そんなところを見られたのは初めてだった。
「武道をされていますよね」
縁之丞は、たしかめるように言った。
弓香の胸が、かすかに止まった。
「……分かるのですか」
声は、いつもどおりに出た。
けれど、膝の上で重ねた指先には、少しだけ力が入った。
気づかれてしまった。
その思いが、まず浮かんだ。
武道をしていると知られることは、長所を見つけてもらうことではない。
弓香にとっては、顔合わせの終わりを告げられることに近かった。
ここから、相手の顔が変わる。
笑い方がかたくなる。
女性なのに、と言われる。
少しこわいですね、と笑われる。
結婚したらやめてほしいと、やさしい声で言われる。
もう、何度も見てきた。
驚くことではない。
傷つくことでもない。
今日も、そうなるだけだった。
弓香は、縁之丞の次の言葉を待った。
笑顔は崩さない。目もそらさない。
どのようなことを言われても、穏やかに受け止めようと思った。
「俺も、剣道をやっているので」
縁之丞は言った。
ただ、それだけだった。
弓香は、返事を忘れた。
縁之丞の顔には、嫌そうな色がなかった。
驚きも、ためらいも、武道をする女性への戸惑いもなかった。
自分も剣道をしているから気づいた。
縁之丞にとっては、本当にそれだけのことらしい。
「そう、でしたか」
ようやく出た言葉は、少しかたいものになった。
「はい。正確に何をされているのかまでは、分かりませんでしたけど」
「私は、弓をしております」
弓香は答えた。
「弓道ですか」
「はい。ほかにも、剣術や柔術などを少し」
「少し?」
縁之丞が聞き返した。
弓香は、わずかに首をかしげた。
「はい」
「その『少し』、たぶん俺が思っている少しと違いますよね」
真面目な顔で言われて、弓香は一度だけまばたきをした。
冗談なのだと気づくまで、ほんの少し時間がかかった。
「そうでしょうか」
「何年くらいやっているんですか」
「もの心がついたころからです」
「それは、もう少しじゃないと思います」
縁之丞が、かすかに笑った。
その笑みは、弓香をからかうものではなかった。驚きながらも、どこか楽しそうだった。
弓香の胸の中でも、何かが少しだけゆるんだ。
武道の話をしている。
顔合わせの席で。
男性と。
それも、嫌そうな顔をされずに。
そのことが、不思議だった。
「霧島さんは、いつから剣道をなさっているのですか」
「俺も、小さいころからです」
「ご家族にすすめられて?」
「最初はそうです。でも、今は自分で続けています」
その答えに、弓香は顔を上げた。
「私も同じです」
「天音さんも?」
「はい。家に生まれた者として、はじめは学ぶことが当たり前でした。けれど、今は自分で選んで続けています」
口にしながら、弓香は不思議な気持ちになった。
これまでの顔合わせでも、武道を続けている理由を尋ねられたことはあった。
けれど、それはたいてい、やめられない理由を問いただすような聞き方だった。
なぜ、そこまで続けるのか。
女性なのに、何のために必要なのか。
弓香はそのたびに、天音家の娘としての務めだからと答えてきた。
それなら相手も納得しやすかった。
本当は好きだから続けているのだと、口にすることは少なかった。
それを言えば、いっそう理解されなくなるような気がしていた。
けれど、今は自然に言えた。
自分で選んでいるのだと。
「じゃあ、やめろって言われても、やめませんか」
何げない問いだった。
弓香は、すぐに答えた。
「やめないと思います」
言ってから、わずかに身構えた。
結婚しても続けるつもりなのか。
夫より武道を選ぶのか。
そう聞かれるかもしれない。
けれど、縁之丞はただうなずいた。
「俺もです」
それだけだった。
弓香は、その短い返事を胸の中で繰り返した。
俺もです。
同じなのだと言われた。
これまでの縁談では、家柄のつり合いを語られた。年齢がちょうどよいと言われた。両家にとって、よい話になるだろうと言われた。
けれど、弓香と相手のあいだにあるものを、同じだと言われたことはなかった。
弓香が好きで続けてきたこと。
つらくても、手放したくなかったこと。
誰かのためだけではなく、自分のために選び続けてきたこと。
それを、縁之丞も持っている。
そのことが、思っていたよりもうれしかった。
胸の奥へ、あたたかいものが生まれかけた。
けれど、弓香はすぐに、それを信じてはいけないと思った。
これまでにも、はじめは理解のある顔をする人はいた。少しくらいなら続けてもよいと言いながら、結婚の話が進むと、やはりやめてほしいと言った人もいる。
まだ、何も分からない。
少し話が合っただけだ。
この人がほかの男性と違うと決まったわけではない。
期待は、あとになって自分を傷つける。
弓香は、胸の中に生まれた小さなものへ、静かに蓋をした。
「弓も引かれるのですか」
縁之丞が聞いた。
「はい。いちばん長く続けております」
「俺は基礎だけ習いました」
「では、共通するところが多いのですね」
弓香は、そう言った。
口にしてから、その言葉が思っていたよりもやわらかく響いたことに気づいた。
共通するところ。
家の格でも、年齢でも、親同士の考えでもない。
自分と縁之丞のあいだにあるものだった。
「そうですね」
縁之丞も、すぐにうなずいた。
会話は、それからも続いた。
剣を持つときの手の形。弓を引くときの呼吸。幼いころ、何度も同じ型をやり直させられたこと。冬の朝には、道場の床がひどく冷たかったこと。手にまめができても、休む方が嫌だったこと。
話題は、どれも小さなものだった。
けれど弓香には、その一つひとつが新しかった。
縁之丞が話すたびに、自分の中にも似た記憶があることへ気づいた。うまくできず、ひとりだけ稽古を続けた夕方。手の皮が破れ、痛みを隠して弓を引いた朝。初めて父に一本を認めてもらえた日のこと。
これまでは、自分の中だけに置いてきた記憶だった。
話しても分かってもらえないと思い、口にすることをやめていた。
けれど、縁之丞なら、その冷たさや痛みを知っているのかもしれなかった。
相手の話を、もう少し聞きたいと思った。
自分のことも、もう少し話してみたいと思った。
顔合わせの席で、時間が早く過ぎると感じたのは初めてだった。
それでも、弓香はまだ期待しなかった。
この人なら、自分を分かってくれるかもしれない。
そのようなことは、考えないようにした。
ただ、先ほどまで胸の奥にあったかたさが、少しだけほどけている。
それだけでよかった。
今日は、まだ顔をそむけられていない。
武道を知っても、会話は終わらなかった。
むしろ、そこから始まった。
そのことを、弓香はひそかにうれしく思った。
庭から、また水の音が聞こえた。
先ほどから、同じように流れていたはずの音だった。
けれど今は、二人の会話の合間を埋める静けさとして、穏やかに耳へ届いた。
縁之丞が、剣道の試合で初めて負けた日のことを話していた。
弓香は、その声に耳を傾けながら、ほんの少しだけ笑った。
縁談の席で作る、いつもの笑顔ではなかった。
けれど、弓香自身も、その違いにはまだ気づいていなかった。
心を許したわけではない。
何かを望んだわけでもない。
ただ、もう少しだけ、この人と話していたいと思った。




