第1節 諦め
人は、恋をした瞬間よりも。
その恋だったのだと気づいた瞬間を、強く覚えているのかもしれません。
この物語に登場する一人の女性もまた、自分が恋をしていたことを知るまで、その想いに名前を付けることができませんでした。
誰も悪くなかった。
誰かが裏切ったわけでもない。
だからこそ、どうすることもできなかった。
そんな静かな初恋を描いた物語です。
最後の一頁まで、お付き合いいただけましたら幸いです。
天音弓香は、代々武道を受け継いできた武家の娘として生まれた。
もの心がついたころには、もう小さな手で木刀を握っていた。朝はまだ庭の土が冷たいうちに起き、父や兄たちに交じって素振りをした。日が昇れば弓を引き、夕方になれば型を繰り返した。
春が来ても、夏が来ても、秋が過ぎて冬になっても、その毎日はほとんど変わらなかった。
幼い弓香は、それをつらいとは思っていなかった。
武家に生まれたのだから、武道を学ぶ。それは朝になれば起きることや、食事の前に手を合わせることと同じくらい、当たり前のことだった。
もちろん、楽なことばかりではなかった。
思うように足が動かず、何度も庭の土へ転んだ。弓を引く指が痛み、箸を持つことさえつらくなった日もある。兄たちが簡単にできることを、自分だけができないのが悔しくて、布団の中でひとり泣いた夜もあった。
それでも、やめたいとは思わなかった。
きのうできなかったことが、きょうは少しだけできる。届かなかったところへ、ようやく手が届く。何度放ってもぶれていた矢が、ある日、不思議なほどまっすぐに飛んでいく。
そのたびに、胸の中へ小さなよろこびが生まれた。
父に褒められることもうれしかった。兄たちが自分のことのようによろこび、頭を撫でてくれることもうれしかった。
けれど、何よりうれしかったのは、自分のからだが少しずつ、自分の思うとおりに動くようになることだった。
力を入れることだけが強さではないと知った。余計な力を抜けば、かえって速く動けることを知った。相手へ向かうだけでなく、相手の力を受け、流し、自分の動きへ変えることを知った。
稽古を重ねるたびに、昨日まで知らなかった自分のからだを知った。
武道は、天音家に生まれた者としてのつとめだった。
けれど、それだけではなかった。
弓香は、自分からこの道を選び続けていた。誰かに命じられたからではなく、自分の足で庭へ出て、自分の手で木刀を握った。
毎朝。
毎日。
つらい日にも、うれしい日にも。
弓を引くことも、剣を握ることも、弓香にとっては息をすることとあまり変わらなかった。
武道は、誇りだった。
自分が自分であるために、なくてはならないものだった。
だから、それを手放す日が来るなど、考えたこともなかった。
成人すると、縁談の話が来るようになった。
武家の娘として、それもまた当たり前のことだった。
父や母に言われれば、弓香はきちんと身なりを整えた。髪を結い、着物を選び、相手の家へ失礼のないように背筋を伸ばした。
顔合わせの日には、稽古で硬くなった指先が見えすぎないよう、膝の上でそっと重ねた。そうするように言われたわけではない。ただ、きれいに整えられた部屋や、やわらかな香りのする着物の中では、自分の手だけが場違いに思えることがあった。
はじめのころは、少しだけ期待していた。
結婚というものが、どのようなものなのか。誰かとともに生きるということが、どのようなことなのか。弓香には、まだよく分からなかった。
けれど、いつかは自分にも、心をゆるせる人ができるのかもしれないと思っていた。
稽古のあとにあったことを話したり、うまくいかなかった日の悔しさを聞いてもらったりするのだろうか。朝、目を覚ましたときに誰かがいて、夜になれば同じ家へ帰る。そのような暮らしを、ほんの少しだけ思い浮かべたこともあった。
その想像の中にいる人の顔は、いつもぼんやりとしていた。
まだ会ったことのない相手なのだから、それでよかった。
顔合わせに来る男性たちは、みな礼儀正しかった。
名のある家に生まれ、立派な身なりをし、ことばづかいも整っていた。座る姿勢も、茶碗の持ち方も、あらかじめ教えられたもののように美しかった。
そして弓香を見ると、決まってよく似たことを言った。
「おきれいですね」
「天音家のご令嬢らしい方です」
「妻にするなら、これほど申し分のない方はいません」
弓香は、そのたびに笑って頭を下げた。
「ありがとうございます」
褒めてもらえることは、ありがたいことなのだろうと思った。相手もきっと、弓香をよろこばせようとして言ってくれている。
だから、はじめのころは、そのことばを素直に受け取ろうとした。
きれいだと言われれば、きれいに装ってきた甲斐があったのだと思った。天音家の娘らしいと言われれば、家に恥じない振る舞いができているのだと安心した。
けれど、何度も顔合わせを重ねるうちに、弓香は気づいた。
男性たちの目は、よく似ていた。
顔を見る。髪を見る。着物を見る。指先を見る。立ち方を見る。
言葉を交わしているあいだも、その視線は弓香の上を少しずつ動いていった。まるで傷がないかをたしかめるように。家へ迎え入れても問題がないか、ひとつずつ調べているように。
その目は、弓香を見ているようで、弓香を見てはいなかった。
美しいか。
家柄はつり合うか。
人前へ出しても恥ずかしくないか。
妻として、夫の言うことをききそうか。
彼らが見ているものは、そういうことばかりだった。
弓香がどのような朝を過ごしてきたのか。何を好きなのか。何を悔しいと思うのか。何を大切にしているのか。
そのようなことを尋ねる人はいなかった。
弓香が話し始めようとする前に、次の質問が来た。料理はできるか。家の付き合いを任せられるか。子どもは何人ほしいか。夫の仕事を支えることについて、どう考えているか。
どれも、結婚を考えるなら必要なことなのだろう。
弓香も一つずつ、丁寧に答えた。
けれど、顔合わせが終わったあと、自分が何を話したのか思い返してみると、そこに弓香自身のことはほとんどなかった。
はじめのころは、それが少しさびしかった。
帰宅して髪飾りを外し、重ねていた指をほどいたとき、胸の中に小さな空白が残ることがあった。失礼なことを言われたわけではない。嫌な顔をされたわけでもない。それなのに、何も話せなかったような気がした。
けれど、顔合わせとは、そういうものなのだろうとも思った。
結婚は、気持ちだけでするものではない。家と家とのつながりもある。つり合いもある。果たすべき役目もある。
だから、自分のことを深く知ってもらえなくても、仕方がないのかもしれない。
相手もまた、自分の家のためにここへ来ているのだ。好きなものや、幼いころの夢を語るためではない。弓香だけが心を求めるのは、幼いわがままなのだと思った。
そうやって、弓香は自分を納得させた。
結婚に、心を求めすぎてはいけない。
はじめの諦めは、そのくらいの小さなものだった。
やがて、話の中で武道のことが出るようになった。
天音家の娘である以上、隠しておけることでもない。相手の家も、弓香が幼いころから稽古を続けていることは、あらかじめ聞いているはずだった。
それでも、実際にその話題になると、男性たちの顔にはほんの少しだけ変化があらわれた。
笑っている。
けれど、目だけが笑わなくなる。
「女性なのに、ずいぶん本格的なのですね」
「少し、こわいですね」
「結婚したあとも、続けるおつもりですか」
「夫より強い妻というのは、少し困ります」
冗談のように言う人もいた。口元に笑みを浮かべ、弓香も笑うものと思っているようだった。
やさしいことばを選ぶ人もいた。
「ご結婚されたら、もう少しおだやかなことをなさってはいかがですか」
「お花やお茶の方が、女性らしくてよいと思います」
弓香は、そのたびに笑った。
「そういうお考えもございますね」
声は、いつも静かだった。
相手に悪気がないことくらい、分かっていた。
きっと、その人たちにとっては、強い女性というものがめずらしいだけなのだ。自分の知っている妻や母や姉妹とは、少しちがって見えるのだろう。
だから、はじめは気にしないようにした。
一度目は、笑って流した。
二度目も、同じように笑った。
三度目には、口元へ笑みを浮かべるまでの時間さえ短くなった。
笑うことに慣れたのだと思っていた。
けれど、胸の中には、少しずつ何かが残った。
武道をしている自分は、女としてどこか欠けているのだろうか。
強いことは、夫になる人を傷つけることなのだろうか。
自分が長いあいだ大切にしてきたものは、結婚をするなら捨てなくてはならないのだろうか。
そのような考えは、稽古をしているときにも、不意に浮かぶようになった。
木刀を握った手を見て、この手を嫌う人がいるのだと思った。矢をつがえながら、結婚すればこの弓に触れられなくなるのかもしれないと考えた。
そう思った次の瞬間には、自分をたしなめた。
まだ何も決まっていない。すべての人が同じとは限らない。結婚したあとも続けてよいと言ってくれる人がいるかもしれない。
けれど、次の顔合わせでも、よく似た目を向けられた。
男性たちは、弓香が武道をしていると知る前までは、彼女を理想の妻だと言った。
けれど、そのことを知ったあとは、少しだけ身を引いた。
弓香は、そのわずかな変化を見のがさなかった。
視線が遠くなる。笑い方がかたくなる。それまで弓香へ向けられていたからだが、わずかに後ろへ傾く。
そして最後には、できるだけやわらかな声で、武道をやめてほしいと言う。
命じるように言われたことは、ほとんどなかった。みな弓香のためを思っているような口調で話した。
妻になれば忙しくなる。
子どもができれば危ない。
武道をしなくても、弓香にはほかによいところがたくさんある。
そのことばを聞くたび、弓香は思った。
ああ、この人も同じなのだと。
武道をしている自分を好きになってほしいわけではなかった。
ただ、それも自分の一部なのだと知ってほしかった。なくしてしまえば済むものではないと、少しだけ考えてほしかった。
けれど、その願いを口にしたことはなかった。
相手を困らせるだけだと思った。
そのうち、男性に何かを期待することも少なくなった。
見てもらいたいとは思わない。分かってもらいたいとも思わない。どうせ最後には、今のままの自分では困ると言われる。
そう思えば、傷つかずに済んだ。
顔合わせの前に、相手がどのような人なのかを気にすることもなくなった。
年齢。家柄。仕事。
父から聞かされれば、必要なことだけを覚えた。けれど、どのような声で笑う人なのか、何を好む人なのかまで想像することはなくなった。
会う前に相手を思い描けば、そのぶんだけ、実際の姿との間に何かが残る。ならば、はじめから何も思わない方がよかった。
どの人も、きっと同じように自分を見る。
美しいと言い、家柄を褒め、武道を知れば顔を曇らせる。
男性に対する諦めは、そうして少しずつ、弓香の中へ根を下ろしていった。
ある日の顔合わせで、一人の男性が弓香の隣へ座った。
話が進むにつれて酒が運ばれ、男は何度も杯を重ねた。はじめは整っていた声も、しだいに大きくなった。
「それにしても、本当におきれいな方だ」
弓香は笑って頭を下げた。
「ありがとうございます」
「肌も白い」
男はそう言って、弓香の腕へ手を伸ばした。
許しを求めることはなかった。
笑いながら伸ばされた手は、弓香が嫌がるかもしれないとは少しも考えていないようだった。弓香なら、黙って受け入れると思っていたのだろう。
その指が触れるよりも早く、弓香のからだは動いていた。
考えるより先に、手首を取る。重心を崩す。伸ばされた腕を返し、関節をきめる。
稽古で何度も繰り返してきた動きだった。
鈍い音が、部屋の中に響いた。
一瞬、誰も声を出さなかった。
男は自分の腕を抱え、遅れて大きな悲鳴を上げた。
弓香は、すぐに手を放した。
畳へついた自分の指先を見た。震えてはいなかった。呼吸も乱れていない。ただ、いつもの稽古のあととは違い、部屋の中にいる人々の息づかいだけが、妙にはっきりと聞こえた。
自分から触れたわけではない。
無礼をはたらいたのは、相手だった。
誰が見ても、それは明らかだった。
それでも、部屋の中で弓香へ向けられた目は冷たかった。
「女性なのですから、もう少し加減を」
「少し、やりすぎではありませんか」
「だから武道をする女性は……」
声を低くして言う人もいれば、困ったように眉を寄せる人もいた。倒れた男へ駆け寄る者はいても、弓香へ何があったのかを尋ねる者はいなかった。
男が勝手に腕を伸ばしたことよりも、弓香が力を使ったことの方が、重く見られていた。
弓香は静かに頭を下げた。
「申し訳ございません」
口から出たことばは、いつもどおりだった。
謝るべきなのかどうかを考えるより先に、そのことばが出ていた。そうして頭を下げれば、この場は早く終わる。これ以上、天音家へ迷惑をかけずに済む。
声は震えなかった。
涙も出なかった。
胸の中は、むしろ静かだった。
その日、はじめて傷ついたわけではない。
もっと前から、何度も傷ついていた。ただ、そのたびに、傷ついたと思わないようにしてきただけだった。
相手に悪気はない。
顔合わせとは、そういうものだ。
結婚とは、きっとそういうものだ。
何度も自分へ言い聞かせてきた。
そう考えるたびに、自分の心を小さく折りたたんだ。邪魔にならないように。誰の目にもつかないように。
けれど、その日、今まで折りたたんできたものが、もう元の形へ戻らないことを知った。
帰りの車の中で、弓香は窓の外を見ていた。
町の景色が、ゆっくりと後ろへ流れていく。
道を歩く夫婦がいた。少し先には、小さな子どもの手を引く家族がいた。子どもが立ち止まり、父親らしい男が腰をかがめている。母親らしい女は、その様子を待ちながら笑っていた。
前なら、少しだけ考えたかもしれない。
いつか自分にも、あのような日が来るのだろうかと。
家へ帰れば、同じ人がいる。何でもないことを話し、同じ食卓を囲む。稽古で傷めた手を見せれば、また無理をしたのかと呆れられる。
そのような暮らしを、自分にも許されているのだと思っていた。
けれど、その日は何も思わなかった。
胸が痛んだわけでもない。うらやましいとも、さびしいとも思わなかった。
ただ、窓の外を流れていく景色の一つとして見ていた。
結婚はするのだろう。
家のために。
必要ならば。
けれど、そこに心があるとは限らない。
誰かに見つけてもらえるとも、今の自分をそのまま受け入れてもらえるとも、もう思わなかった。
強い女性は、愛されない。
そのことばを、誰かに教えられたわけではない。
何人もの男性の目を見て、何度も同じことばを聞いて、弓香が自分でたどり着いた答えだった。
それが本当に正しいのかどうかは、分からなかった。
けれど、そう思ってしまえば、もう期待しなくて済んだ。
期待しなければ、失うものもなかった。
それから、縁談へ望みを持つことはなくなった。
結婚は、家のためにするもの。
縁談は、恋をするための時間ではない。誰かを好きになるための場所でもない。
相手に会い、礼を尽くし、条件が合えば妻になる。
それでよいのだと思った。
男性に自分を見てほしいとは思わない。強い自分を分かってほしいとも思わない。
どうせ、分かってはもらえない。
そのことばを胸の中で繰り返すうちに、心はずいぶん楽になった。
何も望まなければ、笑顔を作ることも難しくなかった。
そして今日もまた、一つの縁談の日を迎えた。
鏡の前で髪を整え、帯を締める。母に教わったとおり、襟元を直し、髪に乱れがないことをたしかめた。
鏡の中には、いつもと変わらない自分がいた。
きれいに結った髪。乱れのない着物。膝の上へ重ねれば、武道をしているとは分からない指先。
そして、静かな顔。
今日会う男性も、きっと同じところを見るのだろう。
顔を見て、家柄を見て、妻にできるかを考える。
武道のことを話せば、目元が少しだけ固くなる。そして、いつかはやめるのかと尋ねる。
その姿を思い浮かべても、もう何も感じなかった。
期待はしていない。
けれど、礼を欠くつもりもなかった。
誰かに理解されないことと、自分まで相手を粗末に扱うことは、別のことだった。
弓香は帯の上へ手を置き、ゆっくりと息を吐いた。それから、いつものように背筋を伸ばした。
天音家の娘として。
天音弓香として。
愛されなくてもよい。
せめて、自分まで自分を恥じることだけはしたくなかった。
やがて、襖が静かに開いた。
落ち着いた足音が近づいてくる。
その人も、きっと同じなのだろう。
弓香は顔を上げなかった。膝の上に重ねた手をわずかに整え、いつものように頭を下げた。
「本日は、よろしくお願いいたします」




