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泪  作者: Atelier Lotus文庫


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8/8

終節 泪

 家へ帰るまで、弓香は泣かなかった。

 駅から屋敷までの道を、いつもと同じ歩幅で歩いた。背筋を伸ばし、足音を乱さず、すれ違う人へはいつものように軽く頭を下げた。

 胸の奥には、ずっと痛みがあった。

 息を吸うたびに広がり、吐くたびに、少しだけ深くなる。

 それでも、弓香は歩いた。

 泣いてはいけないと思ったわけではない。

 ただ、どこで、どのように泣けばよいのか分からなかった。

 これまで弓香は、痛みに耐えることを知っていた。

 手の皮が破れても、腕が上がらなくなっても、骨が軋むほど身体を使っても、呼吸を整え、姿勢を崩さず、次の動きへ移ることができた。

 傷を負えば、手当てをする。

 身体が動かなくなれば、休ませる。

 できないことがあれば、できるようになるまで繰り返す。

 どの痛みにも、耐え方があった。

 けれど、胸の中にあるこの痛みには、どのように力を入れればよいのか分からなかった。

 止め方も。

 逃がし方も。

 教わったことがなかった。

 足元の道は、何度も歩いた道だった。

 曲がり角も。

 並ぶ家々も。

 少し欠けた石垣も。

 すべて、いつもと同じだった。

 それなのに、今日は屋敷までの道がひどく長く感じられた。

 縁之丞と歩いた時間が、少しずつ遠ざかっていく。

 川沿いの道。

 駅前の人混み。

 最後に見た背中。

『嫌です』

 その声が、歩くあいだも何度も胸の中へ戻ってきた。

 縁之丞は、迷わなかった。

 幼なじみが別の男性を選ぶことを、嫌だと言った。

 あまりに早い答えだった。

 考えて選んだ言葉ではなく、胸の中にあったものが、そのまま口から出たような声だった。

 弓香がほしかった言葉だった。

 自分が誰かのもとへ行くことを、嫌だと言ってほしかった。

 自分がいなくなることを、想像したくないと思ってほしかった。

 その願いが、いつから自分の中にあったのかは分からない。

 気づいたときにはもう、叶わないものになっていた。

 屋敷の門をくぐった。

 庭には、暮れかけた空の明るさがわずかに残っていた。

 いつもと同じ庭だった。

 いつもと同じ石畳。

 いつもと同じ木々。

 風が枝を揺らす音も、遠くの道場から聞こえる足音も変わらない。

 変わってしまったのは、弓香の中だけだった。

「お帰り」

 玄関へ入ると、父の声がした。

「ただいま戻りました」

 弓香は、いつもと同じように頭を下げた。

「遅かったな」

 長兄の槍士が、廊下の奥から顔を出した。

「お食事は?」

「いただいてまいりました」

「疲れてはいないか」

「大丈夫です」

 答える声は、思っていたよりも自然だった。

 弓香は、自分でも少し驚いた。

 このようなときでも、声は震えない。

 顔も崩れない。

 身体は長い年月をかけて、人前で乱れないことを覚えていた。

 傷があっても、痛みがあっても、まず姿勢を整える。

 それはもう、考えてすることではなかった。

「皆、居間にいる」

 父に言われ、弓香は履物を脱いだ。

 廊下を歩いているあいだ、家族の声が聞こえた。

 いつもの夕方だった。

 母が何かを話し、剣吾がそれへ答えている。刀也の低い声も、槍士の短い笑い声も聞こえた。

 その中へ入れば、自分もいつもの弓香へ戻れるような気がした。

 何事もなかったように座り、家族の話を聞き、今日あったことを尋ねられれば答える。

 そうして夜を終えればよい。

 けれど、居間へ入った瞬間、話し声が止まった。

 父と母。

 槍士。

 刀也。

 剣吾。

 皆が弓香を見た。

 いつもなら、それほど気に留めない視線だった。

 けれどその日は、一つひとつが胸へ触れるように感じられた。

「どうだった」

 父が尋ねた。

 何を、と聞き返す必要はなかった。

 弓香は、ほんの一度だけ息を吸った。

「お断りすることになりました」

 兄たちの表情が変わった。

「向こうが断ったのか」

 剣吾が低い声で尋ねた。

 道場で縁之丞へ向けていたものよりも、さらに鋭い目だった。

「いいえ」

 弓香は首を横に振った。

「お互いに話し合ったうえでのことです」

「何か言われたのか」

 槍士が問う。

「何も」

「では、なぜ」

 弓香は、少しだけ笑った。

 縁談の席で何度も使ってきた笑顔ではなかった。

 相手へ失礼がないように作るものでも、自分の心を隠すためだけのものでもない。

 家族を安心させるための、できるだけやわらかな笑顔だった。

「縁之丞さんには」

 名前を口にした瞬間、胸の奥が強く痛んだ。

 ほんのわずかに息が止まる。

 それでも弓香は続けた。

「大切に思っておられる方が、いらっしゃいましたので」

 部屋が静かになった。

 兄たちは、すぐには何も言わなかった。

 父も。

 母も。

 ただ、弓香を見ていた。

 槍士の眉が寄る。

 剣吾の手が膝の上で握られる。

 刀也は何も言わず、弓香の顔を見ていた。

 誰かが縁之丞を責める言葉を口にする前に、弓香はもう一度笑った。

「どなたも悪くありませんわ」

 自分でも驚くほど、その言葉はまっすぐに出た。

 本当に、誰も悪くなかった。

 縁之丞は嘘をつかなかった。

 弓香を軽く扱わなかった。

 曖昧な言葉で、手元へ残そうともしなかった。

 弓香の好意を知ったあとも、中途半端な希望を持たせなかった。

 まだ会ったことのない、その人も何も悪くない。

 弓香も、ただ誰かを好きになっただけだった。

 だから、責める相手はどこにもいなかった。

「しかし」

 槍士が口を開きかけた。

「お兄様」

 弓香は、静かに呼んだ。

 槍士は、言葉を止めた。

「本当に、どなたも悪くないのです」

 その言葉だけは、守りたかった。

 縁之丞を庇いたいというだけではなかった。

 誰かを悪者にしてしまえば、自分の恋まで、間違ったものに変わってしまうような気がした。

 あの時間は、偽物ではなかった。

 弓香がうれしかったことも。

 縁之丞が笑ってくれたことも。

 道場で過ごした時間も。

 そのすべてを、誰かの罪にしたくなかった。

「少し、休んでまいります」

 弓香は頭を下げた。

 父は何かを言おうとしたが、母がそっと手を重ねた。

「ええ」

 母は、それだけを言った。

 家族は弓香を引き止めなかった。

 そのことが、ありがたかった。

 慰められれば、耐えられなくなるような気がした。

 かわいそうだと言われれば、本当に自分がかわいそうな人になってしまう。

 今はまだ、自分の足で部屋まで歩きたかった。

 自室へ続く廊下を、一歩ずつ進んだ。

 足は、いつもどおりに動いた。

 けれど部屋へ近づくほど、胸の中へ押し込めていたものが、少しずつせり上がってきた。

(まだです)

(もう少しだけ)

(せめて、部屋へ入るまでは)

 襖の前へ立つ。

 手を掛ける。

 指先が、ほんの少し震えていた。

 弓香は襖を開け、部屋へ入った。

 そして、静かに閉めた。

 かすかな音がした。

 それだけだった。

 家族のいる場所と、自分だけの場所とを分ける、小さな音だった。

 その音を聞いた瞬間、弓香の肩からわずかに力が抜けた。

 けれど、まだ泣かなかった。

 泣いてはいけないわけではない。

 それでも、長いあいだ耐えることを覚えてきた身体は、すぐには泣き方を思い出せなかった。

 弓香は、鏡の前へ座った。

 いつものように、髪飾りへ手を伸ばした。

 指がうまく動かなかった。

 一度、留め具を外し損ねた。

 もう一度指をかける。

 今度は、指先が滑った。

(どうして、このような簡単なことができないのでしょう)

 弓香は、小さく息を吐いた。

 手を膝へ置き、呼吸を整える。

 道場であれば、これで身体は落ち着くはずだった。

 けれど胸の痛みは、呼吸に合わせて深くなるばかりだった。

 もう一度、髪飾りへ手を伸ばす。

 今度は外すことができた。

 小さな音を立てて、鏡台の上へ置く。

 黒い髪が、肩から背中へ静かに落ちた。

 帯へ手を掛ける。

 結び目をほどく。

 一つずつ。

 いつもと同じように。

 いつもと同じ順番で。

 身につけていたものを外していく。

 そうしていれば、何も考えずにすむと思った。

 身体が覚えている動作を続けていれば、今日もいつもの夜へ戻れるような気がした。

 けれど、鏡の中にいる自分と目が合った。

 そこには、いつもと変わらない天音弓香がいた。

 背筋を伸ばし。

 顔を乱さず。

 涙も流していない。

 少し疲れてはいるけれど、それ以外は何も変わらない。

 縁談が一つ終わっただけの、いつもの自分だった。

 その顔を見たとき、なぜだかひどく悲しくなった。

 今日までのことが、何も残っていないように見えた。

 縁之丞と歩いた道も。

 道場で呼ばれた名前も。

 胸が鳴ったことも。

 あれほど大切に思った時間も。

 鏡の中の自分には、何一つ表れていなかった。

 何もなかったような顔をしている。

 そのことが、急に耐えられなくなった。

 縁之丞の声が、胸の中によみがえった。

『嫌です』

 迷いのない声だった。

 その人が別の男性を選ぶことを、縁之丞は嫌だと言った。

 弓香は、その言葉を自分へ向けてほしかった。

 自分がいなくなることを、嫌だと言ってほしかった。

 何かを見つけたとき、最初に自分を思い出してほしかった。

 うれしいことがあれば、自分へ話してほしかった。

 隣にいることを、あたりまえだと思ってほしかった。

 自分にも、そのような場所がほしかった。

 縁之丞の中に。

 何をしていても、自然に戻ってこられる場所が。

 そこまで考えたとき、弓香の目から一粒だけ涙が落ちた。

 頬を伝い、顎から着物の上へ落ちる。

 弓香は、驚いたように鏡を見た。

 泣くつもりはなかった。

 まだ、泣かずにいられると思っていた。

 弓香は、指先で頬を拭った。

「大丈夫です」

 誰もいない部屋で、自分へ言い聞かせた。

「これくらい」

 声が、わずかに震えた。

 もう一粒、涙がこぼれた。

 弓香は、それも拭った。

 けれど、拭ったそばから次の涙が落ちた。

「大丈夫」

 今度は、言葉が途中で切れた。

 涙は止まらなかった。

 一粒。

 また一粒。

 頬を伝う。

 指で拭う。

 それでも、次から次へとあふれてくる。

「止まって」

 弓香は小さく言った。

「お願いですから」

 両手で頬を押さえた。

 けれど涙は、指のあいだからこぼれた。

 息がうまくできなくなった。

 胸が詰まり、肩が初めて大きく震えた。

 泣いてはいけないと思っているわけではない。

 それでも、止めなければならないような気がした。

 いつもどおりに。

 静かに。

 きれいに。

 すべてを受け入れなければならないと思った。

 縁之丞を困らせることなく別れた。

 家族にも、誰も悪くないと伝えた。

 自分で選び、自分で終わらせた。

 だから最後まで、きちんと受け止めなければならない。

 そう思った。

 けれど、もうできなかった。

「いや……」

 弓香の口から、自分でも聞いたことのない声が漏れた。

 それは、誰かへ向けた言葉ではなかった。

 縁之丞を責めたのでもない。

 まだ会ったことのないその人を、責めたのでもない。

 ただ、この恋が終わってしまったことが悲しかった。

「もう少し」

 声が涙に混じった。

「もう少しだけ」

 一緒にいたかった。

 また会いたかった。

 射を見てほしかった。

 笑ってほしかった。

 弓香さん、と名前を呼んでほしかった。

 次に会う日を決めたかった。

 縁之丞の暮らしを、もっと知りたかった。

 自分のことも、もっと知ってほしかった。

 弓香は両手で顔を覆った。

 耐えていたものが、そこで崩れた。

 息を殺そうとしても、喉の奥からかすかな声が漏れた。

 肩が震え、涙が止まらない。

 拭っても。

 押さえても。

 顔を伏せても。

 涙は、あとからあとからあふれてきた。

 こんなにも泣けるものなのだと、弓香はぼんやりと思った。

 稽古で泣いたことはあった。

 悔しくて。

 痛くて。

 自分の弱さが許せなくて。

 幼いころ、兄たちへ追いつけなかった日。

 何度引いても、強い弓を動かせなかった日。

 手の皮が破れ、弦を握ることさえできなくなった日。

 涙を拭い、次の日にはまた道場へ立った。

 努力をすれば、強くなれた。

 繰り返せば、できるようになった。

 身体の痛みは、いつか引いた。

 けれど、この恋だけは。

 努力をしても。

 耐えても。

 自分のものにはならなかった。

 もっと美しくなればよかったのだろうか。

 もっとやさしくなれば。

 もっと早く出会っていれば。

 一瞬、そのような考えが浮かんだ。

 けれど、どれも答えではなかった。

 縁之丞は、弓香の美しさを否定しなかった。

 強さも。

 生き方も。

 そのまま受け止めてくれた。

 弓香に何かが足りなかったから、選ばれなかったのではない。

 ただ縁之丞の心には、弓香と出会うよりも前から、大切な人がいた。

 それだけだった。

 それだけのことが、どうしようもなく悲しかった。

 強い女性は愛されない。

 ずっと、そう思っていた。

 けれど縁之丞は、弓香の強さを否定しなかった。

 こわがらなかった。

 変わることも求めなかった。

 弓香の動きを、きれいだと言った。

 弓香が積み重ねてきたものを、すてきだと言った。

 だから、ほんの少しだけ思ってしまった。

 自分も愛されるかもしれないと。

 この人になら、強いままの自分を好きになってもらえるかもしれないと。

 その希望を持ったから、こんなにも悲しかった。

 もし、初めから何も望まなければ。

 家と家のための縁談として、礼儀正しく会っていただけなら。

 これほど痛むことはなかった。

 けれど弓香は望んだ。

 自分から会いたいと思った。

 自分の射を見てほしいと思った。

 女性としても、きれいだと思ってほしかった。

 縁之丞の隣に立ちたいと思った。

 その願いの一つひとつが、涙になって流れているようだった。

 弓香は、しばらく泣き続けた。

 止めようとしても、涙は止まらなかった。

 声を押し殺しても、息が震えた。

 強くあろうとしても、身体はもう言うことを聞かなかった。

 やがて、泣き疲れるほど泣いたあと、少しずつ呼吸が戻ってきた。

 弓香は両手を下ろした。

 指先も、手のひらも濡れていた。

 ゆっくりと顔を上げる。

 鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。

 目は赤く。

 頬は涙で濡れ。

 髪も少し乱れている。

 いつもの、隙のない天音弓香ではなかった。

 それでも弓香は、鏡の中の自分から目をそらさなかった。

 悲しんでいる。

 叶わなかった恋を惜しみ、好きな人に選ばれなかったことを悲しんでいる。

 それは、恥ずかしいことではなかった。

 弱いから泣いているのでもない。

 縁之丞を、本当に好きだったから泣いている。

 弓香は、そのことをようやく受け入れた。

 鏡の中の自分へ、ほんの少しだけ笑った。

 悲しいまま。

 涙を流したまま。

 それでも、どこかやさしい笑顔だった。

 縁之丞を好きになったことを、間違いだったとは思わなかった。

 出会わなければよかったとも思えなかった。

 この恋は、弓香から何かを奪っただけではなかった。

 強いままでも、誰かを好きになってよいことを教えてくれた。

 選ばれたいと願ってもよいのだと、初めて思わせてくれた。

 叶わなかった。

 けれど、なかったことにはしたくなかった。

 誰も悪くなかった。

 ただ、好きになった人に、別の大切な人がいただけだった。

 窓の外では、いつもと変わらない夕暮れが、静かに暮れていた。

 庭の木々はもう色を失い、部屋の中には夜の気配が入り始めている。

 明日になれば、弓香はまた朝に起きる。

 髪を整え。

 道着へ着替え。

 弓を引く。

 今日までと同じ日々は続いていく。

 けれど、今日までとまったく同じ自分には、もう戻れない。

 弓香は、鏡に映る自分へ小さく微笑んだ。

「……初恋だったのですね」

 頬を伝った涙だけが、その答えを知っていた。

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