終節 泪
家へ帰るまで、弓香は泣かなかった。
駅から屋敷までの道を、いつもと同じ歩幅で歩いた。背筋を伸ばし、足音を乱さず、すれ違う人へはいつものように軽く頭を下げた。
胸の奥には、ずっと痛みがあった。
息を吸うたびに広がり、吐くたびに、少しだけ深くなる。
それでも、弓香は歩いた。
泣いてはいけないと思ったわけではない。
ただ、どこで、どのように泣けばよいのか分からなかった。
これまで弓香は、痛みに耐えることを知っていた。
手の皮が破れても、腕が上がらなくなっても、骨が軋むほど身体を使っても、呼吸を整え、姿勢を崩さず、次の動きへ移ることができた。
傷を負えば、手当てをする。
身体が動かなくなれば、休ませる。
できないことがあれば、できるようになるまで繰り返す。
どの痛みにも、耐え方があった。
けれど、胸の中にあるこの痛みには、どのように力を入れればよいのか分からなかった。
止め方も。
逃がし方も。
教わったことがなかった。
足元の道は、何度も歩いた道だった。
曲がり角も。
並ぶ家々も。
少し欠けた石垣も。
すべて、いつもと同じだった。
それなのに、今日は屋敷までの道がひどく長く感じられた。
縁之丞と歩いた時間が、少しずつ遠ざかっていく。
川沿いの道。
駅前の人混み。
最後に見た背中。
『嫌です』
その声が、歩くあいだも何度も胸の中へ戻ってきた。
縁之丞は、迷わなかった。
幼なじみが別の男性を選ぶことを、嫌だと言った。
あまりに早い答えだった。
考えて選んだ言葉ではなく、胸の中にあったものが、そのまま口から出たような声だった。
弓香がほしかった言葉だった。
自分が誰かのもとへ行くことを、嫌だと言ってほしかった。
自分がいなくなることを、想像したくないと思ってほしかった。
その願いが、いつから自分の中にあったのかは分からない。
気づいたときにはもう、叶わないものになっていた。
屋敷の門をくぐった。
庭には、暮れかけた空の明るさがわずかに残っていた。
いつもと同じ庭だった。
いつもと同じ石畳。
いつもと同じ木々。
風が枝を揺らす音も、遠くの道場から聞こえる足音も変わらない。
変わってしまったのは、弓香の中だけだった。
「お帰り」
玄関へ入ると、父の声がした。
「ただいま戻りました」
弓香は、いつもと同じように頭を下げた。
「遅かったな」
長兄の槍士が、廊下の奥から顔を出した。
「お食事は?」
「いただいてまいりました」
「疲れてはいないか」
「大丈夫です」
答える声は、思っていたよりも自然だった。
弓香は、自分でも少し驚いた。
このようなときでも、声は震えない。
顔も崩れない。
身体は長い年月をかけて、人前で乱れないことを覚えていた。
傷があっても、痛みがあっても、まず姿勢を整える。
それはもう、考えてすることではなかった。
「皆、居間にいる」
父に言われ、弓香は履物を脱いだ。
廊下を歩いているあいだ、家族の声が聞こえた。
いつもの夕方だった。
母が何かを話し、剣吾がそれへ答えている。刀也の低い声も、槍士の短い笑い声も聞こえた。
その中へ入れば、自分もいつもの弓香へ戻れるような気がした。
何事もなかったように座り、家族の話を聞き、今日あったことを尋ねられれば答える。
そうして夜を終えればよい。
けれど、居間へ入った瞬間、話し声が止まった。
父と母。
槍士。
刀也。
剣吾。
皆が弓香を見た。
いつもなら、それほど気に留めない視線だった。
けれどその日は、一つひとつが胸へ触れるように感じられた。
「どうだった」
父が尋ねた。
何を、と聞き返す必要はなかった。
弓香は、ほんの一度だけ息を吸った。
「お断りすることになりました」
兄たちの表情が変わった。
「向こうが断ったのか」
剣吾が低い声で尋ねた。
道場で縁之丞へ向けていたものよりも、さらに鋭い目だった。
「いいえ」
弓香は首を横に振った。
「お互いに話し合ったうえでのことです」
「何か言われたのか」
槍士が問う。
「何も」
「では、なぜ」
弓香は、少しだけ笑った。
縁談の席で何度も使ってきた笑顔ではなかった。
相手へ失礼がないように作るものでも、自分の心を隠すためだけのものでもない。
家族を安心させるための、できるだけやわらかな笑顔だった。
「縁之丞さんには」
名前を口にした瞬間、胸の奥が強く痛んだ。
ほんのわずかに息が止まる。
それでも弓香は続けた。
「大切に思っておられる方が、いらっしゃいましたので」
部屋が静かになった。
兄たちは、すぐには何も言わなかった。
父も。
母も。
ただ、弓香を見ていた。
槍士の眉が寄る。
剣吾の手が膝の上で握られる。
刀也は何も言わず、弓香の顔を見ていた。
誰かが縁之丞を責める言葉を口にする前に、弓香はもう一度笑った。
「どなたも悪くありませんわ」
自分でも驚くほど、その言葉はまっすぐに出た。
本当に、誰も悪くなかった。
縁之丞は嘘をつかなかった。
弓香を軽く扱わなかった。
曖昧な言葉で、手元へ残そうともしなかった。
弓香の好意を知ったあとも、中途半端な希望を持たせなかった。
まだ会ったことのない、その人も何も悪くない。
弓香も、ただ誰かを好きになっただけだった。
だから、責める相手はどこにもいなかった。
「しかし」
槍士が口を開きかけた。
「お兄様」
弓香は、静かに呼んだ。
槍士は、言葉を止めた。
「本当に、どなたも悪くないのです」
その言葉だけは、守りたかった。
縁之丞を庇いたいというだけではなかった。
誰かを悪者にしてしまえば、自分の恋まで、間違ったものに変わってしまうような気がした。
あの時間は、偽物ではなかった。
弓香がうれしかったことも。
縁之丞が笑ってくれたことも。
道場で過ごした時間も。
そのすべてを、誰かの罪にしたくなかった。
「少し、休んでまいります」
弓香は頭を下げた。
父は何かを言おうとしたが、母がそっと手を重ねた。
「ええ」
母は、それだけを言った。
家族は弓香を引き止めなかった。
そのことが、ありがたかった。
慰められれば、耐えられなくなるような気がした。
かわいそうだと言われれば、本当に自分がかわいそうな人になってしまう。
今はまだ、自分の足で部屋まで歩きたかった。
自室へ続く廊下を、一歩ずつ進んだ。
足は、いつもどおりに動いた。
けれど部屋へ近づくほど、胸の中へ押し込めていたものが、少しずつせり上がってきた。
(まだです)
(もう少しだけ)
(せめて、部屋へ入るまでは)
襖の前へ立つ。
手を掛ける。
指先が、ほんの少し震えていた。
弓香は襖を開け、部屋へ入った。
そして、静かに閉めた。
かすかな音がした。
それだけだった。
家族のいる場所と、自分だけの場所とを分ける、小さな音だった。
その音を聞いた瞬間、弓香の肩からわずかに力が抜けた。
けれど、まだ泣かなかった。
泣いてはいけないわけではない。
それでも、長いあいだ耐えることを覚えてきた身体は、すぐには泣き方を思い出せなかった。
弓香は、鏡の前へ座った。
いつものように、髪飾りへ手を伸ばした。
指がうまく動かなかった。
一度、留め具を外し損ねた。
もう一度指をかける。
今度は、指先が滑った。
(どうして、このような簡単なことができないのでしょう)
弓香は、小さく息を吐いた。
手を膝へ置き、呼吸を整える。
道場であれば、これで身体は落ち着くはずだった。
けれど胸の痛みは、呼吸に合わせて深くなるばかりだった。
もう一度、髪飾りへ手を伸ばす。
今度は外すことができた。
小さな音を立てて、鏡台の上へ置く。
黒い髪が、肩から背中へ静かに落ちた。
帯へ手を掛ける。
結び目をほどく。
一つずつ。
いつもと同じように。
いつもと同じ順番で。
身につけていたものを外していく。
そうしていれば、何も考えずにすむと思った。
身体が覚えている動作を続けていれば、今日もいつもの夜へ戻れるような気がした。
けれど、鏡の中にいる自分と目が合った。
そこには、いつもと変わらない天音弓香がいた。
背筋を伸ばし。
顔を乱さず。
涙も流していない。
少し疲れてはいるけれど、それ以外は何も変わらない。
縁談が一つ終わっただけの、いつもの自分だった。
その顔を見たとき、なぜだかひどく悲しくなった。
今日までのことが、何も残っていないように見えた。
縁之丞と歩いた道も。
道場で呼ばれた名前も。
胸が鳴ったことも。
あれほど大切に思った時間も。
鏡の中の自分には、何一つ表れていなかった。
何もなかったような顔をしている。
そのことが、急に耐えられなくなった。
縁之丞の声が、胸の中によみがえった。
『嫌です』
迷いのない声だった。
その人が別の男性を選ぶことを、縁之丞は嫌だと言った。
弓香は、その言葉を自分へ向けてほしかった。
自分がいなくなることを、嫌だと言ってほしかった。
何かを見つけたとき、最初に自分を思い出してほしかった。
うれしいことがあれば、自分へ話してほしかった。
隣にいることを、あたりまえだと思ってほしかった。
自分にも、そのような場所がほしかった。
縁之丞の中に。
何をしていても、自然に戻ってこられる場所が。
そこまで考えたとき、弓香の目から一粒だけ涙が落ちた。
頬を伝い、顎から着物の上へ落ちる。
弓香は、驚いたように鏡を見た。
泣くつもりはなかった。
まだ、泣かずにいられると思っていた。
弓香は、指先で頬を拭った。
「大丈夫です」
誰もいない部屋で、自分へ言い聞かせた。
「これくらい」
声が、わずかに震えた。
もう一粒、涙がこぼれた。
弓香は、それも拭った。
けれど、拭ったそばから次の涙が落ちた。
「大丈夫」
今度は、言葉が途中で切れた。
涙は止まらなかった。
一粒。
また一粒。
頬を伝う。
指で拭う。
それでも、次から次へとあふれてくる。
「止まって」
弓香は小さく言った。
「お願いですから」
両手で頬を押さえた。
けれど涙は、指のあいだからこぼれた。
息がうまくできなくなった。
胸が詰まり、肩が初めて大きく震えた。
泣いてはいけないと思っているわけではない。
それでも、止めなければならないような気がした。
いつもどおりに。
静かに。
きれいに。
すべてを受け入れなければならないと思った。
縁之丞を困らせることなく別れた。
家族にも、誰も悪くないと伝えた。
自分で選び、自分で終わらせた。
だから最後まで、きちんと受け止めなければならない。
そう思った。
けれど、もうできなかった。
「いや……」
弓香の口から、自分でも聞いたことのない声が漏れた。
それは、誰かへ向けた言葉ではなかった。
縁之丞を責めたのでもない。
まだ会ったことのないその人を、責めたのでもない。
ただ、この恋が終わってしまったことが悲しかった。
「もう少し」
声が涙に混じった。
「もう少しだけ」
一緒にいたかった。
また会いたかった。
射を見てほしかった。
笑ってほしかった。
弓香さん、と名前を呼んでほしかった。
次に会う日を決めたかった。
縁之丞の暮らしを、もっと知りたかった。
自分のことも、もっと知ってほしかった。
弓香は両手で顔を覆った。
耐えていたものが、そこで崩れた。
息を殺そうとしても、喉の奥からかすかな声が漏れた。
肩が震え、涙が止まらない。
拭っても。
押さえても。
顔を伏せても。
涙は、あとからあとからあふれてきた。
こんなにも泣けるものなのだと、弓香はぼんやりと思った。
稽古で泣いたことはあった。
悔しくて。
痛くて。
自分の弱さが許せなくて。
幼いころ、兄たちへ追いつけなかった日。
何度引いても、強い弓を動かせなかった日。
手の皮が破れ、弦を握ることさえできなくなった日。
涙を拭い、次の日にはまた道場へ立った。
努力をすれば、強くなれた。
繰り返せば、できるようになった。
身体の痛みは、いつか引いた。
けれど、この恋だけは。
努力をしても。
耐えても。
自分のものにはならなかった。
もっと美しくなればよかったのだろうか。
もっとやさしくなれば。
もっと早く出会っていれば。
一瞬、そのような考えが浮かんだ。
けれど、どれも答えではなかった。
縁之丞は、弓香の美しさを否定しなかった。
強さも。
生き方も。
そのまま受け止めてくれた。
弓香に何かが足りなかったから、選ばれなかったのではない。
ただ縁之丞の心には、弓香と出会うよりも前から、大切な人がいた。
それだけだった。
それだけのことが、どうしようもなく悲しかった。
強い女性は愛されない。
ずっと、そう思っていた。
けれど縁之丞は、弓香の強さを否定しなかった。
こわがらなかった。
変わることも求めなかった。
弓香の動きを、きれいだと言った。
弓香が積み重ねてきたものを、すてきだと言った。
だから、ほんの少しだけ思ってしまった。
自分も愛されるかもしれないと。
この人になら、強いままの自分を好きになってもらえるかもしれないと。
その希望を持ったから、こんなにも悲しかった。
もし、初めから何も望まなければ。
家と家のための縁談として、礼儀正しく会っていただけなら。
これほど痛むことはなかった。
けれど弓香は望んだ。
自分から会いたいと思った。
自分の射を見てほしいと思った。
女性としても、きれいだと思ってほしかった。
縁之丞の隣に立ちたいと思った。
その願いの一つひとつが、涙になって流れているようだった。
弓香は、しばらく泣き続けた。
止めようとしても、涙は止まらなかった。
声を押し殺しても、息が震えた。
強くあろうとしても、身体はもう言うことを聞かなかった。
やがて、泣き疲れるほど泣いたあと、少しずつ呼吸が戻ってきた。
弓香は両手を下ろした。
指先も、手のひらも濡れていた。
ゆっくりと顔を上げる。
鏡の中の自分は、ひどい顔をしていた。
目は赤く。
頬は涙で濡れ。
髪も少し乱れている。
いつもの、隙のない天音弓香ではなかった。
それでも弓香は、鏡の中の自分から目をそらさなかった。
悲しんでいる。
叶わなかった恋を惜しみ、好きな人に選ばれなかったことを悲しんでいる。
それは、恥ずかしいことではなかった。
弱いから泣いているのでもない。
縁之丞を、本当に好きだったから泣いている。
弓香は、そのことをようやく受け入れた。
鏡の中の自分へ、ほんの少しだけ笑った。
悲しいまま。
涙を流したまま。
それでも、どこかやさしい笑顔だった。
縁之丞を好きになったことを、間違いだったとは思わなかった。
出会わなければよかったとも思えなかった。
この恋は、弓香から何かを奪っただけではなかった。
強いままでも、誰かを好きになってよいことを教えてくれた。
選ばれたいと願ってもよいのだと、初めて思わせてくれた。
叶わなかった。
けれど、なかったことにはしたくなかった。
誰も悪くなかった。
ただ、好きになった人に、別の大切な人がいただけだった。
窓の外では、いつもと変わらない夕暮れが、静かに暮れていた。
庭の木々はもう色を失い、部屋の中には夜の気配が入り始めている。
明日になれば、弓香はまた朝に起きる。
髪を整え。
道着へ着替え。
弓を引く。
今日までと同じ日々は続いていく。
けれど、今日までとまったく同じ自分には、もう戻れない。
弓香は、鏡に映る自分へ小さく微笑んだ。
「……初恋だったのですね」
頬を伝った涙だけが、その答えを知っていた。




