夏越の祓
六月の終わりの、むしむしした夕方だった。
レンはソファに寝ころびながら、天井を見ていた。
窓の外では雨が降りそうで降らない空が広がっている。
「はぁ……」
学校から帰ってきたばかりなのに、なんだか何もする気が起きなかった。
宿題もある。
本もある。
ゲームだってある。
だけど、どれも少し面倒だった。
そのときだった。
家の隅に置かれたスマートスピーカーから、突然、声が聞こえた。
「まずいまずいまずいまずい!」
レンはゆっくり顔を向けた。
「……え?」
「大変だよ! 消える! 消えちゃう!」
「なにが?」
「夏越の祓!」
レンはしばらく黙った。
「なごしの……なんだって?」
スマートスピーカーがぴかりと光った。
すると、その上に小さな人影が現れた。
手のひらほどの大きさ。
風もないのにふわふわと浮いている。
髪の毛の先からは、小さな文字がこぼれていた。
「あ」
「の」
「は」
そんな文字たちが、ほたるのように漂っている。
「よかった!」
小さな人影は胸をなで下ろした。
「今、レンが言った!」
「なにを?」
「夏越の祓!」
「いや、聞き返しただけだけど……」
「それでもいい!」
人影は両手を挙げて喜んだ。
「言葉はね、誰かが口にしてくれないと痩せちゃうんだ!」
レンは何度かまばたきをした。
学校から帰ってきてから、変なものは食べていない。
熱もない。
たぶん。
「……誰?」
「ぼく?」
人影は胸を張った。
「ことは!」
「ことは?」
「言葉を食べる妖精!」
「妖精」
「うん!」
「スマートスピーカーの中で何してるの?」
ことはは急に目をそらした。
「いろいろあって」
「何があったの?」
「いろいろ」
「失敗したの?」
「いろいろ!」
どうやら聞かれたくないらしい。
レンは肩をすくめた。
ことはは慌てて話題を変えた。
「それより夏越の祓だよ!」
「だから何なの、それ」
「知らない?」
「知らない」
「えっ」
ことはは本当に驚いた顔をした。
「そんな……」
「そんなって言われても」
「六月の終わりだよ?」
「六月の終わりだけど」
「半分終わったんだよ?」
レンは首をかしげた。
六月の終わり。
一年の半分。
言われてみればそうだった。
「それがどうしたの?」
ことははレンの前まで飛んできた。
「昔の人はね、一年を半分まで歩いてきたら立ち止まったんだ。」
「立ち止まる?」
「うん。ここまで無事に来られましたって。」
窓の外で風が吹いた。
雨の匂いが少し流れ込んでくる。
ことはは続けた。
「毎日暮らしているとさ。」
「うん。」
「失敗したり。」
「する。」
「けんかしたり。」
「する。」
「いやなこと考えたり。」
「それもする。」
ことははうなずいた。
「そういうのを昔の人は『けがれ』って呼んだんだ。」
レンは少し考えた。
泥みたいなものだろうか。
歩いているうちに靴についてしまうような。
「じゃあ夏越の祓って?」
「半年分の泥を落とす日。」
「お風呂みたい。」
「ちょっと近い!」
ことはは嬉しそうに笑った。
「神社では大きな茅の輪をくぐるんだ。」
「輪っか?」
「そう!」
ことはは空中に指で円を描いた。
文字たちが集まって、光る輪になる。
レンは思わず身を乗り出した。
「本当にあるの?」
「あるよ!」
「大きい?」
「レンがくぐれるくらい!」
「へえ……」
少し面白そうだった。
ことははそんなレンを見てにやりとした。
「興味出てきた?」
「ちょっとだけ。」
「よし!」
ことはは空中で一回転した。
髪から「夏」「越」「祓」の文字がぱらぱらとこぼれる。
「昔の人はね。」
「うん。」
「半年が終わる日に、『これからも元気に過ごせますように』って願ったんだ。」
「半年か……」
レンは窓の外を見た。
四月にクラス替えがあった。
運動会もあった。
嫌だった係もあった。
楽しかったこともあった。
いろんなことがあった気がする。
「あっという間だったな。」
ぽつりと言うと、
ことはは静かにうなずいた。
「だから夏越の祓なんだよ。」
その声は、さっきまでより少しやさしかった。
「昔の人はね。」
「うん。」
「ちゃんと振り返る日を作ったんだ。」
部屋の中に静かな時間が流れた。
やがてレンは立ち上がった。
「ねえ。」
「なに?」
「近くの神社にもあるかな。」
ことはの目が丸くなった。
次の瞬間、満面の笑みになった。
「あるかもしれない!」
「調べてみる?」
「調べよう!」
スマートスピーカーが反応した。
『近くの神社を検索します』
レンは吹き出した。
ことはも笑った。
そしてそのときレンは気づかなかった。
ことはが小さく胸をなで下ろしていたことに。
「よかった。」
誰にも聞こえないくらい小さな声だった。
「夏越の祓、まだ消えてなかった。」
窓の外で、ぽつりと最初の雨粒が落ちた。
六月の終わりの夕暮れは、少しだけ涼しくなっていた。




