一陰始生
畳の上を、エアコンの涼しい風がさらさらと流れていた。
レンはうつぶせになって、頬を畳につけたまま、おじいちゃんの筆先を見ていた。
すう、と黒い線が引かれる。
止まる。
また、すう、と動く。
窓の外では蝉が鳴いているのに、この部屋だけは別の季節みたいだった。
「なんて書いたの?」
おじいちゃんは筆を置いて、少し離れた。
「一陰始生、だよ」
「いちいんしせい?」
レンは口の中で転がしてみた。
「ふーん」
意味はわからない。
でも。
「なんかカッコいい。僕にも書いてよ」
「いいとも」
おじいちゃんは笑って、もう一枚の色紙に同じ字を書いてくれた。
墨の匂いが少しした。
レンはそれを抱えて立ち上がった。
襖を開ける。
むわっ。
熱気が顔にぶつかった。
「うわぁ……」
思わず眉が下がる。
台所ではお母さんが鍋をかき混ぜていた。
「お母さん、今日は僕も書いて貰った」
「よかったわね」
「ねえ、なんでクーラーつけないの? 暑いよ」
額をぬぐう。
じっとしているだけなのに首の後ろがべたべたする。
「台所は火を使うからよ」
お母さんは苦笑した。
「もう少しだから我慢して」
「えぇー……」
色紙でぱたぱた扇ぐ。
少し涼しい。
でも少しだけだ。
「ね、これってどういう意味?」
「どれ?」
「いちいんしせい」
「一陰始生?」
お母さんは首を傾げた。
「さあ、なんだろう」
「知らないの?」
「知らないわねぇ」
鍋の蓋を開ける湯気が、もわっと上がる。
レンは肩を落とした。
「ほら、ここは暑いでしょ。おじいちゃんに聞いてみたら?」
「うん……」
そう言いながらも足が重い。
せっかく涼しい部屋に戻るだけなのに、なんだか面倒な気もした。
ふとスマートスピーカーが目に入る。
「あ」
少しだけ背筋が伸びた。
「OK Google」
ぴこん。
返事が返る。
レンは色紙を見ながら言った。
「いちいんしせいってどういう意味?」
少し間があった。
そして、
「ウマク聞キ取レマセンデシタ」
「えっ」
レンは目をぱちぱちさせた。
もう一回。
「いちいんしせい」
「ウマク聞キ取レマセンデシタ」
「なんで!?」
三回目。
だめ。
四回目。
だめ。
「……だめかぁ」
力が抜けた。
相手が機械なのに負けた気がする。
蝉の声だけがやたら大きく聞こえた。
襖を開ける。
ひやり。
「あー……」
思わず長い息が漏れる。
生き返る。
レンは色紙を抱えたまま、おじいちゃんのところへ戻った。
「おじいちゃん」
「うん?」
「いちいんしせいってどういう意味?」
おじいちゃんは少し考えた。
それから筆を洗う手を止めた。
「ふむ」
レンは自然と姿勢を正した。
なんだろう。
難しい話が始まる気がする。
「レンに説明するなら――」
おじいちゃんは静かに言った。
「光が極まったとき、最初の影が生まれる」
レンは瞬きを忘れた。
「うわ」
胸の奥がちくっとした。
意味はわからない。
でも。
「なにそれ」
もう一歩近づく。
「かっこいい」
おじいちゃんは笑った。
「『ずっと勝ち続ける』とか『ずっと夏』みたいなことはないんだ」
蝉の声が遠く聞こえる。
「いちばんになった瞬間に、次の変化がもう始まっている」
おじいちゃんは窓の外を見た。
白い光が庭を照らしている。
「その最初の小さな変化を『一陰始生』って言うんだよ」
「え?」
レンは色紙を見た。
一陰始生。
もう一度見る。
やっぱり意味がよくわからない。
夏なのに終わりが始まる?
勝ってるのに変わる?
光なのに影?
頭の中で言葉がぐるぐる回る。
「はーい……」
返事をしてみる。
「わかった?」
と聞かれたら困るくらいには、わからない。
「かな?」
少し考える。
「あれ?」
ますますわからない。
おじいちゃんは声を立てずに笑った。
「いいんだよ、レン」
そう言って、色紙を指さした。
「言葉は昔の人や他の国の人も、みんなで長い時間をかけて作ってきたものだからね」
レンは黙って聞いた。
「ゆっくり時間をかけて意味を考えればいいんだ」
おじいちゃんは自分の色紙を眺めた。
「おじいちゃんも、この色紙を飾って眺めながら考える」
それからレンの色紙を見る。
「レンも、見ながらいろいろ考えるといい」
風が吹いた。
紙の端が少し揺れた。
「難しいことは、そうやって味わえばいいよ」
レンは色紙を見た。
さっきまでただカッコいいだけだった字が、少しだけ違って見える。
意味はわからない。
でも、それでいいらしい。
それがなんだか不思議だった。
「そうか」
小さくうなずく。
そして、
「……なんか今のおじいちゃんの方がカッコイイ気がする」
ぽろりと言った。
おじいちゃんは目を丸くした。
「それはありがとう」
その時だった。
襖が開いた。
「お昼ごはんできましたけど」
お母さんが顔を出す。
「台所は暑いから、こちらで食べられます?」
レンは心の中で賛成した。
もちろんだ。
ここは涼しい。
向こうは暑い。
考えるまでもない。
けれど。
「いや」
おじいちゃんは立ち上がった。
「冷やし過ぎると体に悪いからな。台所で食べよう」
「えぇ……」
レンの口から思わず漏れる。
でも次の瞬間、ふとさっきの言葉が浮かんだ。
涼しい部屋。
暑い台所。
気持ちいい方ばかりじゃない。
夏の真ん中にも次の変化がある。
たぶん、そういうことなのだろうか。
レンは色紙を見た。
墨の黒が静かに光っていた。
「……一陰始生?」
おじいちゃんは振り返った。
「はは」
目を細める。
「そうだね。レン」
蝉の声が聞こえる。
外は相変わらず暑い。
けれどレンは、さっきより少しだけ、その暑さが気にならなくなっていた。




