蓮
「レン、起きなさい!」
まだ外が青白いころ、お母さんに肩をゆすられた。
「えぇ……まだ眠いよ。」
「今日は蓮の花が咲く日なの。朝しか見られないんだから。」
レンは大きなあくびをしながら、しぶしぶ布団を出た。
近くのお寺の池には、大きな蓮の葉が何枚も浮かんでいた。
朝露がころころ転がり、丸い葉の上で小さな宝石みたいに光っている。
「まだ咲いてないね。」
「もう少し待ってごらん。」
しばらくすると、一つのつぼみがふくらんだ。
朝日を受けて、花びらが少しだけ動く。
そのときだった。
「……ポン。」
レンは思わず顔を上げた。
「今、音がしなかった?」
お母さんは首をかしげる。
「どうかしら。」
風もない池は静かだ。
けれどレンには、花が「おはよう」とあいさつしたような、小さな音が聞こえた気がした。
そして花びらは、一枚、また一枚と、ゆっくり開き始めた。
まるで深呼吸をするように。
ぎゅっと閉じていた花びらが、一枚、また一枚と静かに開いていく。
「わあ……。」
レンは眠気も忘れて見入った。
誰も急がせない。
誰も競争しない。
ただ朝日を受けて、ゆっくり、ゆっくり花が開いていく。
「きれいだね。」
その言葉だけが自然に口からこぼれた。
家へ帰ると、急に眠気が戻ってきた。
「やっぱり早起きは眠いや。」
レンは布団にもぐりこむと、あっという間に夢の中へ落ちていった。
その夢の中で――
ふわりと甘い香りが漂った。
池いっぱいに蓮の花が咲いている。
その中の一輪が、朝見たときよりもゆっくりと花びらを開いた。
そして、その中心には白い衣をまとった小さな精霊が座っていた。
「ようやく、あなたの夢まで根が届きました。」
「え?」
レンは目をぱちぱちさせた。
「根?」
精霊はにっこり笑う。
「わたしたち蓮は、花だけ見られることが多いのです。でも、本当は泥の中で伸びる根があってこそ、美しい花を咲かせられるのですよ。」
「そうなんだ。」
「そして、その根は、あなたの知っている名前でもあります。」
「名前?」
「れんこん、です。」
レンは思わず顔をしかめた。
「うわ……。」
精霊はくすっと笑った。
「その顔を見ると、あまり好きではありませんね。」
「だって、穴があいてるし、しゃきしゃきしてるし……。」
「でも、そのれんこんは、わたしたちの根なのです。」
精霊は花びらをそっとなでた。
「花だけが蓮ではありません。
葉も、茎も、根も、みんなで一つの蓮なのです。」
レンは池を見渡した。
水の上にはきれいな花。
その下には長い茎。
さらに泥の中には、見えない根。
「見えないところがあるから、花が咲くんだ。」
「その通りです。」
精霊はうれしそうにうなずいた。
「れんこんには、たくさん穴があいています。」
「うん。」
「昔の人は、その穴の向こうまで見えることから、『先が見通せますように』と願って食べました。」
レンは自分の名前を思い出した。
「ぼくもレンだけど。」
「ええ。同じ名前ですね。」
精霊は小さくお辞儀をした。
「だから、一度だけでも、わたしたちの根を食べるときは、『ありがとう』と思ってくださるとうれしいのです。」
夢の景色が朝日に溶けるように白くなっていった。
「じゃあ、また。」
「また花が咲く朝に。」
目を開けると、お昼前だった。
「よく寝た……。」
台所からいい匂いがする。
「今日のお昼は、れんこんのきんぴらよ。」
お母さんの声に、レンはいつものように「えぇー」と言いかけた。
でも、その前に夢を思い出した。
泥の中で花を支える根。
白い衣の小さな精霊。
「……一つだけ食べてみる。」
お母さんは少し驚いた顔をした。
レンは一本つまんで口に入れた。
しゃきっと音がした。
思っていたより甘くて、かむほどにやさしい味がした。
「どう?」
「……もう一本なら、食べてもいい。」
お母さんはにっこり笑った。
その日の夕方、池では朝に咲いた蓮の花が静かに閉じ始めていた。
けれど泥の中では、誰にも見えない根が、今日もゆっくりと伸び続けていた。
花は朝だけ開く。
でも、根は一日中、誰かを支えているのだった。




