花菖蒲
雨がしとしと降る土曜日。
レンは図書館から借りた本を読み終えて、窓の外をぼんやり眺めていた。
庭のあじさいは色づき始めている。
そのとき、スマートスピーカーが突然光った。
「たいへんだよ、レン!」
小さな文字をぱらぱらこぼしながら、ことはが飛び出してきた。
「『花菖蒲』って言葉が呼んでる!」
「花菖蒲?」
「うん! 今しか会えない言葉なんだから!」
「また急だなあ。」
ことははレンの肩まで飛んできて、小さな手を引っぱった。
「見に行こう!」
近くの公園には、小さな花菖蒲園があった。
雨粒を受けながら、紫や白、青い花が静かに並んでいる。
「きれい……。」
レンは思わず足を止めた。
「でも、不思議だな。」
「なにが?」
「花って、晴れの日のほうが目立つのに。」
ことはは得意そうに胸を張る。
「そこなんだよ!」
「え?」
「花菖蒲はね、雨の日まできれいに見えるようなお花なんだ。」
レンは首をかしげた。
「そんなこと考えて咲くの?」
「もちろん、お花が考えたわけじゃないよ。」
ことはは花を見上げた。
「昔の人がね、この花を見て、そう感じたんだ。」
二人は木の橋を歩く。
池には細い雨が輪を作っていた。
「『菖蒲』っていうと、五月五日にお風呂へ入れる葉っぱもあるよね。」
「そうそう!」
ことははうれしそうにくるりと回る。
「でも、あれと花菖蒲は、実は別のお花なんだ。」
「えっ、そうなの?」
「葉っぱが似ているから、『菖蒲』って名前がついたんだよ。」
「へえ。」
レンは花を近くで見た。
ひらひらした花びらが、雨を受けても少しも下を向かない。
「なんだか……。」
「なあに?」
「着物みたい。」
ことはの目がぱっと輝いた。
「そう! そういうこと!」
「昔の人も、花びらを着物や扇みたいだって思ったんだよ。」
「だから、こんなに上品なんだ。」
少し歩くと、一人のおばあさんが立ち止まり、花を見ていた。
「毎年楽しみにしてるの。」
そう言って、小さく笑う。
「この花を見ると、梅雨も悪くないなあって思えるのよ。」
そう言って去っていった。
レンはその後ろ姿を見送った。
「花を見に来たっていうより……。」
「季節に会いに来たみたいだったね。」
ことはは静かにうなずいた。
「うん。」
「花菖蒲はね、雨の季節を嫌わない花なんだ。」
「みんなが家の中で空ばっかり見てるころに、『足もとを見てごらん』って咲いてくれる。」
レンは花を見つめた。
さっきより雨が少し強くなっている。
それでも花は、すっと立っていた。
帰り道。
ことはがぽつりと言った。
「言葉も、お花と似てるんだ。」
「どういうこと?」
「にぎやかな季節に目立つ言葉もあれば、静かな季節だから思い出される言葉もある。」
「花菖蒲っていう言葉は、雨の日に一番きれいなんだ。」
レンは空を見上げた。
灰色の雲はまだ厚い。
でも、さっき見た紫色が目に残っている。
「ねえ、ことは。」
「ん?」
「雨の日って、悪い日ばかりじゃないんだね。」
ことははにっこり笑った。
「そうだよ。」
「晴れの日は空を見るでしょう?」
「でも雨の日は、人は少しだけ近くを見る。」
「だから、足もとで咲く花に気づけるんだ。」
レンは小さく笑った。
帰り道の水たまりには、空ではなく、紫色の花が映っていた。




