37日目
意識はまず、光として訪れた。瞼の裏を暖かなオレンジ色が、優しく撫でていく。
次に匂い。消毒薬でも、カビでも、腐敗臭でもない。古い紙と陽に干したリネンの清潔な匂い。そして、音。轟音も、サイレンも、絶叫もない。ただ遠くで聞こえる、人の話し声とページをめくる乾いた音だけ。
博はゆっくりと目を開けた。
見慣れない、高い天井。視界の端に、巨大な書架の影が見える。ミスカトニック大学の図書館の一室らしかった。彼は簡素だが清潔なベッドの上に横たわっていた。
「……起きた」
か細いが、芯のある声がした。視線を巡らせるとベッドの脇の椅子にサラが座っていた。彼女は、彼の顔をじっと見つめていた。その青い目の周りは、少し赤く腫れている。
「死んじゃったのかと思って、心配した」
その言葉は、かつて、グレンフィールドのあの家で聞いたものと全く同じだった。しかし、その響きはどこか違っていた。不安げだった少女の声は、今は確かな安堵と深い親愛の情に満ちていた。博は何か答えようとしたが、乾いた喉からは、かすれた息が漏れるだけだった。彼は、ただ力なく微笑んだ。
サラは、ぱっと顔を輝かせると椅子から飛び降りた。「みんな、呼んでくるね!」
パタパタという小さな足音が遠ざかっていく。やがて、複数の足音が、こちらへ近づいてきた。
最初に部屋に入ってきたのは、アーミテイジ教授だった。彼は博の額にそっと手を当てると「よかった……本当によかった」と、心からの安堵の声を漏らした。次に、車椅子に乗ったスミスさんが、涙ぐみながら、何度も頷いている。それから、ディーンがベッドの脇に立った。その無骨な手が、博の肩を不器用に、力強く、一度だけ叩いた。
人々が左右に分かれる。その間から、一人の男が博の前に進み出てきた。
歳はディーンと同じくらいだろうか。その体つきは元軍人のディーンとは違い、もっとずんぐりとして、頑健だった。日に焼けていない白い肌。鋭く、探るような光を宿した瞳。独特の雰囲気をまとっていた。
博はその顔を初めて見た。
男は何も言わずに、ただ博をじっと見下ろしている。博はのろのろと体を起こした。
「初めまして……というのも何か変か」
男が口を開いた。その声は無線機を通して聞いてきた、あの声だった。
その言葉に博はその口の端をわずかに歪めた。笑いとも苦笑ともつかない、複雑な表情だった。
そして、博はかすれた声で言った。
「ええ、そうですね。でも初めまして、ダンカンさん」
ダンカンの顔にどこか照れくさそうな笑みが浮かんだ。それはこの死の世界で、声だけで繋がっていた二人の生存者が、ようやく本当の出会いを果たした瞬間だった。




