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ミスカトニック大学留学記  作者: 里見さと子


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33日目④逃走

 サイレンの絶叫は、時間を歪ませるかのようだった。一分一秒が、何十倍にもに感じられる。博は制御室の窓から、濁流と化していく川面をただじっと見つめていた。カウントダウンの時計がゼロを指し、制御盤のランプが緑色に変わった瞬間、ダムの構造物全体が巨大な振動に包まれた。



 地響きとともに緊急放水ゲートが、ゆっくりと開かれていく。ダムに溜め込まれていた、数百万トンの水が白い飛沫と轟音を伴って、一つの巨大な奔流となり、下流へと解き放たれていった。



「……よし」



 放水が正常に始まったことを確認し、彼は一瞬の安堵のため息をついた。しかし、安堵に浸る時間は、一秒たりとも残されていなかった。



 彼は窓の外、ダムへと続く唯一の道に目を凝らした。雨と霧の向こう、闇が迫る森の中から、何かが、蠢きながら現れ始めていた。一体、二体ではない。数十、数百。かつて町の北側を埋め尽くしていた、あの死者の群れが、サイレンの音に導かれ巨大な津波となって、このダムへと殺到してきていた。



 もう、ここに留まることはできない。



 博は鉄パイプの槍を手に、制御室を飛び出した。唯一の逃げ道は、アーミテイジ教授が去った道とは反対側。ダムの天端を渡り、対岸の山道へと抜けるルートだけだ。



 彼は豪雨の中を、全力で走った。ダムの天端は狭く、滑りやすい。すぐ脇では、濁流が轟音を立てて流れ落ちていく。一歩間違えれば、濁流に飲み込まれてしまうだろう。



 そして、対岸からも、すでに死者たちが姿を現し始めていた。彼らは、サイレンの音源である、このダムを目指し、両岸から博を挟み撃ちにする形となっていた。



「くそっ!」



 博は槍を振るい、正面から迫ってくる一体の頭部を突いた。だが、その一体を倒したところで、後ろから、さらに二体が迫ってくる。雨で視界が悪く、足元も覚束ない。槍を振るうたびに、体力が、体温が、容赦なく奪われていく。



 少しずつ、確実に、彼は追い詰められていった。前にも、後ろにも、死者の壁。



 その時、彼の視界の隅に、ダムの脇から丘の上へと続く、古い石段が映った。地図で見た、あの古い共同墓地へと続く道だ。



 それは正規のルートではなかった。それでも、今の彼にとって唯一、死者の壁が薄い、一点の突破口だった。彼は最後の力を振り絞り、向かってくるゾンビの体を突き飛ばし、その石段へと転がり込むように駆け上がった。



 背後からは、おびただしい数の呻き声と濡れた地面を引きずる足音が、すぐそこまで迫ってきている。博は振り返ることなく、ただひたすらに雨に打たれる無数の墓石が立ち並ぶ、丘の上の闇へと逃げ込んでいった。

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