33日目③スイッチ・オン
夕方。ミスカトニックダムの制御室に、二つの選択肢が重くのしかかっていた。ダムの決壊によるアーカムの町の水没か。あるいは、サイレンによって無数の死者をこのダムへとおびき寄せ、決死の籠城戦を挑むか。
「システムによると、スイッチを押してから実際にゲートが開くまで猶予があります」博が制御パネルを指差しながら言った。「サイレンが鳴り響き、その30分後に放水が始まる仕組みです」
30分。その時間は逃げるためにあるのか、戦う準備をするためにあるのか。
アーミテイジ教授は、窓の外でさらに勢いを増す豪雨を見つめていた。「……ヒロシ君。我々に、考えている時間はないようだ」
彼の視線の先で、ダムの壁面から溢れ出す水の量が明らかに増えていた。ギシギシ、とコンクリートの構造物全体が、悲鳴をあげているかのような、不気味なきしみ音が轟音に混じって聞こえてくる。
決断の時は、今だった。
「教授」博はきっぱりと、決意を込めて言った。「あなたは車で大学へ戻ってください」
「……なんだと?」
「この状況を大学の皆に伝え、備えさせることができるのはあなただけです」博は教授の目を、まっすぐに見つめた。「僕はここに残ります。僕がスイッチを押し、放水が正常に行われるか確認する」
それは、あまりにも危険な提案だった。教授は激しく首を振った。「駄目だ! 君を一人、ここに残していくわけには……」
「時間がないんです」博の声が制御室に響いた。「僕一人なら、何とか逃げ切れるかもしれない。でも、二人では、お互いが足手まといになるだけです」
その言葉に、教授はぐっと唇を噛んだ。博の言う通りだった。感傷に浸っている場合ではない。それぞれが、最も生存確率の高い、合理的な判断を下すべきだった。
教授は博の肩を強く掴んだ。「……必ず、生き延びろ。我々が、必ず助けに来る」
「はい」
短い別れの後、アーミテイジ教授は豪雨の中へと駆け出していった。博は窓から、電気自動車が水しぶきを上げて走り去っていくのを見送った。車の赤いテールランプが、雨のカーテンの向こうに消えた時、彼は一人になった。
あとは教授が大学へ戻れるだけの時間を待ってから、スイッチを押すだけだった。
鉄パイプの槍をすぐ手に取れる場所に置く。準備はできた。
彼は制御盤の前に再び立った。躊躇うことなく、赤い保護カバーを跳ね上げ、その下にある、巨大なスイッチに手をかけた。
「……やるか」
彼がスイッチを押し込んだ瞬間。
ダム全体が震えるほどの、けたたましいサイレンが鳴り響いた。それは世界の終わりを告げる、巨大なラッパの音のようだった。雨音も、水の轟音も、すべてをかき消す、絶対的な音がアーカムの谷間に、その先に広がる死の世界へと、響き渡っていった。
博は槍を強く握りしめた。30分後、水の壁がこのダムから解き放たれる。そして、それよりも早く、音に引き寄せられた死の津波がこの場所へと殺到してくるだろう。




