33日目②緊急放水スイッチ
豪雨は、ミスカトニックダムに、終末のような光景をもたらしていた。空から叩きつける雨と、ダムの壁面から溢れ出す濁流が轟音を立ててぶつかり合い、あたり一面に白い水煙を巻き上げている。
博とアーミテイジ教授は、車を降り、ずぶ濡れになりながら、ダムの管理事務所へと向かった。事務所のドアは破られており、中には人の気配はなかった。しかし、その先の制御室へと続く廊下で、彼らは数体の「何か」に遭遇した。作業着を着た、かつてはダムの職員だったであろうゾンビたち。
二人は大学から持ってきた、先端を尖らせた鉄パイプの槍を構えた。狭い廊下では、リーチの長いこの武器が有効だった。博が一体の注意を引きつけ、その隙に教授が、その年齢からは想像もつかない正確さで、背後から頭部を突き刺す。その連携は、何度も訓練を積んできたかのように、スムーズだった。数分の音のしない死闘の末、制御室への道は確保された。
制御室は無数のモニターと複雑な制御盤で埋め尽くされていた。幸い、非常用電源が生きているらしく、いくつかのランプが点滅している。博はすぐさまメインの制御パネルに取り付き、システムの状況をチェックし始めた。アーミテイジ教授が壁に貼られたマニュアルを読み上げ、博を補助する。
「……まずいな」
数分後、博は深刻な表情で呟いた。モニターに表示されたデータは、絶望的な状況を示していた。降り続く豪雨によって、ダムの貯水量は、すでに危険水位を大幅に超えている。いくつかの水圧センサーが、異常な数値を叩き出していた。
「このままでは、あと数時間で、ダムの構造自体が、限界を迎える」博は、結論を告げた。「緊急放水ゲートを開けて、一気に水位を下げるしかない」
問題は、どうやってそのゲートを開けるかだった。制御パネルには、鍵穴のついた手動のオーバーライドスイッチがあった。緊急時にすべての安全装置を無視して、ゲートを強制的に開放するためのものだ。
「鍵だ」教授が言った。「おそらく、責任者が持っていたはずだ」
二人は先ほど倒したゾンビたちの元へと戻った。悪臭に耐えながら、一体一体、そのポケットを探っていく。
一番体格のいい、おそらく現場の責任者だったであろう男の作業着の内ポケットから、一本の重々しい銅製の鍵を見つけ出した。体液にまみれた鍵は機械室のグリスとも違う、もっと有機的で、石油そのもののような生々しい匂いがした。
再び制御室へ戻り、博はその鍵を制御盤の鍵穴に差し込んだ。カチリ、と硬質な音が響く。あとはこの赤いカバーを上げ、中のスイッチを押すだけだ。
彼がカバーに手をかけた、その時だった。制御盤の隅にある、小さなスピーカーのアイコンと「広域警報システム」という文字が、彼の目に留まった。
「教授、これは……」
アーミテイジ教授がマニュアルの該当箇所を指差した。「……緊急放水を行う際、下流の住民に危険を知らせるため、ダムに設置されたサイレンが、自動的に、最大音量で鳴り響く、と書いてある……」
二人は顔を見合わせた。
サイレン。
最大音量で広範囲に鳴り響く、巨大な音。それはダムの決壊という、目先の危機を回避するための唯一の手段であると同時に、アーカムの町にいるすべての死者を、そしてダンカンのシェルターを包囲する、あの巨大な群れをダムへと引き寄せてしまう、最悪のトリガーでもあった。




